第一〇一話 赤壁の戦い
劉備たちが決死の逃亡劇をくりひろげているころ。
孫権軍の大船団は、月明りを頼りに、江水を遡上していた。
めざすは江水のへそともいうべき要地、江陵である。
先が見える者ほど、江陵の重要性は理解している。
孫呉の命運を左右する地が近づいていると思うと、顔に似合わず豪胆な周瑜ですら、緊張とは無縁でいられなかった。
「結局、風は味方しなかったか……」
周瑜は、険しいまなざしで前方を見すえている。
冬は西北の風が吹く季節である。
東南からの追い風に恵まれず、船足は上がらなかった。
「我らが江陵に攻め寄せるころには、すでに曹操が帰還して待ちかまえていよう。残念だが、先まわりして曹操の退路を断つ、という展開にはならないようだ」
と、白い眉をひそめて応じたのは程普であった。
周瑜は苦笑しながらうなずいた。
「残念です」
「それほど残念そうには見えんが」
「もともと、想定範囲内の最良を引き当てることができれば、という話でしかありませんので」
言葉どおり、周瑜は落胆していなかった。
そもそも、楽観的な見通しを告げたのは、将兵を鼓舞する意味合いが大きかった。
半ば以上は方便だったのである。
そのような言葉を周瑜自身が信じこんで、まさか楽観にひたるわけにもいくまい。
「まだ、わからんぞ。劉備軍も動いていよう。曹操と劉備が争っているようなら、我々のほうが先に江陵に到着できるかもしれん」
程普は、友軍に対する期待を声に乗せた。
「それはそれで、あまりうれしくはないのですがね」
「うむ?」
「江陵を落としたあとのことを考えると、劉備が功績を立てるのはよろこばしいことではありません」
「む……なるほど。劉備の発言権が増すのはよくない、か」
程普が同調してうなずいた。
仮にも、劉備は荊州刺史なのだ。
功績を立てれば、口やかましく荊州の権益を要求してくるであろう。
むろん、それは曹操との戦に勝利してからの話であり、あくまで未来に属する出来事ではあるが。
この時点で、周瑜たちはまだ劉備軍の敗北を知らずにいる。
だが、知ったところで、周瑜は眉ひとつ動かさなかったろう。
いまは友軍であろうと、劉備軍は一時的な協力者にすぎないのである。
孫呉水軍は川の流れに逆らい、風浪おだやかな黒い江水を航進する。
やがて、物見が声をあげた。
「周都督! 前方に敵船団を発見ッ!」
楼船に乗っている周瑜たちは高みにいるため、彼らにもはっきりと視認できる。
前方に、敵船の存在を示す灯火が並んでいる。おそろしいほどの数の灯火である。
周瑜は、将兵たちのあいだに戦慄がはしるのを皮膚で感じとった。
もっとも、敵の大船団を前に、精神を高揚させ、声をはずませる者もいる。
「水戦を挑んできたか。ありがたい!」
程普の両眼には、好戦的な光が浮かんでいる。
たしかに、水戦を得意としている自分たちにとってはありがたい、と周瑜も思う。
つまり、曹操軍にとっては、ありがたくないはずであった。
江陵城を中心として、陸地に布陣して待ちかまえたほうが、曹操軍の勝率は高いように思われる。
にもかかわらず、なぜ不利な水戦を選んだのか。
選ばざるをえない理由があるからだろう。
敵の立場と心理を読み解いた周瑜は、ふたつの理由にたどりついた。
ひとつは、江水の航行権であった。
孫呉水軍に対抗しうるのは、江陵の水軍のみである。江陵の港を封鎖された時点で、曹操軍は江水の航行権を完全に失ってしまう。
もうひとつは、荊州の治安が、周瑜が想定しているよりも悪化しているのではないか、ということだった。
烏林の曹操軍の一部は、すでに江陵に帰還しているだろう。じきに、疫病に罹患した兵士たちも帰ってくる。
江陵の人々は、烏林のように疫病が蔓延するのではないか、と不安に揺れていよう。
そこへ孫権軍が攻め寄せれば、不安と動揺は頂点に達する。
周瑜自身、そうした状況は積極的に利用するつもりだったが、彼が手を出さずとも、暴動が発生するような状況なのかもしれない。
曹操軍は強大だ。江陵一城の暴動であれば鎮圧するのはたやすい。
だが、江陵の民衆を虐殺したという噂が、荊州各地に広まれば……。
徐州虐殺という不名誉な過去とあいまって、曹操に対する不信と恐怖は荊州各地に広がるであろうし、曹操軍に組み入れられた六万を超える荊州兵の心中も、大いに揺れ動くであろう。
城内の不安と動揺をおさえようと思えば、孫権軍を江陵城にはりつかせるわけにはいかない。
それゆえ、水軍を出撃させて、江陵手前で迎撃せざるをえなかったのではないか……。
敵の事情は推測しかできず、それは想像の域を出なかったが、いずれにしても眼前の敵船団を撃破すれば、孫呉の展望は大きくひらかれるはずであった。
「後退はないぞ。意味がない」
程普の発言は、あきらかに助言ではなかった。恫喝というには理性的だが、周瑜に選択をゆるすものではなかった。
「わかっています」
周瑜も心得ている。
いったん後退すれば、船列は乱れ、ととのえるのに時間がかかる。それよりは前進の勢いを殺さずに、戦闘陣形に移行したほうがよい。
「ここぞ我々が望んだ戦場。引く理由はどこにもありません」
「ならばよい。将兵たちも、攻撃命令をいまや遅しと待ちわびていよう」
他人事のようにいうが、当の程普が、いまにも敵船に乗りこみそうな顔をしている。
いうまでもなく、程普は周瑜に次ぐ立場の指揮官であるから、そのような好き勝手な行動がゆるされるわけもない。
切り込み役は別にいる。
韓当、周泰、董襲、呂蒙、甘寧、凌統、潘璋……。
名うての猛者どもが、みなとりどりに戦意をたぎらせていよう。
江水の川幅いっぱいに広がる敵船団に右手を伸ばし、周瑜は朗々と号令を発した。
「前進せよ! 前進し、敵船列の中央を突破せよ!」
鍛えあげられた孫呉水軍は、たちまち戦闘用の船列に変容する。
中央の船が突出し、両翼が後退した攻撃型の陣形、魚鱗の陣である。
もとより孫権軍の士気は高い。
陸口に駐屯するあいだ、対岸に曹操軍の姿があっても手出しできずにいたのだ。
いまこそ侵略者たちに鉄槌をくだすときである。
ましてや、黄蓋の弔い合戦でもあるのだ。
孫権軍の先鋒部隊は心火のかぎりを燃やして、快速艇をとばした。
一方、曹操軍の船列にも動きがあった。
両翼が前進して、鶴翼の陣を敷いたのである。
三方から矢を浴びせれば、矢の密度は増し、はげしい攻撃が可能となる。
孫権軍の先鋒部隊に、無数の矢が降りそそいだ。
鉄の鏃が、黒い川面に白い水しぶきをまき散らし、木製の盾に突き刺さり、皮革鎧をつらぬいた。
孫権軍の先鋒部隊は、決死隊ともいうべき危険な任務を帯びていながら、鉄鎧を身につけていなかった。
この時代、南方はまだ異郷であり、鉄官のほとんどは江水以北に置かれているため、孫権軍は鉄鎧をそろえられずにいたのである。
見る者によっては、無謀とも蛮勇ともうつるかもしれない。
だが、彼らはやむをえず皮革鎧を身につけているのではなかった。
そこには、積極的な理由がちゃんとある。
船上で戦をすれば、水に落ちるのはよくあることだ。
重い鉄鎧をつけていたら、当然のことながら沈んでしまう。
それこそ無謀であり、愚者のおこないというべきであろう。
乱箭の雨をかいくぐり、先鋒部隊は曹操軍の船列に接近した。
「急いで敵船に船をつけろ!」
「投げ縄をかけろ!」
「はしごを渡せ!」
はしごが渡されるや、腰につけた鈴を鳴らして、それを駆けのぼった男がいる。
敵兵の斬撃を盾でうけとめ、男は、あっという間に敵の闘艦に乗りこんだ。
甲板を踏みしめ、敵味方に武功を刻みつけるべく、大声で名乗りをあげる。
「甘寧、一番乗りッ!」
名乗りも終わらぬうちに、甘寧の刀が月光を反射してひらめいた。
三合もちこたえられる兵士はいなかった。
甘寧が一歩前へ出るごとに、応戦むなしく、曹操軍の兵士は血しぶきとともに崩れ落ちてゆく。
部下がつぎつぎと闘艦に乗りこんでくるのを横目で確認して、甘寧は舵を奪うよう命じた。
否、命じようと口をひらいた、そのときだった。
強烈な斬撃が、甘寧に襲いかかった。
「くっ……!?」
盾でうけとめた甘寧は、思わずうめいた。
うけどころが悪ければ、一撃で盾を割られていたかもしれない。
そう思わせるほどに、猛烈きわまる斬撃であった。
どのような巨漢が相手かと見れば、意外にも小柄な男で、甘寧は二度おどろかされる。
だが、無名の兵士ではあるまい。
刀、兜、木製盾に皮革鎧……どれも立派なこしらえに見える。
悠長に観察している暇はなかった。
男が、返す刀で斬りつける。
その重く、狂暴な斬撃に、甘寧ほどの豪傑がたじろいだ。
前進するだけだった彼が、はじめて一歩あとずさった。
「何者だ」
「楽進」
烏林にいた楽進は、賈詡とともにひと足早く江陵に帰還して、この戦に参加していたのである。
そうとは知らぬ甘寧だが、もちろん楽進の名は知っている。
曹操軍にその人ありとうたわれる猛将である。
甘寧は唇の端に笑みをたたえ、雄敵にむけて、刀を振りおろした。
刀身が激突し、火花を散らす。
一番乗りを信条とする豪傑ふたりは、空を裂き、刃鳴りを生じて斬りむすんだ。
疾雷閃電とはまさにこのことであろう。またたく間に三十合、四十合と撃ち合い、その攻防は猛るばかりである。
白刃を叩きつけ、盾で殴りつける。苛烈な応酬は、よりはげしく、よりすさまじく、いっこうに衰える気配がなかった。どちらが劣るとも、勝負がつくとも思われない。
それが突如として決着するかに見えたのは、甘寧の刀を盾ではじきかえした楽進が、反撃をくりだそうとした瞬間であった。
船が大きく揺れたために、船上での戦闘に慣れていない楽進は、踏みこもうとした足を狂わせ、尻もちをついてしまったのである。
この隙を見逃す甘寧ではなかった。
刀を振りおろそうとした甘寧は、しかし、とっさに盾をあげて顔をかばった。
その盾に、鈍い音を立てて矢が突き立った。
「ちっ」
甘寧は舌打ちした。
矢を射かけて楽進を救ったのは、すぐ横に浮かぶ蒙衝に乗った男であった。
「文聘どのっ! 助かった!」
大声で感謝を伝える楽進は、すでに立ちあがり、体勢を立て直している。
こいつはいかん、と甘寧は思った。
あとすこしで大手柄だったはずが、一転して窮地に立たされたようだった。
楽進との一騎打ちであれば、後れを取るつもりはないが、文聘の矢がいかにも邪魔である。さすがに、矢を警戒しながら戦えるような相手ではなかった。
だからといって文聘から始末しようにも、となりの船に刀がとどくほど、甘寧の腕は長くない。
「くそっ」
甘寧はすばやく視線をはしらせた。
文聘の乗る蒙衝に、孫権軍の兵士の姿は見えない。味方部隊の援護は期待できそうになかった。
甘寧たちが乗りこんでいるこの船はというと、彼の部下が、敵と入り乱れて戦っている。
激戦のさなかである。甘寧に加勢しようとすれば、敵兵も引き寄せてしまうにちがいない。
いっそのこと、混戦にもちこむべきであろう。二対一に近い現状は、はなはだまずい。
計算を実行するよりも早く、文聘がふたたび弓に矢をつがえ、楽進が刀と盾をかまえてせまりくる。
甘寧は肝を冷やしたが、絶体絶命の危機は一瞬のうちに過ぎ去った。
ジャーン! ジャーン!
曹操軍が、撤退の銅鑼を打ち鳴らしたのである。
楽進たちも、文聘たちも一斉に逃げだし、後方につながれた走舸にとびうつっていく。
あやういところで虎口を脱したらしい。安堵する甘寧だったが、急速に疑念がふくれあがる。
こうもあっけなく逃げだすものだろうか?
いぶかしむと同時に、船から火の手があがった。
「むうっ!? これは火船の計か!?」
甘寧は目を見はると、撤退する曹操軍には目もくれず命じた。
「船を動かして道をあけろッ! このままでは味方の船に衝突する!」
彼らが乗ってきた快速艇につづいて、大型・中型船も、すでに至近にせまっているのだ。
「だ、だめですッ! 舵がなくなっていますッ!」
「なにぃ!」
部下の叫びに、甘寧が怒号を返すと、
「甘寧さまッ! これを見てくださいッ!」
別の兵士が、船縁から身を乗りだすようにして、やはり叫んだ。
甘寧が近寄ってみると、兵士が指さしているのは、船縁から川面に垂れさがる鉄の鎖である。
鎖の先を見れば、文聘が乗っていた蒙衝につながっている。
船同士が鉄の鎖でつながれている。
これでは船を動かして道をあけることはできない。
全軍の危機を悟った甘寧は、色を失い、呆然と立ち尽くした。
火の手があがっているのは、この船だけではなかった。
文聘たちが乗っていた船も、その向こう側の船も、さらに向こうの船も。
曹操軍の船が、江水の川幅いっぱいに広がった鶴翼の陣が、列をなして燃えている。
巨大な炎の腕が、孫呉水軍を包みこもうとしていた。




