第一一九話 権力は蜜より甘い
「副丞相兼五官中郎将を拝命した私は、五官将文学を置き、そこに王粲らを配した。彼らの知性によって国家を経営し、もって理想の儒教国家を掲げる名士たちに対抗するつもりだ」
曹丕の言葉を聞いて、自然と私は前世の記憶を思い出した。
たしか、建安文学というものがあったはずだ。この建安年間に文学は盛んになるのだろう。だが、儒教は二十一世紀の中国においてすら大きな存在感があった。
建安文学と儒教が正面からぶつかれば、生き残るのはまちがいなく儒教である。そもそも建安と冠されている時点で、一時的な流行にすぎなかったようにも感じられる。
「孔明先生は、私たちにそれが可能だと思うか?」
曹丕の問いかけに、私は眉根を寄せて答える。
「文学の隆盛それ自体は可能でしょうが……。儒教は滅びぬでしょうな」
「……そうか」
曹丕は視線と声の調子を落とした。
「しかし、曹丕さまが悲観する必要があるとは思いませんな」
「……どういうことだ?」
曹丕が片方の眉をあげた。
私は訳知り顔で、悠然と答えてみせる。
「曹操さまの目的が儒教的価値観の根絶にあるのだとしたら、それは失敗に終わるでしょう。ですが、そうではありますまい。つかの間であろうと文学的価値観が世を席巻すれば、それで事は足りるはず。一時的にせよ儒教の絶対性が揺らげば、漢朝と名士との絆は弱まるでしょう。曹操さまの目的を達するには、それで十分ではありませんかな」
ぶっちゃけていうと、後漢王朝を滅ぼそうという段階で、儒教の絶対性が揺らいでいれば十分なように思える。さすがに、そんな過激な発言をするつもりはなかったが。
その後、私は銅雀台を見学させてもらった。展望台から大都市の街並みを一望したり、ガラス張りの窓や壮麗な内装を観賞したり。いやあ、権力って本当にいいもんですね。
別に私は無欲でもなんでもないから、権力を欲する気持ちは人並みにある。旨味だけ味わえるのであれば、どっぷり権力につかりたい。責任や危険がついてまわるから、自分には無理だと判断しているだけで。
夕刻を過ぎて、曹丕がひらいた宴席に参加する。
翡翠製の食器や玉製の杯が並べられ、肉や魚、果物が趣向を凝らして華やかに供される。
曹家の威光をこれでもかと見せつける、百名近い客を集めた大宴席である。
私はもちろん客として参加しているのだが、さすがに鄧艾と石苞を客あつかいはできない。
とはいえ、こういう場も経験しておいたほうがいいと思ったので、彼らには配膳の手伝いをしてもらっている。
新弟子たちのことも心配だが、私は私で忙しい。
こういう場に顔を出すのがめずらしいからか、やたらと人が集まってくる。
「いや、まさか孔明先生が帰国しておられたとは」
「それも鄴に来ていらっしゃるとは思いませなんだ」
「あとで私の名刺を持ってまいりますゆえ、ぜひお受け取りください」
「それならば、それがしの名刺もぜひ」
熱烈歓迎、といった感じである。
私が鄴にいたのは二十年前のごく短い期間だったし、官職についているわけでもないので、初対面の人物が多い。ちなみに、名刺といっても木製の札なので、けっこうかさばる。この調子だと、山のような名刺を持ち帰ることになりそうである。
まあ、単純に歓迎してくれているのだから、彼らは問題ない。
問題はこの男だ。
「まさか、このような場所で孔明先生とお会いできるとは夢にも思っておりませんでした」
涼やかな声で語りかけてくる、三十がらみの男は魏諷、字は子京と名乗った。
……クーデターの首謀者になる予定の男じゃねえかッ!
あっち行け、という私の願いをよそに、彼は私のとなりに座りこんだ。
「じつは最近、不穏な噂が流れておりまして」
魏諷は親しげな笑みを浮かべていうが、おまえほど不穏な存在はいない。
「曹操さまは、曹丕さまと曹植さまのどちらを跡継ぎにするのか決めかねているのでは、という噂なのですが……」
漢朝と曹操の対立に比べればいくぶんマシだが、それでも十分にきな臭い話題であった。
「孔明先生はどう思われますか?」
人好きのする笑みを浮かべたまま、魏諷は問いかけてきた。
私は思考する時間を稼ぐために、玉杯を手に取り、酒で唇を湿らせた。
曹丕と曹植の後継者争いは前世でもあった。最終的に勝利するのは曹丕だ。この宴席の主催者も曹丕だし、曹植は関中に出征中だから、曹丕を支持しておけば問題はなさそうに思える。
だが、軽率な発言は極力さけたほうがいい。
ここは権力に興味のない自分を印象づけておくべきであろう。
「ははは、それは曹家の問題であって、私が口をはさめるようなことではなかろう」
それからも魏諷はしつこく話しかけてきた。
私がのらりくらりとかわしていると、
「食に造詣が深い孔明先生の目から見ても、この銅雀台の饗膳はすばらしいものだと思われませぬか」
「もちろんだ。私が食にこだわっているといっても、あくまで一民間人としてできる範囲にすぎぬ。このような豪勢な食事は見たこともない」
まあ、ひっきりなしに話しかけられるせいで、ほとんど口をつけていないのだが。
私の食へのこだわりを知っているのなら、ごちそうを味わう程度の時間はよこしたまえ。
だが、魏諷よ。私に食の話題をふったのが運の尽きである。
「私としては、こうもすばらしい料理の数々を目にすると、料理人たちの仕事ぶりに興味を惹かれる。厨房をのぞいていいか、曹丕さまにうかがってみるとしよう」
私はそういって席を立った。一時撤退である。
魏諷は料理人ではないのだから、まさか厨房まではついてこまい。
曹丕の姿を見つけて話しかけると、彼はいかにも上機嫌な様子で許可を出した。
「ああ、もちろんかまわない。孔明先生が顔を出せば料理人たちも喜ぶだろう。ついでに、なにかつくってくれるとありがたいがな」
これでよし。
厨房を見学しながら、はこばれてきて冷める前のできたての料理を味見してやろうではないか。
私は靴を履いてから、不慣れな場所なので役人に先導され、厨房へと移動した。
なめらかな石張りの廊下を歩いて案内された先は、宴席場よりも騒々しく、喧嘩腰の怒号まで飛び交っていた。
みんな忙しそうに仕事をしている。
興味本位で見学させてくださいとも、味見させてくださいとも声をかけづらい雰囲気である。
私がおそるおそる厨房のなかをのぞいていると、料理人のひとりと目が合った。
顔に見覚えがある。彼はおどろいたように目を丸くすると、顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「孔明先生。お久しうございます」
「おぬしは、私の店ではたらいていた……」
私の店は洛陽に本店があり、鄴と許都に支店がある。
彼は、鄴の店ではたらいていたはずだ。
「はい。孔明先生が旅立たれてからしばらくして、宮中ではたらいてみないかとお誘いをいただきまして、ここで腕を磨いております」
「おお、大出世ではないか。たいしたものだ」
「あ、もちろん孔明先生のお店もしっかり繁盛しております。私ひとり抜けただけでございますので」
「ふむ、それはよかった」
そういえば、私は鄴の店に顔を出したことがない。
いちおう自分の店だし、あとで寄っておいたほうがいいだろう。
「ところで、私もなにか一品つくるように、と曹丕さまからのお達しでな」
「私でよければお手伝いいたします」
「うむ」
宴席場からここへ移動するあいだに、なにをつくるかは考えてあった。
私にもとめられているのは、めずらしい料理だろうから、ピザをつくろうと思う。
この時代にトマトなんてものは存在しないが、乾酪というチーズの原形のようなものがある。
なので、つくるのはクアトロフォルマッジもどきである。
乾酪の調理方法については、それなりに試行錯誤した経験もあるので、ちゃんとつくれるはずだ。
厨房のなかを見まわして、私はうなずいた。
「乾酪の種類も豊富だし、蜂蜜もある。これなら問題なかろう」
「蜂蜜でよろしいのですか?」
私の店ではたらいていた料理人は首をかしげた。
「うむ?」
彼は厨房のなかを流れるように移動すると、小さな壺をもって戻ってきた。その蓋をあけて、
「こちらに石蜜もございますが」
「なんと……!?」
壺のなかには、赤茶色の石のようなものがつめこまれていた。
まちがいない。石蜜――砂糖の塊である。
クアトロフォルマッジには蜂蜜のほうが合うと思うが、それはともかく、この時代、砂糖は輸入に頼るしかない希少品である。こんなに大量にあるとはおそれいった。
ここが曹操の宮殿であることを考えると、砂糖があってもなんら不思議ではないのだろうが……。
「この石蜜は、徐州の陳登さまから送られてきたものです。なんでも、孔明先生のご指示からはじまった石蜜づくりだと聞いておりますが……」
「…………!?」
なんだと!? 私は唖然とさせられた。
……荀彧! 司馬懿! そして甘党の曹丕ッ!
あいつら口をひらけば政治、政治、政治の話ばかりして。
そろいもそろって、私に大事なことを伝えそびれてるじゃないかッ!
どうりで、旅に出ているあいだに私の評価がさがっていなかったわけだ。
そりゃそうよ。
だって……砂糖の国産化に成功してるじゃないのッ!!




