第一二〇話 曹丕の苦悩
銅雀台の宴席にならぶ料理は、宮中の料理人たちが技術の粋を尽くした逸品ばかりである。そこへあらたにはこばれてきたクアトロフォルマッジは、一見すると平たい丸型の生地に乾酪を乗せて焼いただけの、粗雑な料理にも見えた。
だが、参列者の顔に戸惑いはあっても、嘲笑の色は見当たらない。この料理を考案したという孔明の声望もさることながら、彼らの興味を惹きつけたのは、焼きたてのピザからただよう未知の香りだった。
中央の大きな卓の上で三角形に切り分けられたピザは、蜂蜜を垂らして、まず曹丕の膳に供される。
「ほう、いい香りだ」
曹丕は口元をほころばせて寸評した。
香ばしく焼かれた小麦粉の香りと乾酪独特の濃厚な香り、そして蜂蜜の甘い香りが複雑にからみあい、これでもかと食欲を刺激してくる。
「希少な石蜜ではなく、蜂蜜を使っているのも孔明先生らしい。手軽に食べられるようにとの配慮だろう」
講釈を垂れながら、曹丕はピザを手でつかみ、大口をあけてかぶりついた。
「これ、は……美味い……!」
ひと噛みするや否や、曹丕はカッと目を見ひらいた。
小麦粉の風味と乾酪のまろやかなクセ、そして蜂蜜のコクのある甘さ。
三者がそれぞれを引き立てあい、ひとつの料理として完璧に融合している。
斬新な料理、のひとことですませられる完成度ではなかった。
曹丕の太鼓番が押されるや、配膳係は一気に忙しくなった。
つぎつぎとピザを切り分け、参列者の膳に提供していく。
「おお……、この『ぴざ』なる料理は、組み合わせの妙が光りますな」
「見た目とは裏腹に、高度な料理なのかもしれませんな、いや、すばらしい」
参列者はピザに舌鼓をうち、思い思いに感嘆の声をあげた。
食べなれない味、個性的な味だが、たしかに美味いのである。
曹丕のいうとおり、石蜜を使用していないのも評価が高い。蜂蜜もなかなか値は張るのだが、この場に参列している者であれば、さほど苦労せずに入手できる。腕のよい料理人さえ雇っていれば、家庭で再現するのも不可能ではないように思われた。
その一方で、
「小麦と乾酪と蜂蜜が三本の足となってささえあう。まるで鼎のようでございますな」
「すぐれた王と宰相と将軍。三者がそろってこそ立派な国といえるのでしょう」
などと、上手いこといおうとして失敗している者もいる。
文学振興の弊害といえよう。
なにしろ、文学的価値基準によって人事が左右されてしまうのだ。
ことあるごとに、自分の文学的素養を売りこもうとする者だってあらわれる。
しかし、美味いと上手いは似て非なるものであって、頭をひねったところで、上手いことをいえるとはかぎらないのであった。
師が考案した料理の感想を聞きながら、いくらなんでも国家に例えるのは無理があるんじゃないか、と思ったのは石苞である。
配膳係の彼にピザの味はわからないが、さほど残念に思う必要はなかった。
彼は孔明の弟子なのだ。食べる機会なら、あとでいくらでもあるだろう。
じつのところ、石苞にピザの味を気にする余裕はなかった。
なにしろ場所が場所である。粗相があってはならない。
如才ない彼にしても、配膳をそつなくこなし、笑顔を絶やさぬだけで精一杯であった。
だからというわけでもないだろうが、彼は不意をつかれた。
使用済みの食器をはこんでいる最中、突然、腕をつかまれたのだ。
「…………ッ!?」
驚いて立ちどまる。
食器を持っているため、振り払うことはできなかった。
そもそも参列者たちの身分を考えると、振り払っていい相手とも思われない。
「君は孔明先生の弟子だそうだが、名はなんという?」
石苞の腕をつかんでいるのは、白面の貴公子であった。
石苞が年頃の少女であれば胸をときめかせていたかもしれないが、男色の気がない彼にしてみれば、不躾なあつかいを受けていることに対する不快感しかない。
それでも男の華美な服装を見れば、丁重に対応しなければならない相手であることは一目瞭然である。
「冀州勃海郡は南皮県出身の石苞、字は仲容と申します」
「南皮の石家……?」
男は首をかしげるが、そのあいだも石苞の腕をはなそうとはしなかった。
それどころか、もう一方の手を石苞の顔に伸ばしてくる。
「…………」
身分の低い石苞は、またしても我慢を強いられた。
男の白い指が石苞の頬に触れ、あごの輪郭をたしかめるかのように下へ動く。
顔をまさぐられながら、石苞が忍耐の限界を試されているところへ、
「何晏どの、どうされたか?」
と声をかけてきたのは司馬懿であった。
「これはこれは、いまをときめく司馬懿どの」
何晏と呼ばれた男は、さすがに石苞の顔に伸ばしていた手を引っこめた。
「曹操さまが文学振興に力を入れておられる以上、何晏どのの栄達こそ約束されたようなものでしょう」
司馬懿の言葉に、何晏は得意げな笑みを浮かべて、
「ははは、いずれは力を合わせて、ともに国政を担おうではありませんか」
会話しながらも、何晏は石苞の腕をつかんだままである。
それをちらりと見やった司馬懿は、嘆息して、
「彼は平民です。士大夫の家の者ではありませんよ」
「……それは惜しい」
その瞬間、何晏はあっさりと石苞の腕をはなした。
「では失礼いたす」
何晏はそういって立ち去った。
声をかけたのは司馬懿に対してである。
それまでの執着が嘘のように、石苞の存在は無視されたのだ。
「彼は何晏。大将軍何進の孫で、曹操さまの養子でもある」
司馬懿の説明を受けた石苞は、自分が礼を失していなかったか振り返らなければならなかった。問題はなかったはずだ。むしろ非礼だったのはどう考えても何晏のほうなのだが、身分差はいかんともしがたい。
「……司馬懿さま、手を差し伸べていただきありがとうございます」
「なに、もとから君たちに留意していた。何晏どのの行動までは想定していなかったが」
司馬懿は憮然といった。
鄧艾と石苞が問題を起こさないよう、あるいは問題に巻きこまれないように、司馬懿は気を配っていたのである。
「石苞、あれを見たまえ」
鄧艾のほうに視線をむけながら、司馬懿はいった。
鄧艾は黙々と料理をはこんでいる。あいかわらず愛想のかけらもない。
参列者からの受けは悪いだろう。
だが、何晏にからまれた石苞と比較すれば、はるかに上等な仕事ぶりである。
少なくとも、鄧艾は司馬懿の手をわずらわせていないのだから。
「容姿を武器にするのはけっこうだ。だが、外面で引きつけることのできる相手は、外面を重視する者でしかない。ほどほどにしておかなければ、君の周囲にはそのような者ばかりが集まるだろう」
司馬懿の口調は淡々としていた。
責めるひびきはなかったが、それがかえって石苞の骨身にしみた。
「……はい。肝に銘じておきます」
「また孔明先生の力を借りてしまったな」
銅雀台の一室で、曹丕は司馬懿に語りかけた。
孔明の鄴滞在はほんの数日だった。
司馬懿の家に逗留した孔明は、銅雀台の宴席に参列すると、鄴にある自分の店に顔を出してから、馬車に名刺を山ほど積んで帰っていった。
その名刺の山は孔明の声望をあらわしており、めったに公の場に顔を出さない孔明を宴席に招いたことで、曹丕としても大いに面目をほどこしたのであった。
「力を借りるついでに、心配事について相談をしてもよかったのではありませんか?」
司馬懿が指摘した心配事とは、曹操の後継者問題である。
「心配事? なんのことだ」
弱音をはきたくないのか、曹丕はしらばっくれた。
「宴席の場のみならず、私の家を訪れた者のなかにも、孔明先生の前で、曹操さまの後継者問題を話題にした者がいるようです」
「……孔明先生はどう答えたのだ」
「自分が口を出す問題ではない、と」
曹丕はため息をついた。
「……このうえなく賢明な答えだな。孔明先生の支持が欲しいと思うのは、私のわがままでしかない」
噂は事実だった。曹操はまだ後継者を定めていない。
候補となっているのは長男の曹丕と三男の曹植である。
順当であれば長男が継ぐはずなのに、そうなっていないのだ。曹丕の焦燥は察するに余りある。
司馬懿にとっても他人事ではなかった。彼は曹丕の側近である。曹丕が後継者となれば栄達の道がひらけ、曹植が継げば閑職にまわされる可能性が高くなる。
ただし、司馬懿は積極的に権力闘争をくりひろげるつもりはなかった。これはあくまで曹家の問題であり、曹操が決めることなのだ。職分を越えて動きまわれば、絶対的な支配者の勘気をこうむることとなろう。
「父上から五官将文学を設けるよう命じられた時点で、私は文学振興の大役を果たさなければならない」
不満と不平のくすぶる声で、曹丕はいった。
「その程度のこともできなければ、私は父上の信認を失うだろう……」
曹丕の立場は矛盾をはらんでいた。
彼の文才は天才的ですらあったが、曹植のそれは天才そのものだった。つまり、曹丕が職責をまっとうして文学が興隆するほどに、競争相手である曹植の評価が誰よりも高まってしまうのだ。
司馬懿が見たところ、曹丕を悩ませているこの矛盾は曹操が企図したものではない。ただの偶然の産物である。
曹丕に対する嫌がらせでもなければ、曹植に対する期待でもない。
そもそも、曹操の目には曹丕も曹植も映っていないのだ。
曹操が見ているのは漢朝であり、その最後の砦となるであろう儒教文化である。
曹丕が文学振興の旗振り役を命じられたのは、副丞相として大きな権限を持っていたからにすぎない。
また、三男であるにもかかわらず曹植が後継者候補となっているのは、文学的価値基準は曹家の後継者問題をも左右するのだ、と人々に印象づけるためであろう。
曹操当人は、文学の影響力を拡大させるために、その都度、適切と思われる判断を下しているだけなのである。
だが、曹操は我が子をかえりみていないだけだ、と伝えたところで曹丕のなぐさめにはならないであろうし、それこそ家庭の事情に首をつっこむことになる。
司馬懿としても、うかつな発言をするわけにはいかないのであった。




