第一一三話 もうひとつの名
吃音の少年の名は鄧範、字を士則といった。
彼らはすぐに意気投合したわけではなかった。
鄧範は最初の印象どおりに閉じた性格のようだったし、石苞としても、どうせつきあうのであればもっと実りのありそうな相手を選ぶべきであり、実際にそうしていた。
彼らの希薄な関係に、転機が訪れたのは農閑期のことであった。
伐採した木材をはこびだす作業に駆りだされていた石苞は、同じ場所に配置されていた鄧範を見かけて声をかけた。
「よう、鄧範」
「……お、俺は、もう、鄧範、じゃない。と、鄧艾、士載、だ」
鄧範――いや、鄧艾は下をむいて答えた。
いじめられているときですら毅然と胸を張っていた男が、この態度なのだ。
ただごとではない、と石苞は直感した。
「なにがあった?」
「…………」
作業の合間に、ぽつりぽつりと鄧艾は語った。
一族に同じ鄧範士則という人物がいるから名をあらためるように、と宗家から命じられたらしい。
もうひとりの鄧範という人物は、鄧艾より年上で、鄧氏の本貫地である南陽郡にいまも居住しており、家の力も強い。立場の弱い鄧艾が、名を変えなければならなかったのだという。
「そうか、おまえも一族の連中に奪われたのか」
「…………?」
「俺も、親父が残してくれた畑を奪われた」
この日以来、彼らはすこしずつ親しくなっていった。
根っからの農民である石苞とは異なり、鄧艾の家は、父の代で没落したとはいえ、もともと由緒のある家柄だった。
学ぶ機会にはめぐまれていたようで、士大夫の家の子弟と比較しても、勝るとも劣らない学識があり、それ以上に地頭が非凡だった。
そして、顔も性格もまったくちがう友人のなかに、石苞は自分と似た匂いを、意地と誇りと願望を感じとった。
「俺は、このまま屯田民として一生を終えるつもりはない。絶対に役人になって出世してやる」
石苞は、鄧艾に胸の内を明かした。
「……お、俺も、いつか、多くの兵を、指揮する、身分に、な、なって、みせる」
志は同じだった。彼らは盟友となった。
石苞は鄧艾から知識を吸収すると同時に、鄧艾の評判を高めるように動きまわった。大人たちのおぼえをよくするのは、石苞の得意とするところだ。
「吃音ではあるが、鄧艾はよくはたらく。頭もまわるし、なにより親孝行だ」
そんな噂が広まるにつれ、鄧艾に対する風当たりも多少は弱まっていった。
つぎに彼らがくわだてたのは、人脈づくりだった。
石苞は、彼らの上長である典農都尉に目を付けた。
「あ、あれは俗物だ。そ、それに、俺たちを、引き立てる、ほどの力、はない」
鄧艾は難をしめした。
鄧艾が見たところ、典農都尉の器ではいまの役職が限界だろう、とのことだった。
その見立てには、石苞も同意だったが、導きだした結論はちがった。
「消極的でいたら、なにもはじまらねえ。出世の糸口にさえなればいいんだ」
典農都尉本人ではない。彼の周囲にいれば接触できるであろう、より権力をもっている人物こそが、石苞の狙いである。
「わ、わかった。迂遠、かもしれないが、俺たちが、直接、会えるのは、典農都尉ぐらい、だ。それしか、手はない、と思う」
石苞たちは、熱心にはたらく姿を典農都尉に印象づけると、彼の仕事を手伝った。
なにしろ襄城一の美少年が慕ってくるのだから、典農都尉としても悪い気はしない。
石苞と鄧艾はまんまと典農都尉の家に上がりこんで、家人の真似事までするようになった。
そうこうして機を見はからっていたところに、孔明がやってきたのだ。
――ここだ、ここで決めるんだ!
石苞は憂慮の表情を浮かべて、いつになくそわそわしている典農都尉に訊ねた。
「いかがなさいましたか?」
「……どうにかして、孔明先生に満足してもらいたいのだが、盛大なもてなしも、女もいらぬという。どうしたものか」
「女がいらないとなると、意外と男色の気がおありなのでしょうか? 世の中にはそういう人もいる、と聞いたことがございます」
「いや、まさか……。孔明先生は名士のなかの名士だ。そんな趣味はあるまい。儒教的に考えて」
典農都尉は笑い飛ばそうとして失敗した。
その両眼に低俗な光が宿るのを、石苞は見のがさなかった。
「儒教的に考えて、でございますか。……ならば、親孝行な若者であれば、お気に召していただけるのではないでしょうか?」
「むっ?」
石苞は、普段世話になっている典農都尉に恩返しをしたい、と殊勝に申し出て、
「孔明先生のおぼえをよくしたいのであれば、私がお役に立てるかと存じます」
「ふむぅ……」
「この身のすべてをもって、孔明先生に奉仕いたしましょう」
「この身のすべてをもって、か」
典農都尉は、石苞の顔と身体を、ねっとりと眺めた。
「はい、この身のすべてをもって、です」
石苞はめずらしく悲壮な顔をしてみせた。
もちろん石苞は、名士のなかの名士といわれる人物に男色の気がある、などとは思っていない。
しかし、典農都尉は「この身のすべて」の意味をはきちがえたにちがいなかった。そう考えるように、石苞がしむけたのだ。
儒教思想においてか、それに反する意味合いにおいてか。いずれにしても、石苞なら孔明に気に入ってもらえる、との計算が成り立ったのだろう。典農都尉はうなずいた。
「よかろう。まかせたぞ、石苞」
そこから弟子に誘われるまでは、理想的な展開だった。
あまりにもうまくいきすぎたのだ。
まず嘲笑をむけられるところから対人関係がはじまる鄧艾にとって、孔明から差し伸べられた手は強烈すぎた。とうてい信じられるような勧誘ではなかったのだろう。同情としてうけとめてしまった。
「まあ、いまごろ、あいつも反省してるだろう。……それにしても、陳寔の刀とはね。孔明先生はどこまで知っているんだか……」
石苞があばら屋に帰宅すると、彼の帰りを待ちわびていた弟と妹が飛びついてきた。
「兄ちゃん、おかえり!」
「おかえり!」
「ただいま」
腰にしがみついてきた弟と妹を両腕で抱き返しながら、石苞は家のなかを見まわした。殺風景な光景だった。家財といえるほどのものはなにもない。
引っ越そうと思えば、荷づくりは行李ひとつで事足りる。いますぐにでも、それこそ明日にでも出発できるだろう。
「母ちゃん、陸渾に引っ越そう。俺、陸渾の孔明先生の弟子になるんだ」
むしろを編んでいた手をとめて、母は小首をかしげた。
「……その話は、どこから出てきたのかい?」
「孔明先生から、直々にお言葉をいただいた。偽者じゃない。ちゃんと本人だと確認は取れてる」
「そう……けど、信じられるのかい?」
「ああ、大丈夫だ」
母の反応は鈍かったが、弟と妹は目を輝かせた。
「りくこん、ってどこ?」
「どこ、どこ?」
「陸渾は洛陽のちょっと南だ。でっかい川が流れていて魚がたくさんとれる。果物もとれるし、畑だって融通してもらえるそうだ」
「士載にいちゃんは?」
「いっしょにいくの?」
自分の目をまっすぐに見上げてくる弟と妹に、
「ああ、いっしょだよ。……たぶんな」
つくりものではない苦笑をたたえて、石苞は答えた。
そのころ、鄧艾はまだ家に帰っていなかった。
粟畑の脇にある手ごろな大きさの岩に腰かけ、満月に近い月を見あげる。
殴られた痛みが、頬にはっきりと残っていた。
きっちり殴り返しておいてなんだが、石苞を責めようとは思えなかった。
「ま、まちがっているのは、俺の、ほうだ……」
これまでの苦労をふいにしてしまいかねない、愚かしい行動を選んだのは、鄧艾のほうだった。
いや、選んだのではない。
ほどこしをうけたと感じた瞬間、反射的に好意を拒絶してしまったのだ。
突発的な感情にふりまわされる自分が、ひどく情けなかった。
自責の念にさいなまれ、鄧艾は視線を落とした。
膝の上に置かれた三尺あまりの名刀が、実際の重量よりもはるかに重く感じられる。
いまの彼には不釣り合いな代物だった。
石苞は鄧艾の才能を高く評価してくれる。
だが、鄧艾にしてみれば逆だ。
石苞のような自分を制御できる人物こそ稀有だと思う。
如才ない彼は、いずれ自分で宣言したとおりに出世してみせるだろう。
「……そ、それに、ひきかえ、俺は……」
自分の思考を言語化すらできず、ちっぽけな自尊心にふりまわされる。
こんな調子で、立派な人物になれるとは思えなかった。
鄧艾は左手で黒鞘をつかむと、月にかざした。
孔明の名は、彼におそれとあこがれを抱かせるが、それだけではなかった。
この刀は陳寔のために打たれたものだという。
陳寔の名は、鄧艾にとって特別な意味があった。
右手で柄を握り、ゆっくりと刀を抜いていく。
夜空にきらめく星々を砕いて鍛えあげたかのような、黒く輝く刀身があらわになる。
その魔性の美しさに、鄧艾は息をのんで見惚れ、つぎの瞬間、驚愕に目を見ひらいた。
『文は世の範たり、行いは士の則たり』
月光に照らし出されたその刀身には、彼が失った本来の名がきざまれていた。
鄧艾の脳裏に、いやおうなく、鄧範と名乗っていたころの記憶がよみがえった。




