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第一〇八話 賢者の帰還


 陰陽おんよう両気が衝突し、雲かき乱れ、天雷がとどろきわたる。


 建安十六年(二一一年)三月、韓遂かんすいの居城を、雨に打たれた武人が訪れた。


 豪将として世に知られたる、馬超孟起ばちょうもうきである。

 白銀の鎧を身にまとったその姿は、もはや若武者やら若大将といった形容はふさわしくない。大将の威風あふれる、堂々たる姿であった。


「どうしたのだ、馬超」


 韓遂が問いかけたのは、馬超のまなざしが、なにかを訴えるような強い光をやどしていたからである。


「韓遂どのなら知っているでしょう。鍾繇しょうようどのが漢中郡の張魯ちょうろ討伐を命じられたそうです」


「むろん知っておる。曹操自身、ぎょうで張魯討伐の軍勢を組織しているとも聞く」


 韓遂は声と表情を曇らせた。

 韓遂も、張魯討伐の動きに頭を悩ませていたのである。


「曹操の狙いは、本当に張魯なのでしょうか? 関中諸将から警戒の声があがっています。曹操は、張魯討伐という名目でこの地に軍を入れ、我々を制圧するつもりなのではないか、と」


 馬超の疑念は、まさに韓遂が抱えている悩みそのものであった。


「馬超、おぬしはどう考えているのだ?」


「私も曹操の言葉など信用していません」


 馬超の返答を聞いて、韓遂は嘆息した。


「……たしかに、曹操は信用ならん。あの男にしてみれば、漢中よりこの関中のほうがよほど重要だ。張魯よりも我々の存在のほうが目障りであろう」


「反発しているのは、諸将だけではない。民も声をあげはじめているのです」


「……民衆の反発も強まっている、か」


「中央の軍勢がこの地にとどまれば、自分たちは虐げられ、搾取されるのではないか。民は怯えています。そして、彼らの陳情の声が、私のもとに集まっているのです。中央の差別と支配に屈服しないでくれ、自分たちを守ってくれ、と」


 語りながら、馬超は悩ましげに顔をしかめた。


 関西の民衆は不安のどん底にいる。

 だが、戦ってくれと請われて即座にうなずけるほど、曹操はたやすい相手ではない。


「私のところにも、民の要望はとどいているが……。馬超、おぬし、曹操と戦うつもりか?」


「……それを、関西の民が望むのであれば」


 馬超はまなじりを決して答えたが、決意の表情は、ほんの一瞬で、憂い顔へと変化した。困りはてたように、


「ですが、ひとつ問題があるのです」


 馬超の言葉に、韓遂は苦笑してかぶりを振った。


「ひとつどころではなかろう。どこを見ても問題ばかりだろうに。……まあよい。それで、おぬしが考える問題とは?」


「人質です」


 馬超は苦々しげにいった。


 馬超の父、馬騰とその一族は鄴で暮らしている。

 彼らの生殺与奪の権は、曹操が握っているのだ。


 韓遂にとっても他人事ではなかった。

 韓遂の子と孫も、馬騰たちと同様、鄴にいる。


「うむ……曹操に反旗をひるがえせば、人質はただではすむまい」


「…………」


 答えることのできない馬超に、韓遂は剣の切っ先をつきつけるかのように告げる。


「曹操に逆らって人質を皆殺しにされようものなら、おぬしの名は、親不孝者の大うつけとして、末代まで語り継がれるであろう。正直、利口な選択ではない」


「……ですが、私は、父から軍閥を託された身。軍閥の維持を第一に考えねばなりません」


 顔をゆがめたままではあったが、馬超はいいきった。


 曹操の軍勢が関中を支配すれば、馬超が父から継いだ軍閥はいずれ解体される。やはり、馬超には戦う以外に道はないのだろう。


「すでに覚悟は決めているようだな。そうなると、人質についてだが」


「なにかよい策はないでしょうか?」


 老練な韓遂は、自身の経験を振り返りながら、


「おそらく、曹操はすぐには人質を殺さないだろう」


「といいますと?」


「曹操にとって、馬騰たちの身柄は貴重な交渉材料だ。戦に負ければ、彼らの身柄を使い、すこしでも有利な条件で講和をむすぼうとしてくるだろう」


「つまり、勝てばよい。勝って、曹操から譲歩を引き出せばよい、と?」


「まあ、そういうことになる。だが、曹操はいままでおぬしが戦ってきた敵の比ではないぞ」


「わかっています」


 馬超は口をひきむすんだ。返答は短いが、軽いものではなかった。

 決意と覚悟の重みが感じられる。


 その重みを確認するかのように、韓遂は話題を振った。


「そうか。……ときに馬超よ。孔明先生が異郷へ旅立たれたときのことはおぼえていよう」


「むろん、おぼえています。あれからもう二年近くが経ちます」


「孔明先生は旅立つ前に、曹操との戦いはさけるように、と、おぬしにいい残したと伝え聞いているが?」


「それはそうなのですが……当時とは状況が変わってしまった」


 馬超が肩を落とすと、韓遂もなげかわしいといいたげに首を振る。


「鍾繇どののことか……」


高幹こうかん張白騎ちょうはくきも死んだ。荊州も制圧した。周囲に敵対勢力は存在しなくなったというのに、鍾繇どのは軍備増強を進めています。我々を仮想敵と見なしているようにしか思えませぬ」


 馬超がもらした不審は、彼だけのものではない。

 関中諸将、ひいては兵卒や民衆が抱えている、不審と不安である。


 韓遂の胸にも、不審と疑念はくすぶっていた。


「うむ、私もその点は警戒していた。鍾繇どのはまつりごとに注力すべきだ。いざ軍事力が必要になれば、そのときは我々を頼ればよいはず。……すべて、関中進出の準備としか思えぬ」


 文の関東、武の関西、役割を分担して統治していけばよいはずなのだ。

 だが、馬超や韓遂たちの存在は、鍾繇がめざしている政体から排除されているように思われる。


「孔明先生の愛読書だという春秋左氏伝にも、まさに仮道伐虢かどうばっかくという例があります」


 馬超がさかしげな発言をした。


 道をりてかくつ、これは春秋戦国時代の話である。


 大国の晋は、小国のと虢を併呑へいどんしようとくわだてていた。しかし、小国とはいえこの二国は協力しあっており、同時に攻め滅ぼすのはむずかしい。そこで晋は、虞に宝物を贈ってこういった。


「虢へ進軍するために、虞の国内を通ることを許可してほしい。もちろん、虞にはいっさい手を出さない」


 虞の君主は、部下の諫めに耳を貸さず、晋の甘言に乗ってしまった。こうして孤立した虢は、晋によって滅ぼされ、ほどなく虞も同じ運命をたどることになったのである。


 いまの馬超と韓遂は、虞の君主と同じ立場にいる。


「……そうだな、おぬしのいうとおりだ。虞の二の舞にはなるわけにはいかん」


 じつは韓遂は覚悟を決めかねていたのだが、馬超が戦うというのであれば、関中が一丸とならねば、とうてい曹操には勝てまい。


「やるしかあるまい」


 韓遂は踏み切った。自身の退路を断つための発言でもあった。


 協力を取りつけた馬超は、


「曹操に涼州兵の意地を見せん!」


 苛烈な闘志とともにいい放つと、韓遂の居城をあとにした。


 すでに雨はやんでいる。


 韓遂は室外に出ると、暗くなった空を見あげてつぶやいた。


「若いな、馬超……。民の声を正面からうけとめてしまったか」


 韓遂には、降伏という選択肢に、うしろ髪をひかれる思いがあった。


 降伏すれば、それなりに厚く遇してもらえよう。

 民が戦ってくれと懇願してきても、のらりくらりとかわせばよいのだ。


「だが、馬超はまちがっていない。関西の民は、関東の支配をうけいれることはできぬ」


 仮道伐虢という故事をもちだした馬超は、戦略的にも正しい判断をしている。


 もし馬超と変わらぬ年齢であれば、韓遂こそが率先して、反曹操勢力を結集させるべく走りまわっていたであろう。


「正しい、正しい……しかし、あやうい。こういうときにこそ、孔明先生のお知恵を拝借したかったが……。いまごろどこを旅しておられるのやら」


 もともと、孔明は椅子や粉食といった異文化に造詣が深い。異民族に興味を抱いて、彼らの生活を見てまわるというのも理解できないではない。


 だが、これは馬超もそうなのだが、異民族と親しくしている韓遂は、孔明の旅の真意を知らされていなかった。それゆえ、国をはなれた孔明の判断を、理解しかねる面もあるのだった。


 韓遂が思うに、孔明は天下の中心にいなければならない人物である。洛陽や許都、鄴といった天下を動かしうる場所の近隣こそが、彼の居場所にちがいないのだ。


 夜空を見あげる韓遂の顔は、憂色で染まっていた。


 厚い雲の合間から、満月に近い月が顔をのぞかせている。

 雨がやみ、雲が流れようと、関西の明日はようとして知れなかった。


 ……馬超と韓遂の決意と覚悟は、夏を過ぎ、秋に現実のものとなった。


 長旅を終えた孔明が、中原への帰還を果たしたのは、馬超たちが潼関どうかんで曹操軍と対峙している、まさにそのころであった。




   ◆◆◆




 潁川えいせんよ、私は帰ってきた!


 建安十六年九月、長旅でボーボーになっていたひげを三国志テイストにととのえてから、私は荀彧の屋敷を訪れた。


 室内でお茶を飲んで待つことしばし。


 家人から連絡をうけた荀彧が、官舎に泊まりこむ予定を急遽変更して、息せき切って自宅に帰ってきた。


「孔明ッ!」


「おお、文若ぶんじゃく。壮健だったようだな」


 荀彧が喜色満面で、とうに座っていた私の肩を抱いた。


「おたがいさまだ! よく帰ってきた!」


「ああ文若、泣かないで」と、やさしく声をかけるべきだったのかもしれないが、私はちょっとばかり照れ臭くなると同時に、別の感想をいだいていた。


 荀彧さん、お香臭い。


 荀彧はマナーとして、衣服に香をきしめているのだが、その香りが私の鼻を強烈に刺激する。


 思えば、モンゴル高原の澄んだ空気を吸ってきたのだ。

 私の鼻は、ぜいたくを知ってしまったのだろう。


 許都城内に足を踏み入れたときも、あふれかえる人と商品より、まず空気の悪さが気になったし。


 すこし時間を置いて落ち着いてから、荀彧が晴れやかな声で問いかけてきた。


「それで、旅はどうだった?」


「うむ。むろん、この国の破滅をふせぐ特効薬など存在しない。だが、いろいろ知見は得られた。文若に伝えておかねばならぬことも、いくつかある」


「そうか。この二年あまりで、こっちもいろいろあった。それについてはおいおい話すとして、まずは君が一番肝心だと思う話を聞かせてくれ」


「うむ……」


 私は心と呼吸をととのえなければならなかった。


 自分が、けっこうとんでもないことをいおうとしているのは、自覚している。


 けれど、必要なことだと思うし、荀彧の力がなければ対処のしようがない問題でもある。


 ゆっくり息をはいてから、重々しく、私は口をひらいた。


「……孔子の教えが、この国を滅ぼす」


「な、なんだって……!?」


 予想どおり、荀彧は大きく目を見張っておどろいた。

 ふふふ、なにを隠そう、私は荀文若をおどろかせる達人である。


 もちろん、私だって孔子の教えや儒教そのものを否定するつもりはない。

 ……けれど、とある文の解釈に問題があるように思えるのだ。




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― 新着の感想 ―
感想返しで二部は帰ってきたところから、って聞いてたので帰ってきた孔明先生がまず何から着手するのかなーと楽しみにしてたんですが、そこにいきなり切り込んでくるとは。仮にも孔子と同じ文字をあざなに持ってるの…
孔明先生、漢の柱の六五が相手とは流石戦う相手の格が違いますな……(震え声) よーし対抗して五斗米道を(晋がしんでしまいます)
こうしの教えって…… 祝福がほしいなら 悲しみを知り 独りで泣きましょう そして輝く だっけ?
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