第一〇五話 鬼謀は未来を見据えていた
生まれたばかりの孫が、元気な泣き声をひびかせている。
赤児に振りまわされ、今日も我が家は騒がしい。
しかも十二月下旬である。
除夕の大宴会をむかえるために、家人も門下生も忙しなく動きまわっている。
そんな喧騒から距離を置いて、私は書斎に閉じこもっていた。
一昨日の昼、郭嘉の訃報を伝える、荀攸の手紙がとどいた。
それからずっとこんな感じだ。
なにも手につかないというか、なにをしても失敗してしまいそうだった。
こんな危なっかしい精神状態で、孫の世話をするわけにもいかないし、とにかく周囲に迷惑をかけないよう、ひとりでおとなしくしているのだった。
「孔明先生」
気づかわしげな表情を浮かべた門下生が、書斎の入り口から顔をのぞかせた。
「郭先生が来られました」
「うむ?」
郭先生とは、私の私塾で非常勤講師をしている郭図、字は公則のことである。
彼は月に数回、講義をするために我が家を訪れる。
けれど、今日は講義の予定はなかったはずだ。
門下生がさがり、郭図が書斎に入ってきた。
「孔明どの」
鬼気迫るというのだろうか、郭図はまるで戦にのぞむかのような顔をして、
「奉孝どのから、孔明どのに宛てた遺書をあずかっております」
ひどく神妙な声とともに、錦の袋を差しだしてきた。
「公則、なぜ、おぬしが奉孝の遺書を?」
自分でもおどろくほど、しわがれた声が出た。
軽く咳払いをしてから、私は錦の袋をうけとり、郭図に椅子をすすめた。
「それがしが奉孝どのから遺書をあずかったのは、柳城遠征のときでございます」
一年ちょっと前のことか。
「最初は断ろうとしたのですが、曹操とは無関係な人物にしか頼めないことだ、と奉孝どのはいわれましてな。結局、押し切られてしまったのでございます」
曹操とは無関係だから、郭図に遺書をあずけた?
……どういう意味だろうか。この遺書には私的な内容だけでなく、曹操軍に関する、重大な秘密でも書かれているのだろうか。
私はちょっと尻込みしつつも、袋から郭嘉の遺書を取りだした。
紙製の書簡だ。竹簡や木簡ではないから、物理的には軽いはずなのに、妙に重たく感じられる。
内容は……簡潔明瞭な手紙を好む郭嘉にしては、ずいぶんと長かった。
ところどころふざけているような箇所もあるが、大半は大まじめである。
読みすすむにつれて、私の頭と気分は重くなっていった。
最初から最後まで、ふざけた内容であってくれたら、どんなによかったことだろう。
読み終えたときには、自然とため息がこぼれていた。
「どのような内容かは、それがしも存じておりませぬが……」
白い眉をひそめる郭図に、私は郭嘉の遺書をつきつけた。
それをうけとって読みすすめるうちに、郭図の眉間のしわはみるみる深くなっていく。
郭嘉の遺書の内容は、三行で要約するとだいたいこうなる。
中国は北方異民族に滅ぼされる。
その対策を講じてほしい。
できるできる、孔明先輩ならきっとできる!
…………できるわけあるかッ!?
とんだ無茶ぶりだよッ!?
ミッションがインポッシブルすぎるやろがいッ!!
遺書を読み終えた郭図は、先ほどの私と同じようにため息をついた。
「なるほど。どうやら、孔明どのは大変な遺事を託されてしまったようでございますな」
「天下国家のことなら、それこそ曹操に託すべきであろう。多少、問題はあるようだが……」
郭嘉の遺書には、こう書かれていた。
異民族はあるいは漢化し、あるいは集落をつくり、すでに中国内部に溶け込んでいる。
各地の群雄は軍事力を得るために、彼らを積極的に利用してきた。それは曹操も同様であり、戦乱を終わらせようと思うなら、この方針は正しく、変更してはならない。
もし、曹操が異民族排斥に乗りだすようなら、天下の統一は遅れ、太平の世は遠のいてしまう。
そのうえ、天下を統一すればそれでよし、ともいかないのだ。たとえ曹操があらたな王朝を樹立したとしても、その王朝は遠からず、異民族によって滅ぼされてしまう。
この遺書に書かれていることは、現時点で曹操に知らせるべきではない。だから、曹操とは無関係な郭図に遺書をあずけたのだ、と。
……郭嘉は、あくまで曹操の覇業の邪魔をしたくなかったのだろう。
「だからといって、私に託すような内容ではないと思うが」
私は不満を表明した。こちとら隠士だぞ、在野の士だぞ。なにをどうしろというのだ。
「それがしには、奉孝どのの気持ちもわかるような気がしますな」
「むっ……」
「孔明どのや文若どのと同様、奉孝どのの才は、幼いころから衆に秀でておりました」
「うむ?」
荀彧と郭嘉についてはまったくの同意だが、そこに私を含めるのはどうよ?
いや、そんな昔から、郭図が私を評価していたとは思ってもいなかった。
「盤上の駒を自由自在にあやつり、勝利をたぐり寄せる。その点において、奉孝どのほど犀利な頭脳の持ち主はおりますまい」
「うむ」
「文若どのは、盤上の駒をあやつるというより、盤面を生みだし、ととのえることに長けているように思われます。戦略を練るうえで、彼ほど頼もしい人物もまたおりますまい」
「うむ」
「孔明どのには、常軌を逸したところがございます」
ほっとけ。
「異質な発想のなにがおそろしいかといえば、ときに、常識や既成概念をくつがえしてしまうからでございましょう。それまでの計算が通用しなくなれば、戦術はおろか、戦略ですら様変わりしてしまうものでございます」
ふむ……思い当たるのは、あぶみのことだ。
官渡の戦いで曹操が勝ったのはあぶみのおかげだ、と郭図は思っている。
本当は、私があぶみを発明しなかったとしても、曹操は奇跡の勝利を手にしていたはずなのだが、それを知っているのは私だけだ。
傍目には、あぶみの存在が、戦術に変化をもたらしただけでなく、戦略上の不利をもひっくり返したように見えるのだろう。
「奉孝どのは、この国の行く末に破滅を見たようですが、遺書を拝見したかぎりでは、その解決策までは記されておりません。戦術的にも戦略的にも、解決策が見つからなかったのでございましょう。であるからこそ、孔明どのに、盤面そのものをひっくり返してほしかったのではありませんかな」
「ううむ……」
そんな期待をされてもね、できることとできないことがある。
郭嘉の遺事だから、無下にはしたくないのだが……。
私が悩ましげに腕組みすると、郭図はいくぶん表情をやわらげて、
「そこまで深刻になる必要はありませんぞ」
「いや、これほど深刻なこともないと思うのだが……」
「奉孝どのは、あくまで最悪の事態を想定したのでございましょう。彼の心配は杞憂に思えます。この国が蛮族によって滅ぼされることなど、それがしには信じられませぬ」
郭図が信じられないのも無理はない。
中国・中華・中夏・華夏。これらの私たちの国に対する呼称は、傲慢なようにも思えるが、世界の中央にある最も文化の進んでいる国をあらわす言葉でもある。
周辺の文明化もされていない蛮族に滅ぼされることなどあってはならないし、この時代の人々は想定すらしていないのである。
けれど、私は郭嘉の予言が現実になることを知っている。
八王の乱と、五胡十六国時代である。
三国志は悲劇の物語といえる。
魏・呉・蜀の三国はすべて滅んで、司馬氏の晋が天下を統一する。
晋の初代皇帝となる司馬炎は、司馬懿の孫だったはずだ。
今年の初めに司馬懿の長子が生まれ、終わりに私の初孫が生まれたから、気が早いかもしれないが、だいたい私のひ孫と同世代の人物と考えていいだろう。
司馬炎は帝位につくまでは天才的な人物だったらしい。だが、皇帝になってからは凡庸になり、最終的には暗君となってしまう。
皇族たちに力をわけあたえた結果、後継者争いを誘発してしまったのだ。帝位をめぐる争いによって、晋は混乱に陥ってしまう。
これを八王の乱という。
三国志のあとの話なので、くわしくは知らないが、八王の乱というからには、王に封じられた八人の皇族が、血で血を洗う帝位争奪戦をくりひろげるのだろう。たぶん。
そして、この八王の乱に乗じて、異民族国家が乱立し、中国は五胡十六国時代というあらたな紛争の時代に突入してしまうのだ。
結局、三国志の勝者となった晋も、ダメダメだったのである。
「孔明どのも、北方異民族を脅威と感じておられるのですかな?」
私がむずかしい顔をしていたからだろう、郭図が問いかけてきた。
「奉孝は……無意味に悲観的な予測をする男ではなかろう」
これも遺書に書かれていたのだが、郭嘉が破滅の予兆を感じとったきっかけは、蹋頓だったそうだ。
烏丸の指導者・蹋頓は、烏丸族の国家を樹立しようと計画していたのだ。
元来、北方異民族は遊牧民である。だが、烏丸は鮮卑との勢力争いに敗れ、広大な北の大地から追いやられ、幽州三郡に定住していた。
蹋頓が国家にこだわったのは、すでに烏丸族が定住化していたため、領土に対する意識が強まっていたからであろう、と郭嘉は見ている。
ここで問題となるのが、長引く寒冷化によって、匈奴や鮮卑といったほかの北方異民族のあいだでも、南方への進出意欲が強まっていること。そして、比較すれば弱小勢力ともいえる烏丸ですら、漢朝から幽州三郡を奪い、領有する力があったことである。それだけ、私たちの国は衰えているということだ。
失敗したとはいえ、蹋頓は先例をつくってしまった。
いずれ第二、第三の蹋頓があらわれる。
北の匈奴と鮮卑は烏丸より強力だ。
西に目をむければ羌や氐もいる。
彼らの指導者が領土的野心に目覚めたら……。
単独であればともかく、同時に攻め寄せてきたら、衰えたこの国の軍事力では対抗しきれない。
異民族は、長安や鄴といったこの国の基幹ともいうべき大都市に攻め寄せ、中原にまでなだれこんでくるであろう。
郭嘉はそう分析しているのだが、彼の未来予想図はきわめて深刻だった。
なぜなら、いかに郭嘉であろうと、晋が天下を統一して、八王の乱で混乱に陥ることまでは想定していないからである。
つまり、八王の乱という自滅要因がなかったとしても、この国は異民族が入り乱れる五胡十六国時代に突入する、と郭嘉は判断しているのだ。
これが、八王の乱を未然にふせぐだけでいいのであれば、案外できそうな気がしなくもない。
たとえば、私が、
「皇族に強大な力をわけあたえれば、帝位をめぐる争いを誘発してしまうであろう。それだけはしてはならない」
といった遺言を、司馬懿に残してみるのはどうだろうか?
司馬懿が同じ内容の遺言を司馬炎に残して、司馬炎がそれに従ってくれれば、後継者争いはふせげるかもしれない。
けれど、それだけでは五胡十六国時代の到来まではふせげないのだろう。
私の苦悩をうつしだすかのように、郭図はきびしい表情を浮かべた。
「孔明どのまで危惧しておられるのであれば、異民族を軽視するわけにもいかぬようでございますな。されば、それがしの残りの生涯にも使いみちが出てきたのかもしれませぬ」
「どういうことだ?」
「それがしが生き恥をさらしてきたのは、奉孝どのから遺書をあずかっていたからでございます。本来、この命は柳城で果てるべきでございました」
「それは……健全な思考とはいえぬ」
「さようでございますな。この生きながらえてしまった命にも、なにかしら使いみちはあるのではないか、とそれがしも考えておりました。奉孝どのの遺書をあずかっていたのも、なにかの縁。異民族が脅威になるというのであれば、その脅威を減らすことこそが、それがしの役目でございましょう」
「なにか手があるというのか、公則」
郭嘉ですら見つけられなかった解決策を、郭図が見つけたというのか!
……冷静になって考えてみると、あまり期待できそうにないぞ、郭図!
「それがしは、異民族を啓蒙することに、残りの人生を費やそうと考えております。彼らとて、文化を知り、学を身につければ、その重要性を認識できるようになるはず。それらを育んできた中華に対しても、畏敬の念を抱き、礼儀をもって接してくるようになるかもしれませぬ」
不可能だ、と思った。そんなことで異民族の侵略をふせげるわけがない。
けれど、生きる目的を見つけたらしい郭図にケチをつけるようで、否定する気にはなれなかった。
「……うむ。まったくの無益とはなるまい」
私は消極的な同意を示してみせた。
郭図の発想は理想論にすぎないが、なにもしないよりは、よっぽどマシだ。
それに、まったく役に立たないわけでもない。
この国と周辺の異民族とのあいだで、共通認識が増えていけば、すこしは交渉もしやすくなる。なにかしらの助けにはなるだろう。
「年が明けたら、それがしは北の地へ旅立とうと存じます」
と告げる郭図の声に、往年の力強さが戻ってきたような気がする。
そのとき、ふとひらめいた。
異民族の実態に触れることは、今後の異民族対策に活かせるかもしれない。
郭嘉だって、蹋頓の野望を知らなければ、破滅の予兆を嗅ぎとることはできなかったはずだ。
私だって、八王の乱や五胡十六国時代という歴史上の固有名詞を知っているだけで、リアルの異民族を知っているわけではない。これでは対策の立てようもない。
数秒迷って、私は決断した。深呼吸をしてから、
「公則、私も異民族に用事ができたようだ。北へ旅立つのはすこし待ってくれぬか」
異民族を視察してまわるのに、ひとり旅では心細い。怖いし、不安だし、とりあえず、郭図をキープしておこうという魂胆である。
三国志の果てに待っているのは、バッドエンドだ。
その結末を、私がハッピーエンドに変えてみせる……なんて使命感に燃えるつもりはない。
だって、もともと無茶ぶりだもの。
けれどまあ、できる範囲で、無理をしないで、ぼちぼちやってみようかと思う。
天下国家のことはともかく、自分の子孫には、できれば平和な時代を生きてほしいわけでして。
八王の乱だとか五胡十六国時代だとか、正直、実感はわかないが、なにもしないで見てるだけ、というわけにもいかないだろう。
私が私なりに決意をかためていると、主屋のほうで、孫がふたたび泣きはじめた。
元気な泣き声に触発されて、どたばた人が走りまわる。
私と郭図の会話が、まるで白昼夢だったかのように、今日も我が家は騒がしい。




