第一〇六話 未来に希望を見出すために
正直にいうと、二十一世紀の日本人の感覚が多少なりとも残っている私にしてみれば、この時代における家長制度は、性にあわないところがある。
「天に二日なく、土に二王なく、家に二主なし」といわれるほどに、家長は強力な権限を持っているのだ。
しかも、その恭順服従関係は一方的なもので、「父、父たらずといえども、子、子たらざるべからず」なんて言葉もあるくらいだ。
ただし、その一方で、「父、父たらずんば、子、子たらず」という正反対の言葉もある。
家長や父の権限はたしかに強いが、絶対的なものではない。その人物が責任を果たそうとしないのであれば従う必要はない、という格言である。しごくまっとうな金言といえよう。
というわけで、旅に出る決断をした私は、天下の行く末などという規模が大きすぎて実感がわかない話より、自分の私生活を心配していた。
なにしろ、異民族を視察してまわるのだから、どう短く見積もっても一年では終わりそうもない。
そのあいだ家を留守にする私は、家長としての責任を放棄するに等しいわけで。私の家庭内での立場が揺らぎかねない状況である。
そうなると、やることは決まっていた。
妻を説得する、これしかない。
我が家の陰の実力者である彼女を、味方につけておかねばならないのであった。
私は妻に、旅の意義を懇切丁寧に説明し、平身低頭の末に、条件付きながら旅立ちの許可を得ることに成功した。
これで帰ってきたときに、肩身の狭い思いをすることもないはずである。
鳴かぬなら 鳴くまで下座ろう ホトトギス
後漢末期、胡昭孔明という人物は、こんな迷言を残したとか、残さなかったとか。
さて、妻が私に出した条件とは、孫がハイハイするようになるまで出立を遅らせること、であった。赤児を無事に育てるのがいかに大変かを考えれば、私としても異存はない。
必然的に郭図にも出立を遅らせてもらったのだが、
「焦ったところで、どうにかなる問題でもございませんからな」
と、彼も急いではいないようだった。
実際、危機が顕在化するのは、私が死んで、司馬懿が死んで、司馬炎の後継者争いが勃発するころだろうから、ずっと先の話だ。
当然、司馬炎の後継者争いもふせがなきゃいけないだろうし、本当に気の長い計画だと思う。
建安十四年五月、孫がついにハイハイをはじめたので、私は旅立ちの前に、許都へ足をはこんだ。
まず、郭誕という人物の屋敷を訪問する。
郭図が追放処分をうけ、郭嘉が亡くなったいまでは、この郭誕が、潁川郭氏の領袖と見なされている。
「孔明先生、ようこそお越しくださいました」
応対に出たのは二十歳そこそこの若者で、郭誕の息子の郭玄信と名乗った。
「もうしわけございません。父はただいま、鄴へ出かけております」
郭玄信は恐縮しきりのていで、へこへこと頭をさげた。
なんだか小物っぽい態度で、なかなか親近感のわく若者である。
「いや、突然訪問したのは私のほうだ。詫びるのであれば、こちらが詫びねばなるまい。それでは、お父君が帰ってきたら、この信書を渡しておいてほしい」
「はっ。これは……郭公則どのからの信書でございますね。うけたまわりました」
郭図の手紙は別れのあいさつである。
北方異民族に儒学を啓蒙してまわるための旅に出ること、もう二度とこの国には戻らないであろうこと、そして、潁川で暮らしている郭図の家族を頼むといったことが書かれている。
郭図は異郷に骨をうずめるつもりだ。すでに縁を切った身とはいえ、残していく家族のことが気がかりでないわけがない。
ちなみに、この手紙には、私が同行することはいっさい書かれていない。
客観的に見ればいっしょに行動しているのはあきらかだろうが、名目だけでもそれぞれ独自に行動している設定にしておいたほうがいいんじゃないか、と判断したためである。
だって、私、いちおうVIPあつかいされてるみたいだし、郭図は曹操の敵だったわけだし。
郭図が私をつれだした、と思われるのはよろしくないかもしれない。
弁明や申し開きが必要になる状況も考えにくいのだが、とりあえず念のため。
郭誕の屋敷を辞した私は、荀彧の屋敷にむかった。
今度は私の用事を済ませる番だ。
郭嘉は、自分の予測を曹操に知られたくないようだった。
その判断については、私も尊重しなければならない。
けれど、荀彧には伝えておいたほうがいいと思う。
今後、私がなにかしようとするときに、荀彧のサポートがあるとないとでは全然ちがう。
さいわい、荀彧は在宅していた。荀彧の休沐(休日)にあわせて許都に来ているので、当然のように思えるが、休日出勤もめずらしくないのが荀彧である。
私がことの経緯を伝えると、さすがの荀彧も目を見ひらいておどろいた。
「なにも、君まで異郷へ行く必要はないと思うのだが……」
同意しかねるのか、荀彧は眉をひそめて、
「それこそ、公則どのと連絡を取りあえるようにしておけばいいだろうに」
「そうもいかぬ。直接自分の目で見なければ、異民族の実態はつかめぬであろう」
「奉孝が残した警鐘は、そこまで深刻なものなのか……」
「文若、おぬしも奉孝の懸念は杞憂だと思うのか?」
荀彧は右手で口を覆い、考えこむと、
「……いや、漢朝は異民族を体制内に組みこんできた。自然と、異民族のあいだでも、土地に対する帰属意識は強まっているだろう。彼らが自分たちの国をもとめるのも必然なのかもしれない」
私の生活に椅子や粉食が溶けこんでいるように、異民族の思考にも土地に重きを置く価値観が刷りこまれていったのだろう。
文化交流というと、いかにも高尚で正しいことのようにも聞こえるが、その結果、国が滅びようとしているのだから皮肉な話である。
「しかし、孔明。万里の長城を築いた秦の始皇帝ですら、結局、北方異民族の侵入をふせぐことはできなかったのだ。これはとほうもない難事だぞ。むろん、私もできるかぎりのことはするが――」
「いや、急いだところで、どうにかなる問題ではない。文若はまず国内の情勢を安定させることに専念すべきであろう」
天下統一が早まるほど、戦乱による国力低下もおさえられる。
異民族の侵略にそなえようと思うのであれば、司馬懿には悪いが、このまま曹操が天下を統一してしまったほうがいいような気もする。そうなれば自然と八王の乱も消滅するだろうし。
「むっ、国内か……たしかに。奉孝もそう望んだから、私には異民族の脅威を知らせなかったのだろう」
なぜ自分に伝えてくれなかったのだ、などという故人に対する文句を荀彧はいわず、ため息まじりに別のことをつぶやく。
「おそらく、長文もなにも知らされていないのだろうな」
荀彧と陳羣は曹操の部下だ。彼らには主君の天下統一を優先させてほしい、と郭嘉は願ったのだろう。
「そういえば、長文は許都にいないようだが?」
私は訊ねた。
「長文は鄴だ。これから曹操さまのもとではたらくことになる」
「人事異動か」
「参丞相軍事だそうだ」
荀彧が顔をしかめた理由を、私は察した。
「ふむ、長文の才は奉孝にも引けを取るまい。だが、奉孝の代わりはつとまらぬであろう」
「ああ、君のいうとおりだ。長文の才は、戦場で敵の虚をつくような性質のものではなかろう」
いうなれば郭嘉は軍師で、陳羣は政治家である。
それを私は前世の知識で知っていて、荀彧は自分の目で見抜いている。
曹操だって人材鑑定眼は超一流だ。郭嘉と陳羣の才が別物であることには気づいているはずだが……郭嘉の穴をどうにかして埋められないかと、いろいろ模索しているのだろう。
それにしても、郭誕につづいて陳羣も鄴か。
赤壁の戦いが終わり、荊州を制圧して、どうやら大規模な人事異動がおこなわれているもようである。
あるいは曹操が魏公、魏王へ昇りつめるための準備だろうか。
そうそう、魏公就任だ。
ダジャレみたいになってしまったけど、そんなことを考えている場合ではない。
これだけは絶対に忘れてはならない。忠告しておかなければならない。
曹操の魏公就任に反対した荀彧は、曹操との関係が悪化し、最終的に憤死してしまう。
それが自死だったのか、謀殺だったのかは、歴史の闇に包まれているが、とにかく最悪の結末を迎えてしまうのだ。それだけは回避しなければならない。
「文若、近いうちに曹操は魏公となるであろう」
「なぜそう思う?」
「さまざまな要素を包括的に考慮すると、魏公に、そして魏王に就任せざるをえまい」
さまざまな要素とは……具体的には不明である!
しいていえば前世でそうだったからなので、私の口から説明できることはなにもない!
「……なるほど、論功行賞のためか。戦乱の終わりが見えてきて、これから先、大功を立てる機会があるかどうかもわからない。いままでつきしたがってきた臣下も、功績に見合った禄を得られなければ、不満や不安を抱くだろう。魏公として公国を建てれば、曹操さまは手ずから、功臣たちに爵位と食邑をあたえられるようになる」
私がごまかすと、荀彧は勝手に理由を見つけだしてくれた。
頭がいい人はこれだから助かる。
「うむ、そういうことだ」
私はわけ知り顔でうなずいた。感情と表情が正反対だと、表情筋のコントロールがむずかしい。頬がぴくぴく引きつってしまいそう。
「しかし、君の話は性急だな。まだまだ漢朝に心を寄せる者は多い。劉姓でないものが公や王に封じられれば、反発も強いと思うが……」
「おぬしは曹操の魏公就任に反対してはならぬぞ」
私がいうと、荀彧の目に思慮と覚悟の光が浮かんだ。
「……いよいよ、そのときが近づいている、ということか」
そのとき?
「私が魏公就任に反対すれば、多くの者が、私は漢朝側についた、と誤解してしまうだろう」
「うむ」
「なるほど、時期尚早な気もするが、賛同しなければなるまい。誤解を招くのはよくないし、旗幟不鮮明は事故のもとだ。わかっている、君の忠告を忘れたことはない」
私の忠告を忘れたことはない?
……なんだか知らんがとにかくよし!
荀彧が曹操の魏公就任を支持してくれるのであればそれでよし!
旅立つ前に、荀彧憤死の可能性だけはつぶしておかなければならなかった。
長旅から帰ってきたら荀彧が死んでいたとか、最悪の展開だかんね。
私が胸を撫でおろしていると、荀彧が気楽な口調でいう。
「ところで、今夜は私の家に泊まっていくのだろう?」
「いちおう宿は取ってあるが」
「その宿には使いの者を送って引き払ってもらおう。いい酒がある。九醞酒の最上品だ。それを開けるとしよう」
九醞酒といえば、曹操が天子に醸造法を上奏した酒だ。アルコール度数もかなり高かったはず。
「おぬしは酒精の強い酒は苦手であろうに」
大丈夫かな、と私は心配になった。
「ハハハ、悪酔いはしないさ」
荀彧は、陰気な話題を吹き飛ばすように軽やかに笑った。
「君は、この国の未来に希望を見出すための旅に出るのだろう? 宴とはいかないが、せめて私だけでも門出を祝わせてもらうよ」
結局その晩、荀彧はかなり飲んだ。明日は朝から仕事だろうに。




