第一一五話 旗を掲げよ
朝になっても、私は鄧艾の攻略をあきらめていなかった。
今日の昼前には出発する予定だから、それまでに勝負を決めなければならない。
鄧艾は親孝行で、しかも、母ひとり子ひとりだという。
となると、母親をこちらの味方につけてしまえば、鄧艾の弟子入りは、ぐんと近づくのではなかろうか。
「とりあえず、あいさつだ。きちんとあいさつしにいこう」
怪しげな人物が息子を弟子にしたいといってきた、などと思われないように、典農都尉にも同行してもらって、私の身元を証明してもらったほうがいいと思う。
上役にも話がついているとなれば、鄧艾の母も首を縦に振りやすいはずだ。
なかなかの名案であるように思える。
さて、典農都尉に話をつけにいくか、と腰をあげたところで、その鄧艾と石苞が私の部屋にやってきた。
私としては、せっかくいい案を考えたのに、機先を制された気持ちであった。
鄧艾は一歩前にでると、拱手して頭を垂れた。
緊張しているのか、こわばらせた顔を、私にむけて、
「き、昨日は、非礼な、ふるまい、を、してしまい、ま、誠に、申し訳、ございません、でした」
「いや、突然の申し出だったのだから、おぬしが驚くのも無理はない。私のほうこそ礼を失してしまった」
返答しつつ、むしろ私が驚いていた。
鄧艾の態度は、昨日とは豹変している。緊張こそしているようだが、拒絶の色はまったく感じられなかった。私の熱烈な勧誘が功を奏したのだろうか。昨日の私を褒めてやりたい。
……なんだか今日はいけそうな気がする!
「か、過分な、お言葉、あ、ありがとう、ございます。あ、あらためて、孔明先生の、もとで、学ばせて、いただければ、と、切に、お願い、もうし、あげます」
うおおおおッ! うおおおおッ!
心のなかで歓喜の咆哮。
さすがに叫びだすわけにもいかないので、表面上は少々ひかえめによろこんでみせる。
「おおっ、よく決心してくれた」
「と、鄧艾、士載と、と、鄧範、士則。ふ、ふたつの、名にかけて、先生の、弟子として、恥ずかしく、ない、人物に、なって、みせます」
興奮と決意をないまぜにした声で、鄧艾は宣言した。
「うむ」
我が意を得たとばかりに、私はうなずいた。
だが、頭のなかは疑問でいっぱいだった。
鄧範士則……って、誰よ?
鄧艾の亡くなった父親だろうか?
やべえ……話がまったく見えてこねえッ!?
なんだかよくわからないが、ボロを出さないように気をつけないと。
ええと、とにかく、話の焦点を鄧範士則という謎の人物からそらしておいたほうがいいように思える。
ということは、話題の対象を鄧艾だけでなく、石苞にまで拡大したほうが無難だろう、たぶん。
「ハハハ。私が襄城を訪れたのは成り行きからであったが、来てよかった。将来が楽しみな若者を、ふたりも見出すことができたのだからな」
私は彼らに笑いかけると、なんともあたりさわりのないよろこびかたをして、ごまかすのだった。
というわけで、私たちは襄城を出発して陸渾へむかった。
うしろには穀物を積んだ馬車が列をなし、護衛兵が随伴する。
もちろん指揮官は私じゃないのだが、指示を出そうと思えば出せるので、ちょっとした輜重隊の隊長気分を味わえる。
……こっそり、悪くないと思っていたり。まあ、いつもこうだと気疲れしてしまうだろうけど。
同行者は、お供の郭玄信、弟子の鄧艾と石苞、そして鄧艾と石苞の家族といった面々である。
鄧艾と石苞の家族は、さっそく陸渾に引っ越すことになったのだ。
そんなに急がなくてもよいと思ったのだが、荷物が少ないため、すぐに引っ越せるそうだ。そうなると、護衛兵が随伴しているこの機会に移動したほうが安全だろう。
襄城を出発したのが昼近くだったので、西へ進むこと半日と二日。
私たちは、司隷河南尹の梁県を越えたところにある集落で、宿泊することになった。
馬に乗って身軽な旅をしてきたからか、正直にいうと、移動速度が遅く感じられる。もっとも、物資をはこんでいるのだから、騎馬で移動するようにいくはずもない。輸送って、大変なお仕事だと思います。
もうすこし西へ進んで、伊水を渡れば陸渾だ。
明日の夕暮れごろには到着できると思うのだが、明後日にずれこむかもしれない。
私たちが、護衛兵も含めた大所帯で食事をしていると、この集落の役人らしき男が、ずいぶんと慌てた様子で走り寄ってきた。
「孔明先生! このまま陸渾へむかうのは、危険かもしれません」
「むっ、どういうことだ?」
「陸渾が……流民に包囲されているのですッ! 四方の城門も閉ざされているようですッ!」
すでに、流民の暴動が発生しているのだろうか。
郭玄信が青ざめた顔をひきつらせて、
「わ、我々は、遅かったのでしょうか……」
「うむ……。しかし、ここで待機していたところで、なんの役にも立たぬ。陸渾へむかうしかあるまい」
ごく私的な理由によって、私には前進以外の選択肢はなかった。
このまま事態が推移すれば、最悪の場合、流民に城が攻め落とされる可能性だってある。そうなれば、私の家族も巻きこまれかねない。前進するしかないのだ。
「そ、そうですね。孔明先生が説得すれば、流民もおとなしくなってくれるはずです」
と、役人がぱっと顔を輝かせた。
おいこらやめろ。私個人のはたらきに期待するのはやめろ。
「私の存在など関係ない。重要なのは、流民を落ち着かせるために必要な食糧が、ここにあるということだ。あらかじめ食料を手配してくれた、荀文若の慧眼に感謝すべきであろう」
私は、敬意の対象を荀彧に変更させようと試みた。
「だから、荀彧さまは孔明先生に託されたのですね。孔明先生なら、きっとうまくおさめてくれるだろう、と!」
郭玄信が拳を握りしめて力説した。
だからやめろ。素直に荀彧を称賛してなさいって。
そのとき、私は気づいた。
鄧艾がなにやら石苞に語りかけている。
石苞はというと、なるほどとばかりに、うんうんとうなずいている。
ふむ……。
どうやら、鄧艾がなにか思いついたようであった。
流民の集団が、かたく閉ざされた陸渾の城門の前に群がっている。
その人数は千人とまではいかないが、百人や二百人どころではなかった。
流民が集まっているのは、あくまで城門周辺である。
城壁をぐるりと取り囲んでいるわけではない。
とはいえ、ほかの三方の城門も同じような状態だろうから、包囲されているという表現も、あながちまちがってはいないだろう。
城壁の上には守備兵の姿もある。弓を手にしているが、矢はつがえていないように、私の目には見えた。
不幸中の幸いというべきか、まだ武力衝突には至っていないようだ。
しかし、城に出入りできない状況がつづけば、いずれ流民が力づくで城内に侵入しようとするかもしれないし、守備兵がしびれをきらして攻撃をしかけるかもしれない。
一刻の猶予を争う事態であった。
「まだ流血沙汰にはなっていないようですね。間に合った、と思ってよいのでしょうか」
険しい顔のまま安堵の声をもらしたのは、となりに座っている郭玄信である。
私と郭玄信は馬車に乗っている。御者は鄧艾と石苞の弟子コンビだ。
馬ではなく馬車に乗っている理由は、馬車に掲げられた旗にある。
風になびく旗に、燦然と輝く胡の一文字。
私の旗だ!
……嘘です。胡軫という武将の旗を再利用しております。
胡軫は董卓配下の武将で、孫堅軍と戦った陽人の戦いでは、董卓軍の総大将を任された人物である。
部下にはあの呂布がいたというのだから、けっこうすごい武将だったのかもしれないが、結局孫堅軍に蹴散らされているから、たいしたことはなかったのかもしれない。
その陽人の戦いの直前に、董卓軍が駐屯していたのが、私たちが立ち寄った集落だったのだ。
それに気づいた鄧艾は、どこかに胡軫の旗が残っているのではないか、と考えた。
戦利品として旗を持ち帰った者がいるかもしれない。
戦場跡をあさって、旗を拾ってきた者がいるかもしれない。
あるいは、逃げるのに邪魔だと考えて、董卓軍の兵士が捨てていった可能性だってある。
で、探してみたら案の定、倉庫のなかに胡軫の旗が眠っていた。
この旗を、遠目にもわかるように掲げて、
「孔明先生が帰ってきたぞー!」
と触れまわれば、流民はたちまちおとなしくなり、私のいうことに従うであろう、というのが鄧艾の案であった。
……本当だろうか?
ちょっと疑わしい気もするが、ほかに名案があるわけでもないのでやってみるしかない。
それにしても、鄧艾はよく気がついたと思う。
陽人の戦いなんて、自分が生まれる前の戦いだろうに。
やはり、地理的なセンスが抜群なのか。そういえば、鄧艾には兵を率いる身分になる前から、地図を書いてどこに陣営を置けばいいのか考えていた、という逸話があったはずだ。
そうした才能をちゃんと伸ばせるような教育方法を考えなければならない。
よし、地図を書かせよう、地図を!
そうこうしているあいだにも、慣れ親しんだ陸渾の城門が近づいてくる。
私を乗せた馬車を先頭に、馬車と護衛兵がつづく私たち一行は、どう見てもただの旅人には見えなかった。
こちらに注目して、流民が騒ぎだした。
そこで、郭玄信がおもむろに小さな銅鑼を叩きはじめる。
ジャーンジャーン!
石苞が、声を遠くに届けるために口のまわりに手を添えて、大声で叫んだ。
「孔明先生が帰ってきたぞー!」
鄧艾は黙々と手綱を握っている。
私は泰然と……なにもしない。
なにもすることがないのだから、しょうがない。
なにもしていないのではない、なにもしないをしているのだ!
ジャーンジャーン!
「孔明先生が帰ってきたぞー!」
これは恥ずかしい。思っていた以上に恥ずかしい。
私の羞恥心メーターがぐんぐん上昇していく。
だが、うつむくわけにもいかない。
私が微笑を浮かべて前をむきつづけていると、流民の集団に動きがあった。
はじかれたかのように左右に移動し、城門への道をあけはじめたのだ。
おお、人波が割れていく。
石苞の言葉を復唱するかのように、
「孔明先生が帰ってきたぞー!」
との声が流民のあいだに広がり、城壁の上からも聞こえてくる。
振り切れてる……いま確実に……私の羞恥心メーターは振り切れてる!
それでも顔に微笑を張りつけたまま、私はひたすら耐えつづけた。
ほどなく、かたく閉ざされていた城門が、重々しい音を立ててひらかれた。
ようやく城内に入れるようになったのだ。流民たちが殺到してもおかしくなかったが、彼らはおとなしくその場にとどまり、私を乗せた馬車に期待をこめたまなざしを注いでいる。
まるで、私の帰還で事態が好転すると信じきっているかのようだった。
「孔明先生が食料をはこんできたぞー! もう飢える心配はないぞーッ!」
石苞の大声がひびきわたると、流民たちから歓声がわきあがった。
こうして、陸渾の守備兵と流民との武力衝突は回避され、私は無事、家族との再会を果たしたのであった。




