第一〇二話 鉄鎖連環の計
黒い江水の川面を、赤と朱の濃淡が躍り狂う。
衝突を回避するには、たがいの船団はすでに接近しすぎていた。
つらなる火船に衝突し、孫呉水軍の先頭集団が炎の壁にのみこまれていく。
あらたな船を燃料にくわえ、炎の勢いはさらに加速した。
「曹仁どの、どうやらうまくいったようですな」
後方に浮かぶ楼船の上で、賈詡がほっと安堵の息をついた。
「うまくいってもらわねば困る」
応じる総大将の曹仁は、ふくれっ面である。
「百を超える船を犠牲にしたのだぞ。これでうまくいかなければ、自軍の船を燃やしただけではないか」
と、曹仁はぼやくと、強面を崩して呆れたように、
「このような大がかりな奇策が失敗すれば、私は愚将のそしりをまぬがれまい。まあ、あの郭嘉の指示だ。それなりに成算はある……と信じるしかなかったが」
郭嘉は烏林にいく前に江陵に立ち寄り、鉄の鎖で船をつなぐように指示していたのである。
船大工たちは困惑し、反発した。いわく、
「そんな大量の船を鎖でつないだら、まともに動かせなくなります」
「一度出港したが最後、江陵に帰ってくることすらできなくなるかもしれませんよ」
とのことである。
江陵の守将である曹仁は、かたわらで聞いていて、船大工たちの主張に理があるように感じた。
なにせ船の専門家であるし、鎖でつながれた船を想像すると、いかにも動きづらそうだ。
「自由自在に動かせなくても、帰ってこられなくても、問題ないっす。たった一度だけ、ちょっと出港して、敵船団が突撃してきたところを丸ごと燃やせれば、それでいいんで」
郭嘉の説明をうけて、船大工たちの反発はますます強まった。
さもありなん、彼らが苦労して造った船を、燃やして使い捨てようというのだ。
郭嘉は船大工たちの顔を見まわした。
「江陵を戦場にしたくないんですよ。戦場になれば、この城の人々に犠牲が出る」
船大工たちの反論はぴたりとやんだ。彼らも、この城の人々の一員なのだ。
郭嘉の真剣な表情と声がつくりものだと看破した曹仁は、呆れかえった。
「自分の策を丸呑みさせるために、適当なことをいっていやがる。口達者なやつめ」と。
怜悧な眸に憂慮と決意の光を宿らせ、郭嘉は説得をつづけた。
「この鉄鎖連環の計が成功すれば、孫権軍は大打撃をうけて、江陵の攻略をあきらめるでしょう。そのあとは、失った船の補充をしなければなりません。船大工のみなさんには、せわしい日々が待っているはずです。もちろん、曹操さまは金に糸目をつけるようなかたではありません」
船大工たちが息をのんだ。
彼らの顔にちらほら喜色が浮かぶのが見てとれる。
曹仁は口をひきむすんで、「嘘だッ!」といいそうになるのを我慢した。
曹操は気前のいい支配者ではないのだ。
部下には倹約をもとめるし、曹操自身も手にした権力と比べれば、豪奢とはいいがたい生活をしている。
ありていにいえばケチである。
とはいえ、使うべきときに金を惜しむような男でもないから、船の建造費くらいはしっかり払ってくれるだろうが。
ともかく、曹仁はたくましい腕を組んで思った。
口を差しはさむのはやめておこう。
思わず、余計なことを口走ってしまいそうである。
鉄鎖連環の計とやらを成功させるべく、船大工たちは郭嘉にさまざまな意見をあげた。
「出港して鶴翼の陣を敷くとなると、鎖の長さは、せめてこれくらいは必要ではないでしょうか」
「この長さであれば、孫権軍が喫水の浅い小型船で突破をはかってきても、まず鎖に引っかかるはずです」
彼らの意見を汲んで指示を出し終えると、
「曹仁どの、江陵水軍の出番はすぐにきますよ」
という予言を残して、郭嘉は烏林にむかったのであった……。
「郭嘉の言葉は現実となった。だが、周瑜ほどの男が、こうも予測どおりの行動をしてくれるとは……」
思い返して、曹仁は首をひねった。
賈詡があごひげを撫でながら返す。
「逆でしょうな」
「逆、とは?」
「周瑜は戦略的にも戦術的にも正しい判断をした。だから、郭嘉どのの策にはまってしまったのです」
「ふむ?」
「烏林から撤退する曹丞相の軍勢を追いかければ、道中で伏兵に奇襲され、少なからぬ損害を被る。そう判断したから、周瑜は陸路を選ばなかったのでしょう」
「水路であれば、伏兵による損害をおさえられる、ということか」
「周瑜ならば、江陵こそが孫呉の命運を握る地だと理解しているはず。自軍の損耗をおさえ、万全の状態で江陵を攻略するために、彼は水路を選んだ。これは戦略的に見て正しい判断といえます」
「では、戦術的な正しさとは?」
「迅速な中央突破」
明快に答えてから、賈詡は補足する。
「矢戦のまま推移すれば、両軍ともに被害は増えていく。まして、ゆるやかとはいえ西北の風が吹いているのです。周瑜にしてみれば、不利な矢戦につきあってはいられないでしょう。ならば、前進してきた勢いを生かして敵船に密着し、白兵戦にもちこんで一気に勝負をつける。結局、被害を最小限におさえたければ、戦を迅速に終わらせるのが一番ですからな」
「それでは、周瑜はどうすれば勝てたのだ?」
「天運にめぐまれ、東南の風が吹けばよい。神頼みですな」
老獪で理知的な賈詡に、神頼みという言葉はあまりにも似つかわしくない。
曹仁はつい笑い出しそうになった。
東南の風が吹いていれば、東南に位置する孫呉水軍に火は広がらない。自軍の船に燃え広がらない状況であれば、周瑜は矢戦の時点で火矢を射かけるよう命じていたかもしれない。
鎖でつながれた曹操軍の船には、枯芝が大量に積まれていた。火矢をうければ、孫呉水軍を巻きこむことなく、曹操軍の船だけが炎上していた可能性すらあったのである。
だが、東南の風は吹いていない。
曹仁は深く息をはいて、
「つまり、この場で戦端がひらかれた時点で、我々の勝利は決まっていたということか」
なぜかというと、曹仁たちは風向きを確認してから、出港していたのである。
黄蓋も、東南の風が吹く日を選んで火船の計を実行しようとした。
それと同じだが、そう単純なことではない。
風向きと同時に、孫呉水軍がどのあたりを進んでいるのかも把握しなければならなかったのだ。
このむずかしい判断をまかされたのが、賈詡である。
彼は地元の漁師たちと対話しながら、風向きを確認し、記録し、その変化を予測しつづけた。
斥候の報告と、一日に船舶が進む距離をつきあわせて、敵船団の位置をもとめつづけた。
常に風向きと敵の位置を把握し、火船の計を実行する条件がととのったと判断したうえで、曹仁たちは出港したのであった。
もし東南の風が吹いていれば、ぎりぎりまで風向きが変わるのを待っただろう。
それでも季節を無視したかのように東南の風が吹きつづければ、攻撃的な火船の計は断念し、防御的な別の策に移行する予定であった。
鎖でつないだ船をもって、水上に防衛線を敷き、陸地の陣とあわせて鈎型の防御陣を構築するのである。
江陵城外にはすでに簡素ながらも陸の陣が築かれ、床弩や発石車といった遠距離用の武器も準備されている。
この策を残したのも郭嘉だったが、彼はできるだけ攻撃的な火船の計を優先させるように、との指示も残していた。それだけ、火計のほうが大きな成果を得られると判断したのであろう。
たしかに、計略をしかけた側の曹仁ですら圧倒される光景だった。
孫権軍の船は音を立てて燃えあがり、船上の火から逃れようと、兵士たちは次々と川にとびこんでいるようだ。広大な江水は炎の奔流と化し、その岸壁までもが赤く染まっている。
「あの赤い岸壁が、彼らの墓標となるのでしょうな」
賈詡の口から妙に詩的な言葉がとびだしたが、あいにくと曹仁は文学に興味がない。彼は無言のまま、総大将の役割を思い出したかのように、屹と眉をあげ、視線をするどくした。
彼らが敷いた鶴翼の陣のうち、鎖でつながれているのは前列の船のみである。
それ以外の船は、燃えあがる敵味方の船からすでにはなれている。そこから火矢を射かけ、油の壺を投擲しているが、敵影が炎のなかにあるだけに、効果のほどを見きわめるのは困難だった。
熱い風圧に目を細めていた曹仁は、わずかな変化を見逃さなかった。
燃えあがる鶴翼の陣の両端が、中央に寄りはじめている。
「両翼が閉じはじめたようです」
賈詡が進言した。どうやら同じ変化を見てとったらしい。
曹仁は両眼に勁烈な光をはしらせ、命令した。
「両翼のさらに外側にまわりこめ! 三方から火矢を射かけてやれッ!」
形になりつつある勝利を、それは決定づける命令であった。
自軍の船が炎の壁に衝突する寸前、周瑜はかろうじて散開を命じていた。
中央に密集した陣形のままでは、火計の被害が際限なくふくらんでしまうと判断したのである。
だが、命令むなしく、味方の船はつぎつぎと炎に包まれていく。
周瑜の口から、歯ぎしりの音と不審の声がもれた。
「なぜだ。なぜ、敵船列を切り崩せない……」
道を切りひらきさえすれば、火船の計による被害もおさえられるはずである。
だが、その道がひらかれないのだ。
このときになって、曹操軍の火船が鉄の鎖でつながれているという報告が、ようやく周瑜のもとにとどいた。
「…………」
周瑜は絶句した。呆然自失から瞬時に立ちなおり、うなる。
「なんと悪辣な……」
彼は敵の狙いに気づいたのである。
鎖でつながれた鶴翼の陣、燃えあがる敵船団は、これからどのような動きを見せるのか。
中央が孫呉水軍の先頭集団と衝突し、引っかかっているのだ。川の流れによって、両翼は中央に寄ってくる。
炎の壁が、正面だけでなく左右からもせまってくるのだ。
三方から矢を浴びせかけることだけが、鶴翼の陣の狙いではなかった。真の狙いは、孫呉水軍を炎の壁で包みこむことにあったのである。
「後退だッ! 全速力で後退せよッ!!」
周瑜は声のかぎり叫んだ。
すでに両翼の炎の壁は閉じはじめていた。炎の外、三方から火矢が射られ、油の壺が投げこまれる。黒煙とともに炎はさらに勢いを増し、ついに周瑜たちが乗る楼船にまで飛び火した。
「周瑜、どうするッ!」
程普の呼びかけに、周瑜はうなずいて、
「後方にひかえる闘艦に、旗艦をうつします」
さすがに顔は青ざめているものの、周瑜の声から力強さは失われていなかった。
せまりくる炎とともに、孫呉水軍崩壊のときは刻一刻と近づいているように思われる。
見事にしてやられた。
それは周瑜も認めざるをえない。
だが、この壮大な火船の計も、あくまで火船の計であり、その本質は奇計である。
奇計とは、もろいから奇計なのだ。
距離をとればよい。いったん距離をとってしまえば、そのうち曹操軍の火船は自壊する。
手遅れである可能性は高かった。
が、それでもまだ敗北と決まったわけではない……。
旗艦をうつすために、周瑜が歩きだしたそのとき、
「あッ!?」
と兵士が叫んだ。
楼上に掲げられていた司令旗が炎上し、木が爆ぜる音とともに倒れこんできたのである。その下に、周瑜の背中があった。
「周都督ッ!?」
「周都督ッ!!」
周瑜の体は、燃えあがる司令旗に圧しつぶされていた。
彼を救おうと、兵士たちが群がった。
炎をおそれず、火傷をおそれず、救いだしてみると、周瑜は苦悶のうめきをもらすばかりで、意識もはっきりしないようだった。
背中の衣服は焼け焦げ、その衣服の下がどうなっているのか、確かめるのもおそろしいありさまである。
「医者を呼べ! 早くッ!」
「華佗先生はどこだッ!?」
「後方の船だ!」
「なんで楼船に同乗させなかったッ!?」
怒号が飛び交うなか、望まぬ形で総大将となってしまったのは程普である。
彼は決断をせまられた。逼迫する状況が、彼に猶予をあたえなかった。
多くの船と将兵を失い、周瑜までもが倒れてしまったのだ。
ここから形勢をひっくり返して、眼前の敵を打ち破れるのだろうか。
そして、仮に勝ちえたとして、江陵を攻略する力が残されているのだろうか。
自問し、顔をゆがめ、程普は広がる炎をにらみつけた。
悲鳴と黒煙が夜空をおおいつくしている。
彼らをいつくしんできた母なる江水は、無慈悲な火刑場へと変貌をとげた。
左右からせまりくる炎の顎が、天地を喰らい、いままさに孫呉水軍三万の命をのみこもうとしている。
戦意を喉の奥に押し殺して、程普は怒鳴るように命じた。
「撤退だッ! 後退ではないッ! 撤退せよッ! くりかえすッ! 撤退せよッ!」
全面撤退以外に、もはや選択肢は残されていなかった。




