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第一一四話 孔明の刀


 鄧範とうはんだったころの自分は、ときをさかのぼればさかのぼるほどに、恵まれていたと鄧艾とうがいは思う。


 襄陽刺史じょうようししだった祖父が生きていたころが、もっとも幸福だった。

 一族には活気があり、父も元気だった。


 その祖父が亡くなったときから、鄧範の転落人生ははじまった。


 嫡男として跡を継ぐべき父は、祖父ほどの功績を残せなかった。

 さらに病にかかって官職を辞し、そのままあっさり逝ってしまった。


 鄧範には兄弟がおらず、彼と母のふたりは一族の支援をうけ、畑を耕して暮らした。


 南陽鄧氏には豪族と呼べるほどの権勢はなく、名門といえるほどの家格もなかったため、鄧範と母の生活に余裕はなかった。


 浮かびあがるには官吏にならなければならない。

 だが、一族から輩出できる官吏の数はかぎられる。


 鄧範が見たところ、一族の子弟にたいした人物は見当たらないようだったが、彼らからしてみれば、吃音の鄧範こそが愚鈍に見えたにちがいなかった。


 鄧範の才能を評価してくれる大人もいたが、彼らにしても、自分の子を優先すべき立場であることに変わりはない。


 また、一族の利益を考えても、出世しそうにない鄧範を推そうとする人物はいなかった。


 祖父の死、父の死につづいて、三度目の転落の契機となったのは、曹操軍の荊州南下であり、劉備軍の逃走だった。


「曹操軍が攻めてくるぞッ!」


「劉備さまといっしょに逃げろッ!」


 劉備軍の兵士たちが、盛んに喧伝けんでんしてまわった。

 大人たちの誰もが決断を迫られ、南陽鄧氏の意見も割れた。


「このまま曹操軍の支配下に入るべきなのか。それとも、劉備さまを追いかけて、南へ逃げるべきなのか……」


「ふたつにひとつだ。どうすればいい?」


 喧々諤々(けんけんがくがく)、紛糾するなか、一族の長老が重々しく口をひらいた。


「こういうときは、一族をふたつに分け、どちらか一方だけでも生き残れるようにしておくべきであろう」


 その意見に従い、郷里にとどまる者と、南へ逃亡する者とに、一族は分かれた。


 どのように分けられたかというと、土地や役職がある者が残り、守るべきものがない者が逃げる。


 立場の強い者と、弱い者とである。

 当然のように、鄧範は逃げる側に割り振られた。


 彼は母と懸命に逃げたが、あえなく曹操軍に捕まった。

 逃亡した同族のほとんどは、同じように捕らえられたようだった。


 鄧範と母は、まず屯田民として、汝南郡へ移動させられた。


 そこで聞いた話によると、郷里に残った者は略奪の憂き目にあうこともなく、これまでどおりの生活を保障されたようだった。


 どちらか一方が、と長老はいったが、どうやらはずれの選択肢をつかまされたのは、逃亡した者たちのようだった。


 力のない者が、分の悪い役目を押しつけられたのだ。


 もし父が生きていれば、鄧範と母は郷里に残る側に割り振られていたであろうから、結局は鄧範に力がなかったのが悪かったのだ。ただそれだけの話だった。


 もうひとつ、不愉快きわまりない噂が耳に入ってきた。


「劉備さまは夏口で健在のようだ」


 劉備はまんまと逃げおおせたらしい。


 ここまでくると、鄧範には理解できた。

 劉備は、民衆を盾にしたのだ。


 なにが「大徳」だ。どこに徳があるというのか、どこに正しさがあるというのか。

 くやしくて、くやしくて、しょうがなかった。


 そして、心の奥に暗い炎を灯した少年は、またしても強者の都合に振りまわされることになった。


 汝南から潁川への移動を命じられたのである。


 潁川に到着すると、母はある石碑の前に彼をつれていった。

 その碑文は、太丘たいきゅう県の県長だった陳寔ちんしょくという人物の事績を讃えるものだった。


 あとから思い返せば、権力者に対する不満をもらすようになっていた彼に、母はあやうさを感じとっていたのかもしれない。


 碑文を読んで、鬱屈した心をもてあましていた少年は素直に感銘をうけた。


 陳寔は自分の都合で正しさを曲げなかった。道理をもって、公平無私な政治を心がけたという。


 本物の徳をそなえた人物も、たしかに存在したのだ。

 しかも、陳寔は道理を優先して、非業の死を遂げたのではなかった。


 最後まで正しさをつらぬいて、天寿をまっとうした。

 陳寔の葬式には、彼を慕う人々が国中から集まり、参列者は三万人にものぼったそうだ。


 正しく生きただけでなく、誰もがその正しさを認めて称賛した。

 陳寔とは、そういう人だった。


 鄧範は、その生き様にあこがれた。


『文は世の範たり、行いは士の則たり』


 陳寔をしのぶ文に、範の一文字を見つけたときは、父がつけてくれた自分の名が誇らしかった。

 みずから士則という字をつけ、陳寔のように生きようと志を立てた。


 上をむいて生きようとして、しかし、しばらくして宗家から連絡がきた。

 同族に鄧範士則という人物がいるから、名をあらためるように。


 こうして立場の弱い彼は、志を立てた鄧範士則という名を失い、鄧艾士載と名乗るようになったのである――。






 もともと、亡き陳寔のために打たれた刀だ。

 彼をしのぶ一文が刻まれていてもおかしくはない。

 だが、それが鄧艾に下賜かしされたとなると、偶然で済ませられるはずがなかった。


 孔明が知ったら、「偶然だぞ」と白目をむきそうなことを考えながら、鄧艾は確信した。


「こ、孔明先生は、すべて、知って、いた、のだ」


 なぜ、これほどまでに高価な刀を、いまの鄧艾には不釣り合いにしか見えないものを、孔明は下賜したのか。


 鄧艾が名を失った経緯を、知っていたのだとしか思えなかった。


 誤解である。


 孔明が知っているのは、鄧艾が将来残すだろう業績についてであり、過去についてではなかった。


 孔明にしてみれば、三国志末期の最強武将への投資なのだから、どのような名刀であろうと惜しいとは思わない。


 だが、神ならぬ身の鄧艾に、そんなことは知るよしもなかった。


 必然的に、最強武将と吃音の少年にかけられる期待の差を、鄧艾は想像と曲解によって埋めなければならなかった。


「この刀にふさわしい人物になれ」


 という孔明の言葉には、もちろん、立派な将軍になりなさい、という意図が込められていたはずだ。


 だが、もうひとつ。


 鄧範士則という名に恥じない人物になりなさい、という想いも込められていたにちがいなかった。


 なんという奥ゆかしい思いやり、そして、力強い激励であろうか……。


 孔明が天下の名士とうたわれるゆえんを垣間見て、鄧艾はすっかり心を打たれてしまった。


 士則という字をつけたときと同質の高揚が、はるかに強く、胸の奥底からわきあがる。


 彼は、近づく者を傷つけがちな、自分のひねくれた性格を多少なりとも自覚していた。

 名を奪われたことで、その傾向がさらに強くなったようにも感じていた。


 しかし、名を失おうと、志や誇りまでも失わなければならない道理はないのだ。


「ち、陳寔の、ように。孔明、先生の、ように。正しく、生きれば、きっと、結果は、ついて、くる」


 きれいごとかもしれないが、いまは不思議と信じることができた。

 この刀が信じさせてくれた。


「あ、明日の、朝、いちばんに、こ、孔明先生に、謝罪に、いこう」


 非礼を詫びて、あらためて弟子入りをおう。


 左手に黒鞘をもち、右手で握った刀を月にかざしたまま、鄧艾は立ちあがった。

 月光を反射して、黒い刀身が曇りのない光を放っている。


 そこに刻まれた自分の名が、鄧艾の目には、はっきりと輝いて見えた。

 父が残してくれた名、みずから志を立てた字は、刀へと形を変えて、彼の手に帰ってきたのだ。


「と、鄧範、士則と、鄧艾、士載。ふ、ふたつの名に、かけて、ち、誓う。わ、われ、胡、孔明の、刀と、なりて、天下に、静謐せいひつを、もたらさん」


 彼方から旅をしてきた西北の風が、あわと土のにおいを巻きあげ、どこへともなくはこんでいく。


 建安十六年晩秋、本来たどるはずだった歴史よりも、はるかに早いこの時期に。鄧艾は偉大な名将への道を歩みはじめるのだった。




   ※


蛟影刀こうえいとうは、三国志の名将・鄧艾の刀。中国古代十大名刀のひとつに数えられる。刀身は漆黒で、長さは三尺あまり。常に冷気をまとい、刀身には「文為世範、行為士則」という文字が刻まれている。


鄧艾の本名は鄧範といい、かつて彼はこの文に感銘を受けて、士則という字を名乗っていたが、一族の中に同名の人物がいたため、改名させられていた。

鄧艾の将器を見出した胡昭は、彼が改名した事情を知ると、期待と激励の意をこめて、この刀を鄧艾に下賜したという。


また、散逸した「建安遺事北異伝」においては、主人公の胡昭が所有する刀の宝具ほうぐとして登場。その黒い刀身には蛟龍こうりゅうが棲みついており、鞘から引き抜くと蛟龍の影が空をはしり、敵妖怪の頭を噛み砕いたとされる。


 蛟影刀 wiikiより一部抜粋



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これこそ知識チートですね 勿論、偶然?出会うというご都合主義はありますが 当時の技術では再現が難しいものは ほぼでてこないのが凄い ほぼ人材登用だけですもんね そして歴史に名が残ってる以上 青田買…
孔明先生、このまま神格化されてこの世界での悪魔合体なシリーズに出たら合体条件むちゃくちゃ厳しそうな。素材悪魔集めて、フラグ解放して、何たら周期のうん%で、、、。そして合体事故でもう一人の孔明登場とか…
孔明先生の北方視察の旅が、西遊記とか封神演義みたいな扱いに!w 成立だいぶ早いだろうから、日本だけじゃなく周辺諸国への文化的影響も大きそうだな・・・。 なんなら令和の時代に日本で漫画とかドラマになって…
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