第一一七話 司馬懿との再会
なにはともあれ、黙って旅に出たことに対する負い目や引け目は、私の胸中からきれいさっぱり洗い流された。すっきりした気分で、荀彧に伝えたこととほぼ同じ内容の話をすると、司馬懿はため息まじりにうなずいた。
「なるほど。つまり、ひとことでいいますと……」
司馬懿は目をすがめて、いいづらそうにいった。
「漢は、異民族になめられているのですね」
「うむ……。外部から見ても、漢の衰えは隠しようもない」
力関係に変化が生じているのだから、認識もあらためていかなければならない。異民族の侵略にそなえるにしても、その脅威を正確に認識できなければ、対抗策の立てようもない。
「だから、異民族に対する偏見を減らすために、儒学にあらたな解釈を取り入れようというのですか。……しかし、奇妙な話に思う人もいるかもしれませんね」
奇妙とな?
「孔明先生が異郷へ旅立ったことについては、さまざまな憶測が流れました」
「ほう?」
「孔明先生は粉食文化を学ぶために異郷へ旅立ったのだ、という説もありました」
いや、私は手のとどく範囲内で食文化を前進させてるだけであって、そこまで食い意地張ってないよ? 本当だよ。
「また、国内すべての知識を知りつくした孔明先生は、あらたな知識をもとめて旅に出たのだ、という説も流れました」
すげえな、私。すべてを知りつくしちゃったよ。
「そうしたなかで、最も有力と見られたのが、孔明先生は無知な蛮族に儒学を啓蒙しにいったのだ、という説でした。なにしろ、郭図どのと行動をともにしているという噂もありましたので」
そう思われるのは理解できる。郭図と同行していたのだから、目的も同じと見られるのはある意味当然なわけで。
有力なのが、いちばんまともな説でよかった。
食い意地が張っているのはともかく、「すべてを知る者」って、なんだそれ。
RPGのラスボスですか。
なに? 後世、三国志のRPGが出たら、私はラスボス担当させられんの?
「うわっははは、よくぞ来た、○○軍よ。だが、おまえらはこの胡孔明の手のひらの上で踊っていたにすぎん。もはや生かしておく価値もあるまい。全軍まとめてここで死ねいッ!」
魔王孔明、爆・誕!
なお、現実の私は、純軍事的に見れば一兵も指揮したことのないクソザコである。うわっははは。
私が後世のゲーム事情を妄想して煩悶していると、
「儒学を啓蒙しにいったとされる孔明先生が、儒学にあらたな解釈を取り入れようというのですから、奇妙に感じる者もいるでしょう」
司馬懿は声に笑みをにじませ、愉快そうにいった。
まあ、世間の目が多少変わろうが、私の生活にたいした影響はない。
家族や自分と接点のある人物との関係が悪化しなければ、それで十分なわけでして。
とりあえず、司馬懿さんが気を悪くしていないのであれば問題なし。
おっと、そういえばひとりだけ、あまり接点がなくとも気にしなけりゃいけない人物がいた。
「曹操は、私の旅をどう見ているのであろうか?」
正直、曹操の反応は気になる。
「孔明先生らしい型破りな行動だと、曹丞相は笑っていました。その一方で、どうして旅に出たのかについては、まったく見当がつかなかったようです。断定はできませんが、おそらく郭嘉どのの遺書の存在には気づいていないかと存じます」
思慮深く落ち着いた声で、司馬懿は答えた。
「そうか、それはよかった」
「ですが、本来この問題に対策を講じなければならないのは、曹丞相であるはず」
司馬懿は不服そうにいった。私が無理難題を押しつけられているように、彼の目には見えるのだろう。
実際、そのとおりでもあるのだが、私はあまり気にしていなかった。なぜなら、異民族の侵略に対してどのような形で対策を立てるにしろ、最終的に国力と軍事力が軸になるのは、まずまちがいないからである。
当然ながら、それらをどうこうできるのは国家運営の中枢にいる人物たちであって、私ではない。郭嘉から後事を託されたといっても、私の役割が基本的にアドバイザリー業務であることに変わりはないはずであった。
「まあ、よいではないか。異民族対策は急務ではあるまい」
「まずは国内の統一事業を優先する。曹丞相に伝えるのは、統一が成ってからでよい。荀彧どのからそう聞いております」
「うむ」
「ですが、その日がいつになることか。天下統一の日は、間近にせまっているようにも見えますが、まだひとつ、最大の障壁が残っているように思われます」
「うむ?」
「曹丞相か、あるいは漢朝か」
「…………」
司馬懿は、ひとつといいながら、ふたつ挙げた。
つまり、選択制というわけである。
漢が統一するのであれば曹操が邪魔になり、曹操が統一するのであれば漢が邪魔になる。
曹操の天下と、漢の天下を、司馬懿はすでに別物と見なしているようだった。
「孔明先生は、どちらが最大の障壁になると思われますか」
「…………」
ここで、「どうせ漢は滅びるから、曹操に味方したほうがいい」と発言するのは、さすがに直接的すぎるし、過激すぎる。
だからといって、「漢朝に忠孝を尽くすべきであろう」などといった、名士的模範解答もありえなかった。
私の返答を真に受けた司馬懿が、漢朝側に味方してしまったために、曹操に粛清されたりしたら目も当てられない。
慎重に答えなければならない質問だと思う。
司馬懿は、緊張の面持ちで私の返答を待っている。
「ふむ……」
私は逡巡したすえに、
「私も荀彧も、曹操の魏公就任には反対せぬよ」
あくまで個別の事象に言及した。
漢が滅びるとも、漢と敵対するとも明言はしていないが、私は曹操陣営につく、とまろやかに伝えたつもりである。あとついでに、自分の意見を補強するためだけに、荀彧を巻きこんでいる。
「承知いたしました」
司馬懿はそういって、ほっと息をついた。安堵しているように見える。彼にとって悪い返答ではなかったのだろう。
もしかすると、私が漢朝側につく可能性を考えていたのかもしれない。心配は御無用である。この私に曹操と敵対する度胸なんてあるはずがない!
「鄴においても、曹丞相の魏公就任に対する反応は割れています」
司馬懿は、感情のこもらない中立的な声でいった。
「賛成一色とはいかぬであろうな」
位人臣をきわめる。いまの曹操の権勢をいいあらわすのに、これほどふさわしい言葉はない。臣下としてこれ以上はないのだ。魏公に封爵されれば、そこからさらに一歩踏み込むことになる。
「とくに気を配らなければならないのは、名士層の反発でしょう」
まるで他人事のように客観的に、司馬懿はつづけた。
もともと名士という存在が、社会的階層のひとつとして成立したのは、漢の政策によるところが大きい。
漢の盛衰は、名士と呼ばれる人々の社会的立場を左右しかねないのだ。彼らは気が気でないであろう。
私の場合、はなから漢を見限っているから、どうということもないが。
「鄴ですら意見が割れるのです。許都における反発の大きさは、比ではないでしょう」
「うむ。文若は苦労しているであろうな」
荀彧は名士の代表者だ。名士の利権を守らなければならない彼が、曹操側に立とうとしているのだから、それだけでも大変なはずだ。
そう考えてみると、荀彧が憤死に追いやられた原因が、なんとなく理解できるような気がする。
前世では、「荀彧は漢の忠臣だから、曹操の簒奪を許せなかったのだ」という説があった。
この説、正直なところ、私にはしっくりこない点があった。
なぜかというと、荀彧は理想や理念より、現実や実務を優先させる男だからだ。
けれど、名士の社会的立場や利権を守ろうとして、曹操と衝突したのなら納得できる。
曹操にとっても、漢朝の実権を握り、名士層をひとつにまとめあげることのできる荀彧は、危険な存在だったろう。だから……。
「心ある名士を自認する者は、荀彧どのを漢朝側に引きこもうと画策しているでしょう」
「うむ……」
「彼らの活動が活発になれば、孔明先生にまで手を伸ばしてくるかもしれません」
なんですと? なんてはた迷惑な。
「私は、権力とは無縁の生活をしているはずなのだが」
「ですが、曹丞相と漢朝が対立すれば、孔明先生は漢朝側につくだろう。そう見ている名士は皆無ではありません」
「なぜだ?」
後漢王朝を見限っている名士ランキングがあれば、私はトップクラスに名をつらねる自信があるぞ。権力から距離を置いている名士ランキングでも上位だろうに。
「孔明先生が、曹丞相をさけているからです」
「…………」
ぐうの音も出ねえ。
私が許都を訪れるのは、決まって曹操がいないときだ。今回も、曹操が出征している隙をついて、鄴を訪れている。察しのいい人物は、それに気がついているのかもしれない。
「出仕するつもりのない孔明先生が、曹丞相の人材収集癖を警戒するのは当然です。ですが、意識して曹丞相をさけるのは、そろそろ終わりにしてよろしいかと存じます」
「むむむ」
「心配せずとも、曹丞相は、もう孔明先生を登用しようとはしないでしょう」
ふむ?
思い返せば、私はふらっと旅に出ていたわけで。
そのあいだ、なんの実績もないのだから、評価がさがるのは当然である。
「なるほど。華北だけでなく、荊州からも人材を呼び寄せられるようになったのだ。曹操のもとには優秀な人材がいくらでもいよう。わざわざ私にこだわる必要もあるまい」
「そうではありません」
司馬懿は苦笑とため息を同時にした。
「むしろ、『陸渾の胡孔明』にまさる名士像は、もはや曹丞相の頭のなかにも存在しないのです」




