第一二一話 甘い見通し
魏諷は豫州沛国出身の三十歳。巧みな弁舌が売りの才人である。
彼は曹丕と曹植のどちらを支持するか決めかねていた。
一般論でいいのであれば、銅雀台の輝きに群がる人々の大半がそう考えているように、長男の曹丕が後を継ぐのが妥当である。
だが、決めるのは曹操なのだ。一般論で推しはかれる相手ではない。
そもそも、次男の曹彰を差し置いて三男の曹植が候補となっているのは、彼の才を曹操が高く評価しているからであろう。
いずれにしても、すべては曹操次第である。その真意を確認するまでは軽々しく決断できるものではない。どちらの陣営にも入りこめるように立ちまわらなければならなかった。
銅雀台の展望台にあがった魏諷は、そこに目当ての人物を見つけて声をかける。
「おや、そこにいるのは何晏どのではありませんか」
呼びかけられ、貴公子然とした白い肌の優男が振り返った。
「これはこれは、魏諷どの。あなたとはよくここでお会いしますな」
「ここからの眺めは絶景ですからな」
「ふふふ、魏諷どのは風雅を理解しておられるようだ」
何晏は艶然と微笑んだ。
話を合わせてはいるが、じつのところ魏諷の目的は景色ではなく、何晏が持つ情報である。なにしろ何晏は曹操の屋敷で育った男であり、しかもそれをことあるごとに自慢してくるのだ。
いくつか言葉を交わしてから、魏諷は悩ましげにこぼした。
「曹操さまの継嗣問題については何晏どのもご存じでしょう。しかし、私には曹丕さまと曹植さまのどちらを支持していいのかさっぱりわからないのです……」
「ほう」
「何晏どのは、どう考えておられるのでしょうか?」
魏諷がすがるような視線をむけると、何晏はいかにも機嫌がよさそうに微笑んだ。
「ふふふ、私の意見を参考にしたいと?」
「かなうならば。なにしろ何晏どのほど曹家の内情を知る人物はいないでしょう」
その気にさせれば、何晏は軽々しく口をひらく。
「そうですな、さればお答えいたそう。子桓さまは人並み外れた文才の持ち主。しかも戦場で敵将を討ち取った経験もある、まさに文武両道の偉材といえましょう」
「では、曹丕さまを支持すべきだと?」
「まあ、お待ちなさい、魏諷どの。子建さまも数々の戦に従軍し、なにより天下に並ぶ者なき詩文の才の持ち主であられる。どちらが後を継いだとしても、曹家の繁栄は約束されたも同然といえるでしょう」
「もとより、おふたりの才幹を疑っているわけではありませぬ。問題は我々がどちらを支持すればよいかであって……」
「どちらでもよいではありませんか。私は口出しするつもりはありませぬ」
「では、何晏どのは……どちらの支持も表明しないと?」
「さよう、私は中立の立場です。子桓さまと子建さまのどちらが当主になられようと、曹家に忠義を尽くし、天下国家のためにはたらく所存でございますよ。……では失敬」
自己肯定感あふれる表情でいうと、何晏は立ち去った。
遠ざかるその背中に、魏諷は嘲笑を投げかけた。
「口出ししない、か。それが通用する立場だとでも思っているのか。あの間抜けめ」
何晏の返答は、宴席での孔明の発言と、表面上はそっくりであった。
しかし中身は正反対である。
孔明は権力から遠い場所に身を置いてきた。これからも権力をもとめないであろう。だからこそ、権力争いに口出しするつもりはないという主旨の発言に、誰もが納得させられる。
何晏はそうではなかった。彼は権力に最も近い場所で暮らしている。しかも、曹丕と曹植のどちらが後を継いでも、要職に就けると思っているのだ。権力の蜜を吸いながら、権力争いから距離を置けると考えているのだ。
魏諷は哀れみと皮肉と、なにより侮蔑をこめて吐き捨てた。
「見通しが甘いにもほどがある」
何晏は恵まれた男だった。
大将軍何進の孫として生を受け、曹丕や曹植と同じ屋敷で兄弟同然に育てられた。容姿に秀で、曹操には文学の才を認められている。二十二歳のこの年になるまで、常に厚遇されて生きてきたのである。
その生い立ちゆえに、何晏は自分が冷遇されるとは夢にも思っていないのだ。
だが、曹丕にも曹植にも立場がある。
どちらが勝つにしても、勝者はまず、自分を支持してくれた味方に報いなければならない。
血を分けた兄弟同士で骨肉の争いをくりひろげている最中は傍観者を気取っておいて、すべてが終わってから、のこのこ近づいてきて重要な役職を要求する。そんな都合のいい話が通るはずもない。
何晏の楽観的な見通しに、魏諷は苛立ちすらおぼえた。
何晏とちがい、魏諷はごく一般的な士大夫の家の生まれだった。
自分の才によって官吏に取り立てられた彼は、経験から学んでいた。
何晏のように傍観者を気取っていたら、その隙に同僚に先んじられ、権力の中心から遠ざけられてしまうだけなのだ。
「何晏、おまえは曹家の権勢に自分の将来をかさねあわせているようだが、それはおまえの頭のなかにしか存在しない幻だ。……目をあけたまま夢を見ているがいい」
面とむかって忠告するつもりなどなかった。
魏諷にとって、何晏は希少な情報源であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
もっとも、この調子では、情報源としてもたいして期待できそうになかったが……。
◆◆◆
甘い。ただそれだけのことがどれほど遠く、貴重な時代であろうか。砂糖の歴史にまったく無知な私でも、砂糖の国産化に成功したことが、どれほど重大な出来事かは理解しているつもりである。
しかし、我が家の台所に砂糖はない。……ないのである!
銅雀台の厨房で、私は砂糖をゆずってくれと願い出ることができなかった。
だって、人目が多かったのだ。厨房のなかにすら、料理人が大勢いた。
もし砂糖――石蜜をゆずってほしいと発言していたら、銅雀台ではこんな噂が流れたにちがいない。
「孔明先生が石蜜をよこせと要求したそうだぞ」
「なんと厚かましい男だ」
「まさに傍若無人。噂ばかりがひとり歩きしていたが、正体はとんだ俗物だったようですな」
俗物なのはそこそこ当たっているような気がしないでもないが、さすがに砂糖のために悪評が流れるのはごめんである。
そんなわけで、私は鄴の市場で砂糖を探したのだが、どこにも売っていなかった。まあ、仮に売っていたとしても、高価すぎて手が出せなかった可能性も高いのでそれはよしとしよう。
困りはてた私は、司馬懿にどこかで砂糖を入手できないか聞いてみた。
すると、まだまだ生産量が少ないため、鄴と許都の宮中に献上されているだけだとの答えが返ってきた。
なるほど、砂糖の国産化が成功したことに、私が気づけなかったのも道理である。まだ市場に出まわっていなかったのだ。
そうなると入手ルートはひとつしか残されていない。
生産者の陳登に頼みこむ。産地直売ルートである。
陳登とは何度か手紙のやりとりをしたこともあるし、いちおう私も関係者あつかいされているわけでして。頼んでみる価値はあると思う。
割引販売してくれる可能性だってあるし、陳登の気前次第では無料でゆずってくれるかもしれない。
いや、甘い見通しは、ほどほどにしておいたほうがいい。期待が大きいと失望も大きくなる。
陸渾に帰った私は、さっそく陳登宛の手紙をしたためる。
さとうきびの栽培からはじめて砂糖生産までこぎつけた努力に敬意を表し、砂糖の国産化という偉業を称賛する。これで食文化は飛躍的に発展するだろうと謝意を示し、ついでに、私も砂糖を入手できれば新メニューの開発がはかどるのにな~、と婉曲におねだりもしておく。ついでといっても、そこが私にとって一番重要なことなのはいうまでもない。
しばらくして、陳登から返書がとどいた。
そこには砂糖の国産化を提案した私への感謝があらためて書かれており、私の手紙に負けず劣らずの婉曲な表現で、広陵に来てくれるとうれしいなあ、直接会えれば砂糖も融通できるのになあ、といったことが書かれていた。
なるほどなるほど。どうやら陳登どのは話のわかる御仁のようである。
私は迷うことなく広陵行きを決断した。
さあ、行きますよ、鄧艾くん、石苞くん!
……しかし陳登といえば、魚のなますを食べたことで寄生虫に胃をやられ、早死にした人物だったはずである。この年代にはもう亡くなっているイメージがあったのだが。




