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第一一二話 農民からの成りあがり


「…………」


 鄧艾とうがいは、非難がましい目で私を見つめ返して、かすかに口を動かした。

 だが、うまく言葉にできないのだろう、反論は出てこなかった。


 彼にしてみれば、ひどい話にちがいない。

 弟子になるのを拒んだら、いきなり高価なものを押しつけられて、過度な期待をかけられているのだから。


 あげくの果てに、私はこれから、彼にとどめを刺そうとしているのだ。


「明日、私は襄城を発たねばならぬ。ひと晩、じっくり考えてほしい。決心がつかないようであれば、また、おぬしを誘いに来よう」


 私が何度も訪れれば、鄧艾の立場では、首を縦に振らざるをえまい。

 容赦なきストーキング宣言をうけて、鄧艾は呆然と立ち尽くした。


 すまぬ、鄧艾。すまぬ……。

 おじさんがちゃんと出世させたるかんな、なっ?




   ◆◆◆




 孔明は去った。郭玄信をともない去っていった。

 それにしても、なんという衝撃を残していったのだろうか。

 十五歳の若者たちは、いままさしく人生の岐路に立たされていた。


 石苞せきほうは感激に顔を輝かせたまま、鄧艾は色を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。


 孔明たちの姿が見えなくなると、


「……帰るか」


 石苞は、顔と声から感情を消して告げた。


「…………」


 鄧艾は答えを返さない。

 彼を無視して石苞が歩きだすと、鄧艾も歩調を合わせて歩きだした。


 彼らの家は城外にある。畑のそばにあったほうが農業に従事しやすいからであり、城内に家を持つことができないからでもある。


 しばらく歩いて、人の気配が完全になくなったところで、石苞はなんの前触れもなく行動した。鄧艾の顔面に、拳を叩きこんだのである。


「…………っ!?」


 くぐもった声をもらして、鄧艾はよろめき、あとずさった。


 石苞は怒りに両目をつりあげていた。感激ではなく、怒気が顔を紅潮させている。孔明はおろか、典農都尉の前でも、一度も見せたことのない形相であった。


「おまえ、自分だけでなく、俺の足まで引っ張るつもりか!? なんであんな失礼な態度をとった!?」


「…………」


 鄧艾は顔をしかめた。

 沈黙をつづける彼を見て、石苞はふたたび拳を握りしめた。


「歯ぁ食いしばれッ!」


 歯を食いしばらずに、鄧艾は飛びすさった。直後に、彼の胴体があった空間を、石苞の足がすさまじい勢いで通りすぎた。


 さも顔を狙うように見せかけておいて、腹をめがけて蹴りが放たれたのである。


 だが、そこは鄧艾、友人のひと癖ある性格をよく知っていた。騙されることなくその蹴りを回避すると、大きく踏みこみ、お返しとばかりに石苞のみぞおちに拳を叩きこむことに成功する。


 これにはたまらず、石苞はうめき声をあげ、あぜみちにしりもちをついた。


 やられた分を正確に返そうとするなら、顔面に拳を叩きこむことも可能であったはずだが、鄧艾はそうしなかった。手加減したわけでもなければ、情けをかけたわけでもない。


 彼らが喧嘩をするのは、これが初めてではなかったが、鄧艾が石苞の顔面を狙ったことは一度もなかった。


 女に生まれていれば傾国とも評されたであろう美貌は、男であろうと世を渡るための武器となりうる。たかが喧嘩で傷つけるわけにはいかない、というのが彼らのあいだでは暗黙の了解となっていた。


 石苞はみぞおちをおさえ、痛みに顔をゆがめた。それでも呼吸をととのえると、なにごともなかったかのように立ちあがり、詰問する。


士載しさい。俺たちは、この機をのがすわけにはいかない。ちがうかッ!」


「…………」


「孔明先生だ。あの孔明先生だぞ。素直にうなずいて、弟子になっときゃいいだろうが!」


「ちゅ、仲容ちゅうようは、弟子になれば、いい」


 鄧艾はそっけない態度で断った。

 ようやく発せられた言葉が明確な拒絶だったのだ。

 石苞は地団太を踏んでわめいた。


「なんで、そう意地っ張りなんだよ! おまえの悪い癖だ。見くびられたと感じたとたんに、妙に感情的になりやがる!」


「お、俺は、おまえみたいに、口がまわらない。ひとりじゃ、ろくに案内も、できなかった。評価される、ようなことは、なにもしていない」


 鄧艾の言葉は正論のように聞こえるが、じつはそうではない。

 感情による自分の意固地な態度を、理屈でごまかしているだけなのは明白だった。


「ちっ。まあ、おまえがひねくれてるのはいまさらだ。吃音のせいで、いつも割を食わされてるからな。なにをやってもちやほやしてもらえる俺が、どうこういえたもんじゃねえ」


 石苞は不快げに舌打ちした。そこに自分の容姿を誇る色はない。


 もともと彼にとって、自分の顔は周囲のおぼえをよくするための道具にすぎない。道具を活用して成果を得たのであればともかく、その過程にとどまっているだけの現状では、誇れるようなものではなかった。


「けどな、士載。たぶん、今回はちがう」


「…………?」


 鄧艾は怪訝けげんそうに眼をすがめた。


「俺は、品定めされるのに慣れてるからな。視線でわかるんだよ。孔明先生は今日一日、俺よりおまえに注目していた」


「……っ!?」


 唇をわずかに動かすが、鄧艾の不器用な口はやはり言葉をつむげなかった。


「さすが人物鑑定の大家といわれるだけあるぜ。あの人はおまえの才能を見抜いたんだ」


「…………」


 鄧艾の顔に困惑の色が広がっていく。


「頭を冷やして考えるんだな。おまえがこの好機を棒に振るようなバカとは思わねえが、もしそうなら、もう絶交だ。俺はこの機会をのがさねえぞ。孔明先生に弟子入りして、絶対に成りあがってやる」


 あえてつきはなすような口調でいうと、石苞は友人に背をむけ、ひとり家路についた。






 石苞の家は、母と年のはなれた弟と妹の四人家族である。

 彼が十一歳のときに、父は亡くなった。


 裕福ではなかったが自作農だった父は、それなりの規模の畑を残してくれた。

 だが、一族の者がしゃしゃり出てきて、こう主張した。


幼子おさなごをふたり抱えた女と、十一歳の石苞だけでは、この畑は管理しきれまい」


 くやしいが事実だった。


 彼らは畑をつぎつぎと切り取っていき、あっというまに、父が残してくれた畑の面積は半分以下になった。


 のちに、彼らが役人と結託していたらしいという噂話も聞いたが、真相は闇のなかだ。


 母は子守りに追われていたため、石苞はほとんどひとりで畑を耕した。


 父の死から一年ほどたったころ、母よりすこし若い優男やさおとこが家に上がりこむようになった。


 石苞はその男が嫌いだった。男が母にむける視線も、母が男にむける視線も気に食わなかった。


 しかし、母のためと思えば、我慢するしかなかった。

 そして、彼の我慢はこれ以上ない形で裏切られた。


 家にわずかに残されていた金目の物をもって、男が姿をくらましたのだ。

 床に呆然とすわりこんで虚空を見つめる母の姿を、石苞は一生忘れられないだろう。


 ほどなく、男にだまされた母の噂話が、石苞にも聞こえてくるようになった。


 侮蔑ぶべつ、中傷……石苞の耳にすら入ってくるのだ。母に伝わらないわけがない。


 石苞の目から見ても心の強い人ではなかった母は、この一件から人目をさけるようになった。家のなかにこもり、我が子以外と顔をあわせなくなった。


 ある夜のことだった。小さな物音で、石苞は目を覚ました。


 昼間ひとりで農作業に従事している彼は、いつも朝までぐっすりと眠りこけている。


 それがこのときにかぎってかすかな物音に気づけたのは、彼自身、無意識のうちに不吉な前兆をかぎとっていたからかもしれない。


 目を覚ましたとき、そばで寝ているのは幼い弟と妹だけだった。


 母の姿が消えていた。


 井戸水に漬けこんだ手で心臓を握られるような、底知れない恐怖が石苞を襲った。

 彼は察した。自分たちは捨てられたのだ。


 跳ね起きて、あわてて母を追いかけた。家を出てすぐに、母のうしろ姿を発見できたのは、いまにして思えば奇跡というしかなかった。


「母ちゃん、行かないで!」


 震えながらしぼりだした叫び声は、けっして大きくない、弱々しいものだった。

 母はこわごわと振り返って、悲しそうに目を伏せた。


「……ごめんなさい」


 ああ、石苞はあらためて理解した。


 母は姿をくらまそうとしている。どこかで別人として生きていけるのか、野垂れ死んでしまうのかはわからないが、自分たちを捨てようとしているのだけはまちがいなかった。


 頼りない母であろうと、母は母だ。

 置いていかれるのはたまらなくおそろしかった。


 幼い弟と妹を自分だけで守っていかなければならないと思うと、不安はいっそう耐えがたかった。見知らぬ土地にひとりで放りだされるよりも、はるかに心細かった。


 石苞はすがりつくようにして母を抱きとめた。


「行かないで! 俺がなんとかする。全部、俺がなんとかするから!」


 十二歳の石苞の身長は、母を超えたところだった。

 折れそうな母の体が、かえって命の重みを、彼に痛感させた。


 家族の命は、いまや石苞の双肩にかかっていた。

 彼は一刻も早く大人に、一家の大黒柱になる必要があった。


 みずから仲容というあざなをつけた石苞は、まず将来のことを考えた。

 弟と妹が大きくなっていけば、いまの畑で食わせていくのはむずかしくなる。


 そこで目にとまったのが、屯田民募集の立て札だった。

 屯田民になれば税率は上がってしまうが、労働力さえ提供できれば食ってはいける。


 弟と妹が成長したら、食い扶持が増えると同時に人手も増えるのだ。

 彼らにも農作業を手伝ってもらえばよい。


 さほど悩まずに、石苞は屯田民に志願した。


 なにより、家に閉じこもったままの母が心配だった。

 母の心を癒し、回復させるためにも、この地をはなれたほうがよかった。


 父の畑を奪っていった一族や、母の陰口を叩いて心が壊れるまで追いつめた連中がいる故郷に、未練などあるはずもなかった。


 逃げるようにして、石苞一家は襄城県にやってきた。

 屯田民としてあらたな生活をはじめるうえで重要なのは、いかに周囲の心証をよくするかである。


 生まれつき持ちあわせていた顔のよさを、利用しない手はなかった。

 石苞は常に笑顔を浮かべ、積極的に人に歩みよるようになった。


 媚びを売れば、周囲の大人たちは彼の仕事ぶりを過大に評価し、失態は過少に見なしてくれた。なにしろ笑顔は原価がかからないのだから、売り惜しむ理由はなかった。


 たちまち襄城で評判となった石苞は、ある日、いじめの現場に遭遇した。

 自分と同じ年頃の少年が、吃音だという理由で、よってたかってからかわれているようだった。


 仲間はずれを見つけていたぶるほど、すでに石苞の精神は幼稚ではなかった。それに、こうした場面でどのような態度をとれば、大人たちからの評価を上げられるかも心得ていた。仁をしめせばよいのだ。


 石苞はその集団をやんわりとたしなめた。誰も文句をいえなくなるほどの微笑みを浮かべてやると、気勢をそがれた彼らは、あっさりと退散していった。


 あとに残された少年を見て、石苞は、おや、と思った。

 被害者であったはずの少年からは、被害者らしい弱々しさが感じられなかったのだ。


 普通なら身をちぢこまらせるなり、下をむくなりしていそうなものだが、少年はやたら堂々と相手の背中をにらみつけていた。そして、そのするどい視線を困惑へ変えて石苞を見やると、感謝を伝えるように軽く頭をさげ、無言のまま、肩で風を切って歩み去っていった。


 かくして、のちに農民から三公へと昇りつめる、ふたりの少年は出会った。




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いいなあ二人
石苞が鄧艾をオレの足引っ張んのかと殴った時は上部だけの関係かと思ったが その後の話見てそんな本音当たり前なくらいお互い認め合った仲だったんだな
更新感謝。御疲れ様です。 見られ慣れしている者は視線を気にするとか。 それはそうと劣等感が減れば鄧艾が更に超人になりませんか……。 そして孔明先生は退かぬ……疑惑から走げる為には退けぬのだ……師走だ…
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