第一一一話 鄧艾と石苞
翌日の朝、典農都尉が恐縮した様子でやってきた。
「孔明先生、穀物を輸送する件ですが、出立は明日の昼近くになりそうでございます」
彼の目は「私は一生懸命やっております」と強く主張している。
実際、彼はちゃんと仕事をしているはずだ。
馬車を用立て、それに穀物を積み込む。護衛につける兵士だってそれなりに必要だろう。
荀彧の命令が急だったのだ。
「うむ。急がせてすまんな」
私は声に申し訳なさをにじませ、さりげなく下手に出た。
「滅相もございません」
あわてて首を振り、揉み手をしながら、典農都尉はさらに下手にまわった。
なかなか堂に入った揉み手ぶりである。
「それでは今日一日、私は襄城の様子を見てまわることにしよう」
「ははっ」
この一件で、急な仕事を押しつけられた、と彼が不満に思っているのだとしたら、そのままにしておくのはよくないので、私は典農都尉をもちあげることにした。
「とくに城外に広がる粟畑は、見事のひとことに尽きる。典農都尉であるおぬしの監督が、行きとどいているからであろう」
典農都尉は屯田官だ。自分の仕事ぶりを褒められれば悪い気はしないだろう。
「ははーっ、ありがたきお言葉にございます。……そういえば、昨夜、湯をはこばせたふたりも典農部民なのですが、彼らはいかがでしたでしょうか?」
「いかが、とは?」
「ふたりとも、はたらき者で親孝行。しかも、たびたび自主的に私の仕事を手伝ってくれる、できた若者でございましてな」
「ほう、それは感心だ」
「とくに石苞は顔がいい。その容姿、襄城で並ぶ者なし、と評判でございまして……」
あ、石苞については、やっぱりそういう共通認識なのね。
「孔明先生に気に入っていただけたら、幸いでございますが」
典農都尉の両眼に、粘着質な光が宿る。
好色というか低俗というか、なんともイヤな感じのする光だった。
昨夜のあれは、本当に性的接待というか、ハニートラップ的なものだったのかもしれない。
それはそれとして、どうやらこの男は、あのふたり、とくに石苞を私に売り込もうとしているようだ。私の狙いは鄧艾なのだが、これを利用しない手はない。
「ふむ、たしかに機転の利きそうな若者たちであった。せっかくだ、あのふたりを案内人として私につけてくれぬだろうか。ちょうど襄城の案内役が欲しかったところだ」
「かしこまりました」
典農都尉は目を輝かせ、いっそうはげしく揉み手をした。
よし、これであのふたりと接触する機会を増やせた。
「鄧艾を青田買いし、彼の出世にかこつけて武将育成ムーブメントを起こそう作戦」は、上々の滑り出しである。
……あらためて考えると、鄧艾の才能に便乗しているだけだな、この作戦。
私と郭玄信は、鄧艾と石苞に案内されながら、襄城の内外を見てまわった。
その過程で、いくつかわかったことがある。
鄧艾と石苞は同い年の十五歳である。
どちらも父を失い、境遇が似ていたことから親しくなったそうだ。
積極的に発言をするのは石苞で、それをたまに、口数の少ない鄧艾が訂正・補足・否定する。
第一印象では、石苞が鄧艾をいいように使っているのではないかと疑ったが、それは私の早合点だったようで、彼らのあいだに上下関係はないようだった。
そうなると、ついでに石苞も弟子にしたほうがいいと思う。片方だけ弟子にするのもなんだし、気心の知れた友人の存在は、鄧艾にもプラスに作用するだろう。
それに、三国志末期の武将のなかに石苞の名もあったように記憶している。彼がその石苞と同一人物かはわからないが、当たれば儲けもの。うまくいかなかったとしても、ささいなことにちがいない。
空が藍色へと暮れなずみ、そろそろ典農都尉の家に戻るか、となったころ。
粟畑の脇のあぜみちで、私は話を切りだした。
「鄧艾、石苞。おぬしたちにはすぐれた資質がある。磨きあげれば、きっと光り輝くであろう。私の弟子にならぬか?」
案内中、ずっとにこやかな笑みをたたえていた石苞は、ぱぁっと顔を輝かせた。
「ありがとう存じます! 孔明先生の下で学べるのであれば、これに勝るよろこびはございません!」
しかし、すぐにその顔を曇らせ、
「ですが、私たちは家族を養わなければなりません。家族をともなって、陸渾へ移住できればよいのですが……」
「うむ。むろん、家族とひきはなすつもりはない。家族もつれてきなさい。私が畑を融通しよう」
名士パワーは伊達じゃない。
二家族分の畑を用意する程度であれば、私にも十分に可能なのだ。
「……せ、せっかくで、ございますが、お、お断り、もうしあげます」
想定外の答えを返してきたのは、鄧艾だった。
えっ、な、なんで!?
動揺を隠して、私は訊ねる。
「悪い話ではないと思うのだが?」
「ほ、ほどこしをうける、つもりは、ありません」
返ってきたのは、かたくなな声だった。
鄧艾は、私が彼らの境遇に同情している、と思ったのだろう。
「これはほどこしではない。おぬしたちの才能を評価して、私が望んだことだ」
「じ、自分は、なんの才能も、示していません。せ、石仲容の、お、おこぼれにあずかる、つもりは、ありません」
ぼそぼそしたしゃべりかたで、鄧艾は答えた。
意志の強さと固さを感じさせる声だった。
逆、逆ぅッ! ついでなのは石苞のほうよ!?
表情に出さない自信がなかったので、私は手にした白羽扇で、顔の下半分を隠す。
ま、まずい。
このままでは肝心の鄧艾をのがして、石苞だけを弟子に取ることになってしまう。
私の脳内で、近所の奥様方が井戸端会議をはじめた。
「孔明先生ったら、あの石苞って子をひと目見るなり気に入って、弟子にしたらしいのよ」
「あらまあ……。孔明先生に、そのようなご趣味があったなんて」
「浮いた話がないと思っていたら、どうりで……」
「やーねえ」
……なんてことだ、なんてことだッ!?
こんなしょうもない勘ちがいによって、私が長年積みかさねてきた信望と名声が、大きく損なわれようとしているだなんて。
ありえない。絶対にあってはならないことである!
石苞だけを弟子にするパターンは、最悪といってよかった。
なんとしても鄧艾を弟子にしなければならない。
もはや、「天下を救う」だの、「異民族の侵略をふせぐ」だのといった、世迷い言をほざいている場合ではない。
私自身のために、絶対に鄧艾を弟子にする! 絶対にッ!
誠意だ、誠意を見せろ、胡孔明ッ!!
数秒の沈黙と思考のすえに、私は陳羣にもらった名刀を鞘ごと、鄧艾に差しだした。
いまの私がもっている、もっとも価値の高いものが、この刀だ。
「鄧艾、この刀を手に取りなさい」
いわれるがままに、鄧艾は両手で刀をうけとる。
すると、郭玄信がおどろいたように目を見張って、
「もしや、その刀は、陳寔さまのために打たれたという、あの……」
「うむ」
私が小さくうなずくと、郭玄信は興奮したように、
「黒山賊一万の陣中に単身で乗りこんだ孔明先生が、鞘から抜き放つや、ただひと振りで賊将・張白騎の首を斬りとばしたという、伝説の名刀・蛟影!」
「いや待て」
思わず声に出してツッコんでしまった。
いやだって、なんで私が張白騎を討ったことになってんのッ!?
しかも、いつの間にか、私の刀に銘までついてるしッ!?
うわさ話に尾ひれがつくのはよくあることだが、それにも限度というものがあろう。さすがにふかしすぎである。
誤りを訂正する必要性を感じた私は、かるく咳払いをして、
「張白騎は、黒山賊の内紛で命を落としたのであって、けっして私が討ったわけではないぞ」
「そ、そうだったのですか……」
郭玄信の声が少々トーンダウンしたが、私にそんな武勇談を期待しないでほしい。
ペースを乱されてしまった。ともかく、私は落ち着いた口調で鄧艾に語りかける。
「その刀は、おぬしにさずけよう」
「……っ!? う、うけとれません」
鄧艾の反応はごく普通の、想定の範囲内のものだった。
だから、私も動揺することなく対応できる。
「見事な刀と優秀な人材、どちらに重きを置くべきか。後者なのは自明の理といえよう。おぬしの才は大きな可能性を秘めている。私はこれでも、人を見る目がある、といわれておってな。……もう、わかるであろう。おぬしにこの刀をさずけるのは、ほどこしでも、おこぼれでもない。同情や、あわれみの気持ちからでもない。この刀を所有するのにふさわしい人物になれ、と私はいっておるのだ」
我ながらその場のノリで適当なことをいってるなあ、と思いつつも、私は声に力をこめ、鄧艾の目をしっかと見据えるのだった。




