第一二四話 命名の由来
ティンときた。徐福は……徐庶に改名するつもりにちがいない!
……しかし、藷蔗畑に感動したから徐庶に改名って、そんなダジャレみたいな理由でいいのだろうか?
日本語で読んだ場合にかぎらず、この時代の中国語の発音においても、藷蔗と徐庶はかなり似通っているのである。
「一度でいい、母を郷里につれていきたいのです。しかし、私は過去に罪を犯しました」
と徐福は眉間にしわを寄せた。
その声は悩ましげで、とても冗談をいいだしそうな雰囲気ではなかった。
「曹丞相に仕えることになった際、赦免された身とはいえ、過去が消えるわけではありません。私が悪びれもせず郷里にもどり、そのせいで、かつて私を逮捕した役人たちが肩身のせまい思いをするとしたら、それは道理が通らぬ話でございましょう。過ちを犯したのは私であり、彼らはまちがっていないのですから」
「赦免に甘えず、自分の名を捨てようということか」
話の内容も、徐庶の態度も真剣そのものだったので、私の反応も大まじめである。
「はい。そして、名を改めるのであれば、あらたな名に誓いを立てねばなりますまい」
私の胸に戦慄がはしる。
彼は……この空気からダジャレへつなげるつもりなのだろうか?
「藷蔗畑を見て、痛烈に感じ入ったのです。いままさに、この地からひとつの産業が興ろうとしている。既存の社会に存在しなかった富と生業が生まれようとしている。こうして人々は豊かになっていくのだ、と。同時に、自分の心のなかにある想いを、つきつけられたようにも感じました」
徐福は声を切り、視線と声に力をこめた。
「虐げられる庶民を守り、彼らの暮らしぶりを豊かにしたい。口に出すのもはばかられますが、かねてより私はそう願っておりました。であるのなら、この機に庶と名乗り、あらためてその名に誓いを立てよう、と考えております」
……庶民の庶?
くそうっ、なんてややこしい。
ダジャレなのかい、まじめな話なのかい、どっちなんだい!?
判断しかねるが、ダジャレが不発に終わった場合と、まじめな話を笑われた場合とでは、後者のほうがダメージが大きいはずである。
「徐庶……徐庶か。……ふむ、よき名であるな」
相手の心情をおもんぱかった私は、とりあえず、まじめな話として受けとめることにしたのであった。
「……というわけなのだが、これが難航していてな……」
私は、広陵ならではの甘味を開発しようとしていることを打ち明けた。
すると、徐福、いや徐庶はあごに手をあてて、首をかしげた。
「広陵ならではの食材でございますか? ……それこそ、陳登どのが一番くわしいのではないでしょうか?」
「うむ。私もそう思って陳登どのの料理人に訊ねてみたのだが、なかなか妙案が浮かばなくてな」
「私も何度か陳登どのに招かれ、食事をともにしたことがありますが……」
いくら徐庶がすぐれた人物であろうと、これは戦略や戦術の話ではないのだ。
答えが返ってこなくても当然だろうと思っていたのだが、私の予想は外れた。
「一番驚かされたのは、蛤の煮こごりでしょうか」
「ほう?」
この時代にも、煮こごりは存在する。
一般的には羊肉でつくられる。たしかに蛤はめずらしい。
「蛤の貝殻をあけると、貝殻の形そのままに固められた蛤の煮こごりが入っているのです。なんでも石花菜という海藻で固めているとか」
石花菜……?
海のものだから陸渾では見かけたことがないが、存在自体は知っている。
華佗の青嚢書にも載っていた。
肺の熱、痰をともなう咳、下半身の冷えや便秘に効くとされる薬である。
小さな木に不規則な枝がたくさん生えているような形状をしていて、色は赤紫、茶、淡黄色とさまざま。煮汁を濾過して冷ますと固まる性質があるそうだ。
海藻で固まる性質があるとなると……もしかしたらテングサみたいなものじゃないだろうか?
だとしたら、寒天がつくれるわけだが……。
ふむ、方向性が見えてきたような気がする。
そんなわけで、昨日につづいて、私は厨房に足をはこんだ。
石花菜があるか訊ねてみると、料理人は意外そうな表情を浮かべて、
「石花菜ですか? ございますけど……煮こごりぐらいにしか使いませんよ。磯の香りが強いので、甘味には相性が悪いと思うのですが……」
むむむ。
ところてんの香りを強くしたような感じだろうか?
あまりに匂いが強烈だと、やはり海の幸の煮こごり用で、甘味にはむかないのかもしれない。
私が渋い顔をすると、別の料理人がなにかを思いついたように、
「いや、そうともかぎらないぞ。何度も天日干しして白くなった石花菜なら、磯の香りも弱くなる。甘味にだって使えるかも……」
できそうなの!?
なら、つくるべきものは決まった。
料理人たちに協力してもらいながら、私は新メニューの開発にとりかかる。
試作がかさねられた。
厨房の全員が、満場一致で称賛する水準の品ができるようになったところで、ついにお披露目のときがやってきた。
「いよいよですな」
陳登が期待をこめてニヤリと笑った。
「ふふふ。よいものができたと自負しておる。きっと陳登どのもよろこんでくれよう」
私は悠然と白羽扇を揺らめかせて、自信をのぞかせる。
徐庶はというと、若干苦笑気味のようであった。
私と陳登がただよわせる、無駄に緊迫した空気に、入りこめていないのだろう。
それはまあ、当然である。
私と陳登は協力しているのであって、対決しているわけではないのだから。
だがしかし、ある意味、食通同士のプライドを賭けた真剣勝負ともいえるわけでして。
私には見えるッ!
陳登の身体から発せられる食通オーラが、私のオーラとぶつかりあっているのがッ!
この勝負、勝たせてもらうぞ、陳登ッ!
……私たちが待つ部屋に、料理人が入ってきた。
手にした膳には覆いがしてあって、中身が見えないようになっている。
「孔明先生が考案した甘味を、お持ちいたしました」
料理人はそういって、私たちの中央に膳を置いた。
よしよし、私の指導に忠実な手順である。
料理人が覆いを取ると、中には小皿が三枚。
その上に乗せられているのは、オレンジ色で透明感のある、円錐台形の物体だった。
柑子のゼリーである。
そして料理人は、私が指示したとおりのセリフを、うやうやしくいった。
「温州蜜柑でございます」
……ふう。その言葉が聞きたかった。
いや、三国志といえば温州蜜柑なのだ。誰がなんといおうと温州蜜柑なのだ。
けれど、温州なんて地名は知らないし、蜜柑らしい蜜柑も存在しない。
だったら……私がつくってしまってもかまわんのだろう?
料理人が中央に置いた膳からゼリーの小皿を取り、私たちの前に置かれた空の膳に載せていく。
「おお、これは見事な」
徐庶は子どものように目を輝かせ、柑子ゼリーに見入った。
陳登も食い入るようにゼリーを見つめて、
「なんと美しい。……しかし、孔明先生。なぜ、温州蜜柑なのですか?」
口元をほころばせながらも、疑問を発した。
それでは、この私が、こじつけさせていただこう。
オホン、と咳払いをしてから、
「説明いたそう。この甘味は温暖な気候ならではの石蜜と柑子を、石花菜で固めたもの。それゆえ、温州蜜柑と命名させていただいた」
「……広陵蜜柑ではいけないのでしょうか?」
陳登のいいたいことはわかる。
彼からすれば、広陵蜜柑という名でなんの問題もないのだ。
なので、わざわざ温州などという、架空の地名を冠する理由も用意してある。
「もとより柑子の産地は南方に多い。数十年もすれば石蜜の生産も各地で盛んにおこなわれるようになろう。広陵蜜柑と名づければ、呉蜜柑や会稽蜜柑に取って代わられる可能性が出てくる」
「なるほど……。温州という特徴をとらえた名にしておけば、どこが後追いしてこようが人々の口にのぼる名は温州蜜柑のまま……」
徐庶があいづちを打った。ナイスアシストである。
陳登も納得がいったらしく、うなずいて、
「そして、温州蜜柑はあくまで広陵発祥の甘味、ということでございますな……」
徐庶と陳登はゼリーに匙を入れた。
口にはこんで、じっくりと味わう。
徐庶が、ふう、と息を吐いた。
「……すばらしい。いまだかつて、このような爽やかな甘さは味わったことがありませぬ」
見た目、スッキリした甘み、そして食感。
どれも自信がある。完璧に近いはずだ。
陳登もまた、余韻をゆっくりと味わってから、
「ああ……舌の上で軽やかに踊る甘み……。石花菜と果実の組み合わせが、こうも見事な作品になるとは……。この陳登、万謝にたえませぬ」
といって、感嘆の息を吐くのであった。
※
温州蜜柑は、三世紀初頭、胡昭によって考案されたゼリー菓子。
肉・魚類の煮汁が冷えると固まること、あるいはテングサを煮溶かして冷ますと同様の性質があることは古くから知られており、中国やローマには紀元前から煮こごり料理が存在していた。
温州蜜柑は、この性質を利用してつくられた歴史上最古の菓子である。
隋王朝の開皇三年、西暦五八三年。隋の初代皇帝楊堅が、郡を廃して州県制とした際には、温州蜜柑に由来して初めて温州が置かれ、広陵県が州治となった。
温州蜜柑 wiikiより一部抜粋




