第一〇〇話 十面埋伏の計
「十面埋伏の計……!」
劉備はおどろきの声をあげた。
十面埋伏の計といえば、漢の高祖となる劉邦旗下の名将韓信が、覇王項羽を倒すために用いた計略である。
兵力においては圧倒的に優勢だった劉邦軍だが、項羽軍は精強で、なかなか撃破するには至らない。そこで韓信が案じたのが十面埋伏の計である。
どれほど強い軍勢であろうと、戦いつづければ疲労がたまり、いずれ勢いは衰える。各所に兵を伏せ、つぎつぎと項羽軍に襲いかかればよい。
韓信の思惑通り、連戦を強いられた項羽軍の動きは鈍っていった。
こうして、楚漢戦争は劉邦軍の勝利によって幕を閉じたのである。
「敵からしてみれば、我々がこの道を通ることはわかりきっているのです。いかようにも待ち伏せることができるでしょう」
諸葛亮がしぼりだした言葉に、劉備の身体は芯から凍りついた。
「……このような伏兵が、まだ待ちかまえているというのか」
「華容道への道のりはようやく半分を越えたばかり。敵の奇襲は、これからますますはげしくなるかと存じます」
諸葛亮は口惜しげに悲観的な意見を述べた。
それに賛同するように、趙雲も無念そうに目をすがめて、
「劉備さま。思うに、曹操軍と趙儼軍が同時に撤退したのが罠だったのではないでしょうか?」
「どういうことだ、子龍?」
罠という単語を、劉備はいぶかしんだ。
撤退を決めたのならすみやかに実行すべきであろうし、片方が孤立せぬよう同時に撤退するのは当然であろう。そこに不自然さは感じられない。
「もし趙儼軍が一日か二日、撤退を遅らせていたなら、我々は曹操の退路を断てるとは思わなかったはず」
「……たしかに」
趙雲の指摘の正しさを、劉備は認めた。
「そうなると、私は敵の陥穽にはまって、まんまとつりだされてしまったということか……」
趙儼軍が曹操軍と同時に撤退したことによって、曹操を討つ機会が生じた。
いや、生じたと思いこまされ、劉備は先を急いでしまったのだ。
呆然自失の時間は、ごくわずかだった。
さすが戦乱の世を生き抜いてきた男である。
表情はひきゆがんだままだったが、劉備はあっさりと未練を断ち切った。
「……勝てなかったにせよ、こちらの損害はまだ小さい。生きてさえいれば、いずれ好機をつかむこともできよう。撤収だ。引き揚げるぞッ!」
曹操を討つ好機は、まやかしでしかなかったのだ。
であれば、危険をおかしてまで前進する必要はない。
敵の術中に陥っているのなら、なおさらであろう。
趙儼軍に多少の損害を与えたところで、そんなものはすぐに回復してしまう。
執着するほどの価値はない。
撤退を告げるため、兵士が銅鑼を打ち鳴らした。
ジャーン! ジャーン!
という銅鑼の音は、銅鑼の音だけでは終わらなかった。
森の中のどこからともなく、太鼓の音がかぶせられたのである。
太鼓の音は前進、攻撃の合図である。
むろん、劉備が指示したものであるはずがない。
敵がすぐそばに潜んでいるのだ。
「い、いかん。また伏兵か! これは曹操の罠だ! 引けっ、引けい!」
顔面を蒼白にした劉備は必死に叫ぶと、手綱を引いて馬首をひるがえした。
太鼓の音は、風が渦巻くようにひびきわたる。
歴戦の劉備をして動揺がおさえられず、どの方角から太鼓が打ち鳴らされているのか、敵がせまっているのか判別がつかない。
まるで四方すべてから敵が押し寄せてくるようにすら感じられる。
兵気が近づいてくる。騎手の恐怖が伝染したかのように、劉備の馬がぶるりと首をふるわせた。
するどい羽音が蒼天を引き裂き、飛来した一本の矢が、劉備の頭上をかすめるように通りすぎていった。
この瞬間、趙儼軍の撤退戦は、劉備軍の撤退戦へと様変わりした。
曹操を討つための戦は、劉備を討つための戦と化したのである。
銅鑼に合わせて太鼓を打ち鳴らし、劉備たちを恐怖のどん底に叩き落したのは、第四の伏兵たる李典隊であった。
この太鼓の音は、当然のことながら攻撃の合図だったが、そこにはもうひとつ、別の意図がこめられていた。
周囲の味方に、劉備軍が転進したことを伝える合図でもあったのだ。
「報告いたします! 李典隊が太鼓を打ち鳴らしております! 劉備軍は前進をやめ、後退をはじめたもよう!」
先行する趙儼軍本隊にとびこんできた伝令が、下馬すると同時にそう報告した。
「よし、我々も転進だ。これより反転攻勢に出る! 全軍、転進ッ!」
このときを待ちわびていた于禁が、勇ましく号令をかけた。
郭嘉から総大将の座を押しつけられたとはいえ、趙儼は戦歴豊かな将ではない。彼は直接的な指揮は于禁にまかせ、軍の目付役・監督役ともいうべき立場に一歩しりぞいていた。
では、趙儼軍の実権を握っているのは于禁なのか、といえばそうではない。
曹操軍が全面撤退を開始する直前に、より大きな権限をもつ人物が、趙儼軍に合流していた。
智謀の士と名高い老将、程昱である。
正確を期するなら、この軍勢はすでに趙儼軍ではなく、程昱軍といいあらわすべきであろう。
「四面でとまったか……」
馬上でつぶやいた程昱に、趙儼が応じる。
「もっと深追いしてくれれば、ありがたかったのですが……」
「劉備はしぶとい男だ。やつの生存本能が警鐘を鳴らしたのであろう」
「しぶとい、とは絶妙な評ですな。私も、劉備はもっと用心深い男だと思っていました。まさか、こうもたやすく罠に引っかかってくれるとは……」
趙儼は首をかしげた。
彼らが撤退して背中を見せれば、劉備軍が追撃したであろうことはまちがいない。
それにしても、劉備は先を急ぎすぎたように思える。
「劉備の用心深さは、逃げまわらねばならない状況によって強いられてきたものだ。あくまでも、あの男の一面にすぎん。本質ではあるまい」
兵士たちの進軍速度にあわせて馬を進めながら、程昱は論評した。
「では、本質とは?」
趙儼の問いに、
「危険をかえりみぬ野心家だ」
豊かな白ひげをたくわえた老将は、きっぱりといいきった。
「餌兵に喰らいついてはならない。その程度のことは、劉備も心得ていよう。だが、わかっていても、曹操さまの命には喰らいついてしまった。郭奉孝は、劉備が心の底から欲しているものを、目の前にぶらさげてやったのだ」
程昱の声には、まぎれもない感嘆のひびきがあった。
「……なるほど」
趙儼はうなずいた。
長年逃げまわってきた劉備にとって、現状を打破する唯一無二のものが曹操の命である。
曹操を討つ好機が訪れた、と錯覚したことで、用心深さの仮面がはがれおちてしまったのだろう。
うなずきながら、趙儼は苦笑させられた。
十面埋伏の計はともかく、主君をおとりとして利用するとはなにごとだろうか。
趙儼にはとうてい思いつかない、不逞な作戦といえよう。
とはいえ、郭嘉の発案だと思えば、おどろくようなことではないのかもしれなかった。
彼が天与の才の持ち主であることは、昔からよく知っている。
趙儼にとって、となりの家に暮らすひとつ年上の少年は、壁であり、嫉妬の対象でもあった。
敬意や親しみも当然存在していたし、包括的に見れば好意にかたむいてはいたが、郭嘉にむける感情は単純なものにはなりえなかった。
ところが、いまは不思議なほどに敗北感も羨望もわいてこない。
おそらく、これが郭嘉の最後の策になる。
そう思うと、さまざまな感情が洗い流されたかのように抜け落ちて、趙儼はまじりけのない、純粋な称賛を口にした。
「見事な策です」
「うむ。兵力も、物資も、時間も有限だ。敵のあらゆる手にそなえるというのは現実的ではない。敵の打つ手を予測して、いかにその予測をしぼるか。さらには敵の動きを制限して、いかにこちらの思うように動かすか。そこに軍師の真髄がある」
「奉孝が残した地図を見ればわかります。あいつは、あえて不利なはずの撤退戦を選んで、劉備軍を自分の意のままにあやつった」
郭嘉が作成した地図は進軍先のものではなく、進軍してきた場所の地図だった。
その地図は目を見はるほど緻密で、兵を伏せるのに適した場所まで印されていた。
地図を作製する段階で、前進した先ではなく、後退した場所を戦場として想定していたのである。
趙儼には信じがたいことだが、郭嘉はあの時点で、いまの状況を予測していた。
前進したところで勝機はないと判断し、撤退戦で勝利をつかむための策を講じていたのである。
于禁の号令が飛んだ。
進軍速度をあげるよう命じられ、兵士たちの歩みが速くなる。
急ぐほどに、周囲への警戒はおろそかになるが、心配は無用であろう。
劉備軍には、もはや彼らに奇襲をかける余裕など、残されていないのだから。
趙儼と程昱も兵士たちにあわせて、馬の脚をわずかに速めた。
程昱は、まるで黙祷するかのように両眼を閉じると、その目をあけ、惜別の言葉を送った。
「郭奉孝、彼ほど軍師らしい軍師と会うことは、もう二度とあるまい」
曹操から十面埋伏の計を託され、地図をにらみながら、各所に兵を伏せたのは程昱である。
実行にうつした人物だけに、彼は郭嘉の真価をまざまざと実感しているにちがいなかった。
趙儼は無言で空を見あげて、目を細めた。
地上の争乱をよそに、雲はゆるやかに流れている。
郭嘉最後の策は、ひとつではない。
程昱が劉備軍を撃破すべく烏林を発ったそのとき、賈詡もまた、郭嘉が残した策を託され江陵にむかったという。
静謐な泉に広がる波紋のような、奇妙な喪失感を胸に抱きながら、趙儼はもうひとつの戦場に思いを馳せた。
「孫呉水軍を倒すための秘策、か。こちらにとって不慣れな、水上での戦闘をするつもりだろうか。だとすれば、劉備軍よりも、よほど手強い相手のように思えるが……」




