第一〇七話 志は万里にあり
明けて翌日、荀彧の脳髄は、二日酔いによる不調を訴えていた。
飲みすぎないよう自制していたため、頭痛に悩まされるほどではないが、頭のはたらきはあきらかに鈍っている。
さらに、不調の原因が酒だけではないことを、彼は自覚していた。
「思った以上に、私は気落ちしているのだろうな」
自分の心情を、荀彧は冷静に分析した。
本音をいえば、彼は孔明を引きとめたかったのだ。
渡り鳥のように異郷を旅してまわるとなれば、無事に帰ってこられる保証はどこにもない。
だが、郭嘉が孔明に遺事を託したのは、孔明が適任だと考えたからであろうし、孔明がそれに応えようとしているのも同様の判断をしたからであろう。
彼らの思考と事の重大性を理解できてしまう荀彧としては、引きとめるわけにもいかなかったのである。
「荀彧どの、どうなされた?」
と周囲の者に問われなかったのは、荀彧が胸の奥底でため息をつきながらも、常と変わらぬ業務をこなしてみせたからであろう。
一日の業務を終えて、屋敷ではなく官舎の自室に戻ったところで、荀彧は怪訝そうな表情を浮かべた。彼の部屋の前で、三人組が話しこんでいたのである。
そのひとり、荀家の家人は主人の顔を見つけて、目を輝かせた。
「荀彧さま、お帰りなさいませ」
家人と話していた男が振り返ると、その男は辛毗であった。
「おお、文若どの。辛佐治、ただいま許都に着任いたした。これっ」
と辛毗は、となりに立つ人物にあいさつをうながした。
荀彧が怪訝な顔をしたのは、その人物が妙齢の女性だったからである。
もっとも、辛毗が同伴しているとわかれば、推察はつく。
「荀彧さま、お初にお目にかかります。辛憲英ともうします」
辛憲英は深々と頭をさげた。理知的な表情と声が印象的である。
女性らしく一歩引いてみせながらも、かけらも物怖じしていない辛憲英の態度に、思わず荀彧は顔をほころばせた。
なるほど、もし娘が男に生まれていたら、と辛毗が惜しんでいるというのもうなずける。
「どうやら、待たせてしまったようだね」
荀彧はそういって、辛毗と辛憲英を自室に招き入れた。
むしろに座してから、辛毗はあらためてあいさつする。
「これより、議郎として忠勤に励むことになりもうした」
「よく来てくれた、佐治。君が許都にいてくれると心強い」
荀彧は本心から歓迎した。
かつて袁家に仕えていた辛毗は、鄴陥落と同時に捕らえられ、曹操の軍門に下っていた。以降、おもに鄴で勤務しており、故郷の潁川に戻ってきたのは、荀彧の知るかぎり今回が二度目である。
しかも、前回はごく短期の逗留だったため、辛毗単身であった。そう考えると、鄴で生まれた辛憲英は、初めて父の故郷を訪れたことになる。
「どうかね、辛憲英。許都にはなじめそうかな」
「父から聞いて想像していたよりも、ずっと活気のある地だと感じております」
「そうか。潁川も昔に比べてにぎやかになったからね」
荀彧が穏やかに微笑した。
一度は廃墟となった故郷を再建できたのは、曹操の力によるところが大きい。
それだけでも自分の選択はまちがっていなかったのだと、荀彧は確信できる。
「私は鄴で生まれ育った身ゆえ、洛陽や長安の街並みは存じあげませぬが、都とはどこも華やかで栄えているのでございましょうね」
辛憲英も唇に小さな笑みを浮かべた。その笑みはあでやかな山里紅の実を思わせた。棘があるという意味においても。
荀彧は硬直した。意識して微笑を維持しなければならなかった。辛憲英は無知をよそおっているが、彼女の返答は、いかようにも解釈できる巧妙なものだったのである。
洛陽と長安はかつて漢朝の首都だった都である。辛憲英はその両都を置いて、現在天子のおわす許都と、曹操のお膝元たる鄴を並列しているのだ。漢朝を絶対視していないとも解釈できる。
彼女は漢朝の命運が尽きていることをほのめかしているのだろうか。荀彧は内心舌を巻いた。
もっとも、辛憲英のきわどい表現は、まさにいかようにも解釈できるのだ。
ただ単に自分が生まれ育った鄴と、これから暮らすことになるであろう許都を比較しているだけともうけとれる。
漢朝の尚書令である荀彧としては、へたに勘ぐろうとせずに、私事としてうけとめるべきであろう。
「一時期、私も鄴で暮らしていた。ちょうど君が生まれたばかりのころだ」
荀彧と郭嘉が孔明を追いかけ、袁紹のもとから脱出したのは、辛憲英が生まれた直後のことである。
辛毗も当時の逃走劇を思い返したのだろう、首をかしげて、
「そういえば、さきほど街中で出くわした旧友から、孔明どのが許都に滞在していると聞いたのですが……」
「ああ、孔明なら、今朝がた許都を発ったよ」
「なんと、入れちがいになってしまいましたか……」
辛毗が眉根を寄せると、
「すると、孔明どのは文若どのに用事があったのでしょうか?」
「うむ。まぁ、そういうことだ」
荀彧の返答は歯切れが悪い。辛憲英が父とそっくりな表情で指摘する。
「失礼ながら、荀彧さまは浮かぬ顔をしておられるように存じます。その胡昭さまのご用事と、なにか関係がおありなのでは?」
荀彧は苦笑させられた。
彼の顔色が悪いのは、夕刻になっても二日酔いの影響が残っているからである。ほとんど荀彧自身に原因があるのだが、辛憲英の指摘はまったくの見当ちがいともいえなかった。
彼がめずらしく強い酒を飲んだのは、孔明に原因があったし、たとえ飲んでいなかったとしても、まちがいなく気分はすぐれなかったであろう。漢朝の終焉をなんとかうけいれた荀彧にしても、中国そのものの破滅は、とうてい許容できるものではない。
「文若どのを悩ませるとは。孔明どののことだ。またとんでもないことを思いついたのでしょうな」
「……とんでもないことではあるな」
荀彧は嘆息した。
思い至ってしまったのは郭嘉なのだが、とんでもないことにちがいはない。
「それは……秘しておかねばならぬ話でございましょうか?」
質問をくりかえす辛憲英に、
「うむ……ある程度はね」
荀彧は微笑を返した。やはりするどい。
了見のせまい者は「女だてらに」と批判的に見るかもしれないが、優秀な若者は国の宝である。
実際、彼女の質問は、物事の本質をついているのだ。
いまのところ、異民族対策は孔明に一任するしかない。荀彧にできることはなにもないようだが、だからといって、黙したままでいいものかどうか。
公言するなどもってのほかだが、郭嘉の予測と孔明の動きを理解している者が、荀彧ひとりでは心もとない。信頼のおける理解者が必要である。
陳羣がいれば、迷わず彼に打ち明けていたが……辛毗はどうだろうか?
陳羣と比較してしまうと少々軽々しい面もあるが、それは比較対象が悪いのであって、辛毗も約束はしっかり守る男だ。孔明とも親しくしていた辛毗であれば、適格であるように思われる。
「誰にも口外しないと約束するのであれば、君たちにも知っておいてもらいたいのだが」
荀彧は、辛毗と辛憲英の顔を正視した。
「むむっ……心得ました」
「はい。約束いたします」
ふたりが居住まいをただすと、荀彧は声を低めて語りだす。
郭嘉が察知した異民族の脅威。
それに対抗する手段をさぐるべく、孔明が巡察に出ること。
委細を知らされると、辛毗は額の汗を指先でぬぐった。
「この国が、そこまで深刻な危局にあったとは……」
「天下を統一したとしても、太平の世は遠い、ということだ」
荀彧の言葉に、辛毗は二の句が継げなかった。
ようやく乱世の終焉が見えてきたというのに、より困難な現実が待ちかまえている、と告げられたのだ。辛毗が衝撃をうけるのも無理はない。
男どもが渋面をつきあわせていると、辛憲英がためらいを越えて口をひらいた。
「危惧の念を抱くのはよろしいでしょう」
彼女の声には張りと力感がある。
「ですが、異郷を旅してまわる胡昭さまの決意、いかほどでございましょうか。父上も荀彧さまも官職にあるのです。気を落としている場合ではございません」
どうやら辛憲英は、父よりも早く衝撃を飲みこんだようであった。
つくづく男でないことが惜しまれる。荀彧は破顔し、称賛を送った。
「や、これは手厳しい。しかし、君のいうとおりだ」
あらためていわれるまでもない。
荀彧は自分が果たすべき役割を認識していたし、見失うつもりもなかった。
「孔明の旅は、万里の長城を越え、それこそ万里を超えるものとなろう。そのあいだに、私たちも国内の問題をひとつひとつ解決していかねばなるまい」
そうでなければ、長旅から帰ってくる孔明に合わせる顔がない。
意気消沈している暇はないのだ。国内においても問題は山積みである。
こと忙しさに関しては、孔明よりも繁忙な日々が、荀彧たちを待ちうけているはずであった。
*****
早朝の風が、木々の葉を涼しげに揺らしている。太陽はまだ低い。陽光を反射し、黄色い川面が輝いている。
右手に雄大な河水を、左手に緑したたる山々を望みながら、私と郭図は馬を歩ませていた。
洛陽と長安をむすぶ大動脈である。通行量は少なくない。
旅人の姿を眺め、郭図は目を細めた。
「洛陽と長安の往来は盛んなようですな」
「うむ。宮城の再建こそまだだが、洛陽は以前のにぎわいを取りもどしている。長安の復興も順調に進んでいるそうだ」
「されば、長安の復興するさまを、そのためにはたらく人々の姿を、それがしもこの目にしかと焼きつけておかねばなりませぬな」
郭図の声には、どこか心に染み入るようなひびきがあった。
許都と鄴、それに洛陽への立ち入りを禁じられている郭図だが、じつは長安への立ち入りは禁じられていないのだ。
彼が目にする漢の大都市は、おそらく長安が最後となるだろう。
「それにしても、孔明どのが馬超と知己であったのは、さいわいでしたな」
「ふふふ、危険は承知しているが、なにも無謀な旅をする必要はあるまい」
馬超は羌族の血を引いていて、しかも土地柄、氐族とも交流がある。
彼に案内人を紹介してもらえば、それなりに安全に、羌族と氐族を見てまわれるはずだ。
五胡十六国時代の到来をふせぐというが、あいにく、私は五胡十六国時代についてくわしくない。
言葉どおりに解釈していいのであれば、五つの異民族が暴れまわり、十六の国が乱立することになるのだろう。
では、五つの異民族とはどこを指すのか?
北の匈奴と鮮卑は確定と見ていいように思える。
残る三つは北東の烏丸、北西の羌族と氐族あたりではないだろうか。
これでちょうど五つだから、だいたいそんなところだろう。
異民族の勢力争いもけっこう熾烈なので、新興勢力が台頭してくることもありうるのだが、そこまで考えてもしかたがない。
とりあえず、北に隣接している異民族を、順番に視察していくつもりである。
馬の背に揺られながら、これからの旅の予定を反芻する。
長安に立ち寄ってから、まずは馬超に会いにいく。
羌と氐の有力部族を見て、そこから北へまわって匈奴と鮮卑、最後に烏丸だ。
このまま河水沿いの道を行けば、じきに潼関が見えてくる。
潼関を越えれば、長安は目と鼻の先だ。
高く青い空を頭上に、私たちは西へ進む。
心地よい風に背を押されながら。
流れる雲を追いかけるように。
【第一部 志在万里 完】




