第一二三話 改名
地図づくりは鄧艾と石苞にまかせて、私は陳登とともにひと足早く広陵県にもどった。
私抜きで地図をつくらなければならない弟子たちも少々気がかりではあるが、本当に心配しなければならないのは、この地域の特色を生かした甘味を開発しなければならない私自身である。
広陵ならではの食材となると、やはり海の幸だろうか。
海産物のスイーツ?
…………た、たい焼き。
だめだ。たい焼きは魚の形をしているだけで、海産物を使用しているわけではない。……なんも思い浮かばん。
そもそも、海産物と甘味の組み合わせがピンとこない
いったん、海からはなれて考えたほうがよさそうである。
広陵のもうひとつの特徴は、なんといっても温暖な気候であろう。
そう、フルーツだ。南国といったらフルーツである!
果物だったら、甘味との相性もいいにちがいない。
私はさっそく、陳登の料理人たちに聞き取り調査をおこなうべく、厨房にむかった。
広陵城の厨房は手入れが行きとどいており、衛生的で、なにより活気があった。
食道楽の陳登が、料理人たちの労働環境にも気を配っているのがうかがい知れる。
もちろん、各地から料理人と食材が集まってくる銅雀台とは比較しようもないが、料理人たちの顔はそれに負けず劣らず生き生きとしている。あと殺気立っていないので声をかけやすい。
私がこの地域で採れる果物を訊ねると、ある料理人はこう答えた。
「柑子や橘子といった、柑橘類の種類は豊富ですよ」
ふむ。三国志で最も印象的な果物といえば、曹操と左慈の話に出てくる温州みかんであろう。
ある日、温州みかんが曹操に献上された。よろこんだ曹操が皮をむくと、なぜか中身が空である。代わりに仙人の左慈に皮をむかせてみると、果肉がちゃんと詰まっている。ところが、曹操が何度皮をむいてもみかんは皮だけだった。このあとも左慈に翻弄されつづけた曹操は、ついに左慈を切り捨てろと命じるのだが、左慈は仙術を駆使して悠々と逃げ去っていく、という話である。
もっとも、現時点で温州みかんなるものは存在しない。っていうか温州ってどこよ?
「広陵の特産というと、梨や梅でしょうか?」
と別の料理人はいった。
梨も梅も、上流階級の人々に人気の果物である。
梨はそのまま、梅は蜂蜜漬けにしたものが好まれる。
「めずらしいものとしては、彌猴桃も少量ですが採れますよ」
またちがう料理人が、首をひねりながらいった。
彌猴桃――キウイフルーツのことである。キウイといえばニュージーランドのイメージがあるが、この時代に存在するのだから、もしかすると原産地は中国あたりなのかもしれない。
いずれにせよ、この時代の果物は酸味が強いものが多い。
梅は当然として、柑橘類も、梨も、キウイも、ビタミンあふるる野性的な味をしておられる。
砂糖があるから味はなんとかなるにしても、ただ単に砂糖漬けにするだけでは新メニューとは呼べないわけでして。
予想はしていたが、地域の特色を生かすという制限つきの甘味の開発は、ひと筋縄ではいかないようであった。
翌日、いくつか候補は浮かんだものの、「これが広陵発祥の甘味だ!」と断言できるほどしっくりくるものはなかった。
どれもこれも決め手に欠ける。
今日は市場でも見てまわろうか。
なにかヒントが転がっているかもしれない。
そう考えていたところに、役人がやってきた。
彼は、私が滞在している部屋の入り口で、
「孔明先生、お客人が面会をもとめておいでです」
「うむ?」
誰だろう?
役人は、面識はないようなのですが、と前置きしてから告げた。
「高郵県長の徐福どのです」
徐福……?
面識はないそうだが、まったく心当たりがないわけでもなかった。
今世ではなく前世の三国志のなかでだが、思い当たる人物はいる。
もっとも、その人物が徐福と名乗っていたのか確信はできないし、よくある名前だから別人かもしれない。
役人に案内されて、客間に移動する。
四十がらみの男が待っていた。
闊達そうな雰囲気を持つと同時に、どこかするどさを感じさせる。
彼は、私が手に持つ白羽扇をちらりと確認してから、流れるように拱手をした。
「潁川郡長社県出身。高郵県長の徐福、字は元直と申します。かねてより孔明先生にお会いしたいと願っておりました」
「潁川郡潁陰県出身の姓は胡、名は昭、字は孔明と申す」
拱手礼を返しながら、私は思った。
徐庶だ!
字が元直だから、徐庶元直にちがいない!
三国志ファンならおなじみ、徐庶は劉備の最初の軍師である。
彼は徐福、あるいは単福と名乗っていたともいわれている。どれが本名でどれが偽名なのか、いまいちはっきりしないが、この場で徐福と名乗っているのだから、とりあえず徐福が本当の名と見ていいのではなかろうか。
私と徐福が席に座すと、この部屋に案内してくれた役人が手際よく茶をいれ、「ごゆっくり」といって席を外した。
私たちは自己紹介がてら、簡単な身の上話をしあった。
徐福は若いころ、侠客のまねごとをしていたそうだ。
あるとき知人の仇討ちを手伝い、投獄されてしまった。
徐福が自由の身になれたのは、仲間が助け出してくれたおかげだという。
この件で、暴力しか解決策がなかった自分に嫌気がさした彼は、剣を置き、学問に傾倒するようになった。
しかし、自由の身になったといっても、大手を振って歩ける身ではない。
また、潁川に戦乱がせまっていたこともあって、荊州の襄陽へ避難したのだという。
襄陽では、水鏡先生こと司馬徽の門を叩いて、学問に精励した。
劉備に仕えたものの、曹操軍の荊州侵攻がはじまり、新野を追われた。
母が曹操軍に捕まってしまったために、劉備のもとを辞し、それからは曹操に仕えているのだという。
……ふむ。私の三国志知識と一致している。彼はまちがいなく徐庶である。
それはそれとして、徐福の仇討ち事件に関する噂話を、私は聞いたおぼえがなかった。
まあ、同じ潁川郡といっても、県がちがうとそんなものなのかもしれない。
ままある話だし、それほど大きな事件ではなかったのだろう。
「司馬徳操が襄陽でひらいた学問所には、優秀な人材が集まっていたと聞いておる」
と私は話を切り出した。徳操とは司馬徽の字で、彼は私にとって後輩にあたる。
徐福は昔を懐かしむような表情で、
「琅邪の諸葛孔明、襄陽の龐士元と向巨達、南陽の韓徳高と劉恭嗣、汝南の孟公威、潁川の石広元、梓潼の尹思潜に博陵の崔州平……。それはもう、目がくらむような賢才が数多く集まっていました」
「うむ。彼らの評判は私も聞きおよんでおる。だが、潁川の徐元直の名は聞いたことがない。おぬしほどの器量があれば、噂にならぬはずがないのだが……」
私が疑問を呈すると、徐福は微苦笑を浮かべた。
「私は潁川で罪を犯しました。私の名が広まれば、水鏡先生に迷惑がかかるかと思い、目立たぬようにしておりました」
……なるほど。
以前、私は諸葛亮・龐統・徐庶の三軍師を推挙しようとして、司馬徽の周囲にいる学士の噂を集めたことがある。
けれど、すぐに名が聞こえてきた諸葛亮・龐統とちがい、徐庶・徐福・単福といった人物の評判は拾えなかった。
結局、徐庶の推挙は断念しなければならなかったのだが、その原因が、いまになってようやくわかった。
周囲の賢才たちが、あくせく自分の名を売ろうとしているなかで、徐福は人目を引かないようにしていたのだ。だから、彼の評判を拾えなかったのだろう。
「孔明先生は、もう例の藷蔗畑をご覧になられたとか」
「おお、耳が早いな」
陳登もそうだったが、徐福も耳ざといようである。
どちらも優秀な人材だから、情報収集能力が高いのだろう。
「私も一度、陳登どのに案内してもらったことがあります。風光明媚な地は多々あれど、あの藷蔗畑ほど豊かな光景を、私は見たことがありません」
徐福は感じ入ったような顔つきで、ため息をついた。
「うむ。あれは……じつに豊かな光景であった」
私はうなずいてみせるが、内心では百パーセント同意しているわけでもなかった。
私だってすばらしいとは思ったし、感動もしたのだ。
けれど、探せばもっと豊かな光景はあるような気がする。
たとえば、視界いっぱいに、どこまでも畑が広がっている光景とか。
もっとも、私がそう感じるのは、もとから頭のなかに、さとうきび畑の光景が存在していたからかもしれない。
意外とちっちゃい畑だなぁ、なんて感想が頭のなかをよぎったのはナイショである。
「じつは、私は以前から名を改めようかと考えておりました」
徐福は、居住まいをただしていった。




