第一二二話 広陵の陳登
広陵郡は徐州の南端に位置している。
その郡治の広陵県を訪れた私は、陳登の馬車に同乗して、さとうきび畑があるという南の集落にむかっていた。
陳登の兵が護衛をつとめ、鄧艾と石苞も馬を借りて同行している。
鄧艾と石苞は、私の弟子になるまで、ほとんど乗馬の経験がなかった。
けれど、訓練してみたら、あっというまに馬に乗れるようになった。
もうすこししたら、当たり前のように馬に乗って外出するようになるだろう。
馬車のなかで、私はなますの話題をふった。
すると、陳登は在りし日を懐かしむような声で語りだす。
「郭嘉どのから聞きましてな。孔明先生は生の川魚を危険視している、と。それ以来、なますにするのは海の魚と決めているのです」
陳登はなますが大好物だそうだ。
けれど寄生虫にあたってのたうちまわり、さんざん苦しい思いをした。
このままではいけないと考えていたところに、郭嘉がやってきて、海の魚をすすめたのだという。
なますをあきらめきれなかった陳登は、なます料理に海の魚をもちいるよう料理人に命じた。
味もちがえば、身の締まりもちがう。
最初は陳登も料理人たちも川魚とのちがいに戸惑ってばかりだったが、試行錯誤をかさねるうちに、いまでは陳登自身が満足するほどのなます料理がつくれるようになったそうだ。
陳登は自信ありげにいう。
「新鮮な海産物を使った料理は、海沿いの土地ならではの郷土料理。海魚のなますは、きっと広陵発祥の料理として普及していくでしょう」
陳登どのの胃のなかには、なますへの飽くなき探究心と海の幸がおさめられているようである。
民は食をもって天となす。そんな言葉があるように、食事は重要視されていて、料理人の社会的地位もけっこう高い。
広陵発祥のなます料理が広まれば、陳登としては鼻高々であろう。
川魚の生食を滅し隊の隊長である私にとっても、非常に魅力的なビジョンである。
それにしても、陳登の生存フラグを立てていたのが郭嘉だったとは。
郭嘉が生きていたら、砂糖の国産化に成功したことを、きっと自分のことのようによろこんだだろう。砂糖を使った菓子を、美女にプレゼントしてまわったにちがいない……。
「そういえば孔明先生は、銅雀台であらたな料理を発表されたとか。無理にとはいいませぬが、うちの料理人たちにも教えていただければありがたいのですが」
「ははは。よろこんでお教えいたそう」
私は陳登の機嫌取りに余念がない。
陳登の好感度イコールゆずってもらえる砂糖の量だと考えれば、いくらでも愛想を振りまく所存である。
「それにこんな話も聞いております。曹操さまの後継者問題について、孔明先生は黙して語らない態度を示されたとか」
うへえッ!?
広陵太守の陳登は、官職でいえば地方官だ。その彼まで知っているとは。
うかつなことをいわないでよかった。
彼が耳ざといだけかもしれないが、やはり人の耳が多い場所での発言は慎重にしなければならない。
そんな会話をしているうちに、目的地に到着する。
馬車から降りた私を、冬のきびしさを感じさせない穏やかな風が出迎えた。
滔々と流れる江水のほとりで、さとうきび畑が風にそよいでいる。
その葉は緑あざやかで、見るからに生命力に満ちあふれていた。
「…………」
なんと豊かな風景だろうか。
私が言葉を失っていると、陳登が感慨深げに目を細めた。
「ここまでくるのに十年近くかかりました。まだまだ畑の規模は小さいが、いずれは見渡すかぎりの藷蔗(さとうきび)畑にしてみせましょう」
陳登の言葉は現実になると私は思った。
よほど栽培環境に恵まれているのだろう。
さとうきびは力強く育っているように見える。
これなら作づけ面積を増やしていっても問題ないはずである。
この邑で収穫されたさとうきびは、陳登の居城がある広陵県にはこばれ、そこで砂糖が製造される。
ここではなく広陵県で製造しているのは、砂糖の着服や横流しをふせぐためである。
自分の居城であれば、陳登も細かいところまで監視できる。
そもそもこの邑自体、陳登がさとうきび畑のために一からつくった集落だそうだ。
本当に大変な苦労と努力をかさねてきたのだと、陳登には頭が下がる思いである。
私と陳登がさとうきび畑を眺めていると、鄧艾と石苞が足早に寄ってきて、石苞が口をひらいた。
「孔明先生、この邑の地図を作製する準備はできております」
私はうなずいて、
「うむ、さっそくとりかかるとしよう」
広陵城で、陳登と対面したときのことである。
この邑の地図を見せてもらった私は、一抹の不安をおぼえた。
そこで、その不安が杞憂ではないか確かめるために、地図の作製を申し出ていたのだった。
「あ、孔明先生はちょっとお待ちを」
陳登に呼びとめられた私は、弟子に声をかける。
「仲容と士載は先に行ってなさい」
「はい」
「は、はい」
石苞と鄧艾が一礼して歩み去る。
行李を背負った彼らのうしろ姿に視線をむけながら、陳登は微笑を浮かべた。
「孔明先生は、彼らをずいぶんと買っておられるようですな」
「うむ。見どころのある若者たちだ。少々つめこみすぎかもしれんが、すでに陸渾周辺の地図も作成させておる」
鄧艾といえば、出世する前から地図を描いてどこに布陣すればいいのか考えていた逸話の持ち主であり、険しい山道を踏破して蜀を滅亡に追いやった人物でもある。
地形に疎い鄧艾なんて、もはや名将にあらず。凡将まっしぐらである。
なので、私は彼らの教育カリキュラムに地図づくりを組み入れることにした。
正直にいうと、時期尚早じゃないかと不安だった。
そこまで急ぐ必要はないんじゃないかとも思った。
前世の歴史において、鄧艾は遅咲きだったはずだ。
石苞に関しても早くから活躍していた記憶はない。
彼らはエリートではないから、出世が遅かったのだろう。
けれど、前世と今世とはちがう。
彼らが二十歳で出仕する可能性もあると考えると、あまり悠長にしていられない。
もともと、あのふたりは向上心の塊だ。
学力だって、士大夫の家の子弟に引けを取らない。
だったら、とりあえずやらせてみればいいと思った。
できたことは褒めて、できないところは私がやってみせて、それを見ながらひとつひとつおぼえていけばいいのである。
で、実際にやらせてみたら、彼らは悪戦苦闘しながらも、ものすごい速度で知識を吸収している。
持ち前の向上心と才能もさることながら、地図という形があるものをつくりあげていくのが楽しいようだ。
これはあたらしい教育方法として使えるかもしれない。
ちらりとそんなことが脳裏をよぎったが、ほかの門下生たちにやらせたところで、つぶしてしまうだけだろうとも感じている。
鄧艾と石苞はあくまでも例外である。
ここまできたら、私は石苞の才能も疑っていない。
彼は三国志の後半に名前が出てくる石苞その人であろう。
「安心めされよ、陳登どの。大規模な地図はまだまだ手にあまるであろうが、一集落の見取り図と地勢を記す程度であれば、彼らはもう一人前だ。そこらの学士に引けはとらぬ。私も地図の作成には関与するし、貴殿に差しあげる地図は十分に実用的なものになろう」
「じつは、彼らが自分たちの力だけでこの邑の地図を作成できるのでしたら、孔明先生にはほかにお願いしたいことがあるのです」
陳登は真剣な表情で、そう切り出した。
「うむ?」
「石蜜(砂糖)を使用した特産品――郷土料理が欲しいのです」
「石蜜を使用した郷土料理。……となると、甘味であろうか?」
「はい。広陵で暮らす人々が、この地の食文化を誇れるような。この地域ならではの甘味を、考案していただけないでしょうか?」
「むっ……」
急な申し出に、私は面食らった。即答しかねて眉をひそめる。
なかなかむずかしいことを要求してくれる。
つくれそうなスイーツであればいくつか思い浮かぶ。
だが、この地域の特色を生かしたとなると、そう簡単にできるものではない。
安請けあいしていい話ではないように思える。
「もし、考案していただけるのでしたら……」
陳登はわずかに声をひそめた。
その声と表情があまりに真剣だったので、私は思わず息をのむ。
「これから毎年おゆずりする予定の石蜜に、色をつけさせていただきます」
ああ、なんという蠱惑的な取引であろうか。
断れるはずがなかった。断るなどもってのほかである。
陳登どのは、砂糖の大盤振る舞いをしよう、と申し出てくれたのだ。
ありがたく頂戴せねばなるまい!




