二十六話 目覚めと告白
楽しんでいただければ幸いです。
……どこからか、歌が聞こえた。
その歌はとても聞き覚えがあって、俺が一番好きだった歌。聞いていると他の何よりも安心することができる、そんな歌だ。
それによって、深い……それこそどんな光も届かないような、そんな深い暗闇の中に眠っていた意識が少しずつ浮上し始めた。随分長らく眠っていたようで、とても遅いペースだ。
だが、やがて時間をかけて這い上がった俺の意識は眠りと覚醒の狭間にある水面に行き着いた。しかしそこから上に行くことが難しく、朧げにしか感覚を掴めない。
そんな状態でも、俺の耳に確かにその歌は響いてきた。そうしてようやく、はっきりとしない意識の中で俺は気づく。それを歌っているのが、誰よりも好きな人の声だったことに。
……ああ、そうか。これは夢か。どうりでなかなか覚めないわけだ。けど、どうせなら覚めたくない。この声を聞いていられるのなら…それこそ、ずっとこの夢の中でもいい。
しかし皮肉にも、そう思えば思うほどあれほど曖昧だった感覚がはっきりとし始める。それに少し残念な気分を覚えていると、不意に頭の後ろに柔らかい感覚を覚えた。
それを自覚した途端、触覚をはじめとして、それまで歌を捉えていた聴覚以外うまく機能していなかった五感が研ぎ澄まされていった。体も動かせるようになる。
半分寝ぼけ眼の状態のまま、俺は寝返りを打って、手を動かし頭の後ろにあった柔らかい何かを両手で抱え込んだ。それからはいい匂いがして、それが心地よくて腕に込める力を強くする。
するとぴくり、と柔らかい何かが震えた。思わず顔をしかめると、頭に何かが乗せられる。そのまま乗せられた何かは左右に動いて、まるで俺の頭を撫でているようだった。
……ん? 震える? 撫でられてるみたいな感じ?
「!?」
その瞬間、あれほどの俺の意識を離さなかった曖昧な感覚が一気に引いていった。すると当然、それまで半分以上眠っているようだった意識が完全に覚醒し、感覚が戻る。
それを実感した途端に、それまで曖昧だったせいで錯覚していたこれが夢でないことを自覚した。俺は夢の中になどいない、確かに起きている。
その証拠に、これまで頑なに開くことのなかった瞼がパッチリと開いた。そのままばっと横を見ると、視界いっぱいに肌色が映り込む。
え、何だこれ?肌色ってことは誰かの肌なのか? ということは今、俺は誰かに膝枕をされて寝ていたことにーー。
そこまで思考が行き着いたところで、心の奥から湧き上がってきた羞恥心で思わず体を捩ってしまう。その拍子にバランスを崩して体を預けていた何かから転げ落ちた。
「うぐっ、いてて……」
驚きで受け身も取れずしたたかに尻を地面のような硬いものに打ち付け、思わずそう呟く。寝起きで急激に動いたからというのもあるかもしれない。
そう思って立ち上がろうとすると、歌声が止まった。そしてそれまで寝転がっていた場所の方から誰かが立ち上がり、こちらに歩いてくる気配がする。先ほど俺が膝枕をされていた誰かだ。
内心警戒していると、その人物は俺の目の前で立ち止まった。そしてすっと俺に手を差し出してくる。そこから敵意は感じなかった。
それでも用心しながらその手を取って、ゆっくりと立ち上がる。そしてその人物の顔を見ようと顔を上げてーー
「……………え?」
ーーその人物の顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
体が硬直し、周りから音が消える。口を開けて間抜けな表情を晒し、目を見開いて目の前にいるその人を穴が空くほど見た。けれど……そんな中で、心臓だけはうるさいくらいに高鳴っている。
時が止まった、という表現をよく聞くが、まさかそれを自分が実際に体験する時が来るとは思いもしなかった。それほどに衝撃的だったのだ。
普段の俺ならどんな状況かもわからない中で、一端の陰陽師としてそんな隙だらけな状態を晒しはしない。けれど、そんなものは今この場において全く意味をなしていなかった。
……でもそんなの、当たり前だ。
だって今、俺の目の前にいるのは……俺が生まれて初めて好きになって。もう会うことは叶わないとわかっていても。
何度諦めようとしても、忘れようとしても。それでもーー
「…相変わらずそそっかしいですね。そんなに驚いたんですかーーセンパイ」
「る、り……?」
ーーそれでも恋い焦がれた……初恋の少女だったのだから。
ずっと、忘れられなかった。一日だって忘れた日はなかった。俺の心の中にずっとい続けて、思い出して苦しくて泣いた時もあった。
その瑠璃色の綺麗な髪も、透き通るような、けれどどこか眠たげな瞳も、それを隠す青縁の眼鏡も、桜色の唇も、すっと通った鼻筋も、少しだけ低い身長も。
なによりも……そのいたずらげな微笑みを。全部、はっきりと覚えている。
異世界に来てから何度も一緒にいたあの日々の夢を見て……目が覚めて、それがまやかしだったことに涙を流した。心が張り裂けそうだった。
ふとした瞬間に脳裏にその笑顔がよぎって、それを忘れるためにいつも以上に鍛錬を重ねて、それで心の底から湧いてくる寂しさを誤魔化していた。
エクセイザーや、シリルラと会話していて……物静かで、それでいて楽しそうに話す姿が思い浮かんできて。涙を流さないよう、空元気を振りまいたこともあった。
頭の中に、次から次へと会うことのできなかった時間の苦しい思いが溢れてくる。そして一つ浮かんでくるたび、それは頬を伝う雫へと変わっていくのだ。
胸が、締め付けられるように痛い。今この瞬間でさえも、ただの泡沫の夢なのではないかと疑って酷く寂しい気持ちになる。
だから、俺は……
「あっ……」
…気がつけば、彼女を抱きしめていた。
腕の中に、確かな暖かさがある。彼女の息遣いが、鼓動が伝わってくる。それを実感できた瞬間、まるでダムが決壊したようにとめどなく涙が溢れできた。
「ふぐ……ぅ…あ…!」
それでも、彼女の前で声を出すのは恥ずかしくて、嗚咽を噛み殺す。
そんな俺に、突然の抱擁に驚いていた彼女は困ったようにかすかに笑う。そしてそっと、俺の背中に手を回してくれた。
驚いて、一瞬嗚咽が止まる。そこに見計らったかのように彼女は耳元に顔を寄せてきて、いつものように悪戯げな口調で囁いた。
「……我慢しなくていいですよ。センパイが寂しがりやなこと、知ってますから」
「っ……! う、あ、ぁあああああぁああぁあっ…!」
彼女の声を聞いた瞬間、それまで必死に見せまいとしていた声がまるでタガが外れたかのように口から溢れ出す。
それと同時に、ここにきてようやく、まだまやかしなのではないかと疑っていた彼女がここにいることを完全に実感することができて、腕に込める力を強くした。
そんな俺に、彼女はまた薬と困ってように笑い。まるで子供をあやすように背中を撫でてくれる。
「会いたかったっ……ずっと…ずっと会いたかった……ッ!」
「……私もですよ、センパイ」
そう言いながら背中を撫でてくれる手が受けれてくれたようで、どこか嬉しいのだった。
●◯●
……どれくらいの時間が経っただろうか。
俺はそれまで途切れることなくあふれていた涙が枯れ果て、声が出なくなるまで泣いた。みっともなく、好きな子の前で。
やがて、ある程度落ち着いたところで彼女から体を離す。そして少し強くゴシゴシと目元をぬぐって涙をぬぐいとると彼女に向き直った。
みっともなく泣きじゃくる姿を見せたはずの俺に、彼女は俺の記憶にいる彼女と変わらず微笑んでこちらを見ている。
それがより一層ちゃんとここに彼女がいることを証明していて、先ほどまでの痴態も相まって恥ずかしくなって思わず顔を俯かせた。
だが、いつまでもこのままではいけない。ぐっと表情を引き締めて顔を上げ、彼女に視線を定め話しかけようとして…パクパクと口が動くだけだった。ダメじゃん俺。
それから数度、同じようなことを繰り替えす。だが俺が話せるようになるまで、ただ彼女は静かに待っていた。決して自分からはこない。
…思えば、いつもそうだった。こいつは俺が何か話題を振ると突然それまでの沈黙が嘘かのように話し出す。そして俺が苦笑いするのを楽しんでいたのだ。
それを思い出すと、途端にそれまで緊張で縮こまっていた喉がほぐれたような気がした。その勢いに乗って、今度こそ声を出す。
「ああああの、にゃんでここに?」
…………やっぱりダメだったわ。
もう恥ずかしいやら情けないやらで頭を抱えていると、ぷっと彼女が吹き出した。そして心底可笑しそうに口元とお腹を抑え、プルプルと笑いをこらえている。
これまた相変わらずな様子に思わずジト目で睨むが、全く意に介さず彼女は時々こらえきれずに声を漏らしながら笑っていた。こっちは恥ずかしいってのに、こいつは…!
「……そんなにおかしいかよ」
「ぷふっ、いえ、相変わらずセンパイはセンパイだなと思うと……ぶふっ」
「くっ、こいつ…!」
俺が怒りに打ち震えている間にひとしきり笑った彼女はあー、と息を吐くと、こちらを向いてにこりと笑う。
「久しぶりに笑わせてくれてありがとうございます。改めまして……こんにちは、龍人センパイ」
「……おう」
俺が短く呟いて返答を返すと、彼女はよくできましたと言わんばかりにこりと笑う。その笑顔にどきりとして、思わず目を逸らしてしまった。
……白井 瑠璃。
それがこいつの、異世界に行ってからも未練がましく会いたくて仕方がなかった女の子の名前だ。
初めて出会ったのは地球で中学二年の頃。雨の日に傘を忘れた俺に傘を貸して……いや、正確には玄関口で立ち往生していた俺を傘の中に引っ張り込んだのだ。
それをきっかけになんとなく一緒にいるようになって、俺が進級して中三になる頃にはかなり仲良くなっていた。そして受験して高校に行き、俺が二年生になると同時に同じ高校にやってきた。
総合すると計四年。それが瑠璃と過ごした時間だ。学校では会えない一年の期間も三日に一度くらいの頻度であっていたので、特に離れ離れ、というわけでもなかった気がする。
そうやって一緒にいるうちにどんどん仲良くなっていくうちに、少なくとも俺の中では掛け替えのない存在になっていた。それこそ、思考の大半がこいつとのことで埋まるくらいには。
……まあ、それだけ一緒にいたのに自分の気持ちを自覚したのが死んだ後だと言うのだから、鈍いにもほどがあると我ながら思う。
で、その相手が今目の前にいるわけだが…気持ちを自覚しているだけに、こうして一緒にいるだけで形容できない熱が思考にまとわりついていた。
というか、心臓がバックンバックン言っててうるさい。見ているだけで頬が熱くなる。なんだか変な気分になってきた。
え、こいつこんなに可愛かったっけ?まつげとか細いし長いし、目は眠たげなのにくりっとしてて可愛いし、あれ、髪少し長くなったか?ていうか、なんか全体的にキラキラしてーー。
「……センパイ?」
「…はっ!」
瑠璃の声で我に帰る。あ、危ない危ない、なんだか変な思考に陥っていた。頭を左右に振って不可思議な熱を振りほどく。
そうすると一つ咳払いをして、瑠璃の方に向き直った。そして一番疑問に思っていたことを口に出す。
「えっと、それで、なんでここに?」
そう、俺はイザナギ様のミスで死んで異世界ヒュリスに行った。それなのになぜ、ここに地球にいるはずの瑠璃がいるのか。
それ以前に、ここはどこなのだろうか。少なくとも『遥か高き果ての森』ではないことは、背後にある大きな湖と瑠璃の後ろにある適度に生えた木ですぐにわかった。
……いや、よく見るとここは見覚えがある。確か、俺が瑠璃に自分の最大のトラウマを打ち明けて、受け入れてもらった場所だ。
そんなふうに考えを巡らせていると、また瑠璃が可笑しそうに笑う。その挙動一つ一つがとても可愛らしく見えた。
「ふふ、おかしなことを言いますね、センパイは」
「へ?」
間抜けな声を上げて間抜けな顔を晒す俺にいたずらな笑みを浮かべた瑠璃は、自分のこめかみに指を当てる。
すると……
《ここにも何も、ずっと一緒にいましたよね?》
「ーーッ!?」
この、声は……!
脳内に響いてきたとても聞き覚えのある……この約八ヶ月間弱ずっと聞いてきた声に、俺は先ほどのように頭が真っ白になった。だが、比較的早く復活する。
そしてばっ!と瑠璃を見れば……彼女はこめかみから指を離して、いたずらが成功した時の意地の悪い満面の笑顔を浮かべた。
そんな瑠璃に俺はパクパクと金魚のように口を開閉させながら、彼女に震える人差し指を向けた。人に指を向けちゃいけないとか、そんなの今はどうでもいい。
さっきの脳に響いてきた声、面白そうに笑う瑠璃、そして先ほどの行動の意味。
それら全てを掛け合わせると、たどり着く答えは……一つ。
「お、おま、まさか……!?」
「ふふ、正解ですよセンパイ……いえ、龍人様」
またしても唖然とする俺に、瑠璃はにこりと見惚れてしまうような笑顔を浮かべた。
「改めまして、白井瑠璃こと、下級神シリルラです。以後お見知り置きを」
そしてそう、どこか楽しそうに言うのだった。
「……えっと、ちょっと待ってくれ」
「はい、いいですよ」
…つまり、どういうことだ。俺が今までずっと知っていた瑠璃は実はシリルラで、異世界に行ってからずっと一緒にいたような状態のシリルラは瑠璃だったのか?
「……じゃあ、地球では人の姿をとって人間界にいたってことか?」
「そういうことになりますね」
なぜそんなことを?いや、それは俺にはわからない。陰陽師とはいえ、所詮はたかが人間である俺に、神々の常識や思考など一生理解できないだろう。
それよりも、だ。問題なのは……ずっとシリルラに、瑠璃に対しての自分の好意を心の中と口に出したもの両方ともずっと聞かれていたことだ。
つまり女々しく枕を濡らしていたことも、本人が見ている……聞いている? 前で空元気で誤魔化していたのも、全部、筒抜けだったってことだ。
「あ、ぁあ、あぁああ……!」
それを理解した瞬間、先ほど泣いて散々声を張り上げたはずなのに、全力で発狂したい気分に見舞われた。
……うん、とりあえず心の中でだけでも叫んでおこう。そうでなくては恥ずかしさで気が狂ってしまいそうだ。
それじゃあ早速……………うわぁぁあぁあああぁああぁぁああああぁああ恥ずかしいぃぃいいいいいい!!!
なんだよ、ふざんなよ! 好きなこの見ている前でその子に対しての気持ちをダラダラとずっと垂れ流し続けるって、どんな拷問だ! 地獄の一番下の階層の拷問より酷い拷問だよ!
つーかそれ以前に気持ち悪いだろ! 俺死んで異世界に行ってからこれまでずっと事あるごとにこいつのこと考えてたぞ!? それが全部聞かれていたし見られていた!?
「あぁあぁぁぁあぁぁ……」
「ふふ、あんなにずっと私のこと考えてたんですね、センパイって」
「!?」
ちょ、ちょっと待て!もしかして、今もまだリンクしてるのか!?
「はい、してますね。 それにしても、あの歌、気に入ってくれていたんですね……嬉しかったですよ」
……やべえ、恥ずかしさが一周回って死にたくなってきた。もうこれ死んでもいいよね?恥ずかしすぎるんだけど。
俺がもの凄く顔を引きつらせていると、ここまで想定どおりだったのだろう我が後輩兼サポート下級神様はまたいたずら好きな子供のような笑顔を浮かべた。
まだ何かあるのか、と過去の経験からさらに追い討ちをかけられるのを想定してガクッとしていると、瑠璃が一歩こちらに近づいてくる。
「…センパイ、もう一つ言いたいことがあります」
「いったいこれ以上、何をーー」
これ以上、何を言うってんだよ。そう続けようとした言葉は、俺の口から外に出ることは叶わなかった。出る前に押し込められたからだ。
……いや、正確には塞がれたと言うべきだろうか。柔らかい何かで口を塞がれて、声を出すのを阻まれたのだ。
「ん……」
そして、俺の視界いっぱいに瑠璃の端正な顔が写っていた。その白い頬は心なしかほんのりと朱色に染まっており、柳眉は垂れ下がっている。
つまるところ…俺と瑠璃の顔は超至近距離にあり、そして……俺の唇と彼女の瑞々しい唇が重なっていたのだ。
……俺…いま、何やってんだ? すげえ近くに瑠璃の顔があって、そんで柔らかい感触が口にあって、いい匂いがしてて…
俺、瑠璃とキス、してんのか……?
「〜〜〜〜〜っ!?!!?」
その結論に行き着いた瞬間、急速に落ち着きかけていた羞恥心がぶり返してくるのがわかった。両ほほに血が集まっていき、耳が熱くなる。
即座に体を離そうとするが、しかし俺に意思に反して体はピクリとも動くことはなかった。そうしている間にも、瑠璃は一向に離れる様子はない。
それどころか俺の後頭部に両手を回し、俺の状態にお構い無しに唇を押し付けてきた。つま先立ちをして背伸びしているのが視界の端に映り込む。
やがて、瑠璃は俺から体を離す。それまでの間、俺は全く動くことができなかった。目を見開いて固まっている俺に、瑠璃は自分の唇に指を当てて口を開く。
「……私もセンパイの…龍人様のこと、ずっと好きでした。片割れの私に後を押し付けて、あなたを追いかけてくるくらいに」
……………へ?
今、こいつなんて言った? 好き? 好きってあの好きだよな。ライクじゃなくてラブの方だよな。
瑠璃が……瑠璃も、俺を好き?
瑠璃を見下ろす。彼女はそれまでの微笑みがなかったかのように恥ずかしげに顔を赤くしており、こちらを見上げている。
こいつが俺を、好き。それで俺も瑠璃が好きで、そんで瑠璃も俺を好きで、要するにどっちともお互いのことが好きで、それで……つまり、両思い?
そこまで考えたところで、俺は限界が来てぐるぐると高速で回転してこんがらがっていた思考が爆発したかのような錯覚に陥った。
ぐらり、と体が揺れる。
「ちょ、センパイ!?」
瑠璃の、シリルラの慌てたような声が聞こえた気がしたが、地面に仰向けに倒れ伏した俺は、そのままプツンと意識が途切れたのだった。
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