第83話:金の糸
「ちぃっ。速いとは思っていたが、これほどとは……!」
「…………」
恐れの消えたリセは巧みに風を操り、縦横無尽に空中を移動する。
一瞬強い風が頬に触れたかと思えば、その風の先ではリセが槍を構えている。
ボルトは簡単に背後を取られている事実をとらえると、にいっと笑いながら言葉を発した。
「ふっ。この俺の背後を取るとは、大したもんだ。しかし―――」
「なっ!?」
「しかしそれでもなお、経験が足りない」
完璧に背後を取ったリセはボルトの肩を貫こうと槍を突き出すが、その先端が触れようかという刹那、ボルトは雷のレールを足元に発生させて自身の体を横にスライドさせる。
結果的にリセの突き出した槍は空を切り、その槍の先端をボルトは蹴り上げたつま先で吹き飛ばした。
「攻撃が素直すぎる。小僧同様実戦経験の差が出たな」
「っ!?」
ボルトは右拳を力強く握りこみ、その拳に雷の力を集中させる。
ボルトの左手はまるで照準を合わせるようにリセの頭部に向かって突き出され、ためらいなく命を刈り取る拳がリセの眼前に迫りくる。
リセの動体視力であれば、見えないスピードではない。しかし、攻撃後の隙がリセの体を硬直させ、その一瞬が生死を分けようとしていた。
「終わりだ。貴様も、そして小僧もな」
「……っ!」
リセの瞳の中に、倒れているレウスの姿が映る。
いつも喧嘩をしていた。暴言を吐いた数など数えきれない。
でも彼は、傍にいてくれた。絶望した私の肩に触れて「一緒に行こう」と言ってくれた。
私は、助けられないのか? あの日の彼のように、誰かに光を与えることはできないのか?
リセの青い瞳の奥で、絶望の闇が広がっていく。
しかしその時、リセの目の前を黄金の風が吹き抜けた。
リセの視界いっぱいに広がる金色の糸。ずっと見てきたその糸に純白の羽が絡んでいる。
そしてその糸の先に立つ、黒ずくめの女性。
振り返るその女性の笑顔を、リセは知っている。その笑顔に迷いはなく、ただ真っ直ぐにリセを信じてくれていた。
「っ。ああああああぁぁぁぁああああ!」
「なにっ!?」
突き出されたボルトの拳の軌道が変わり、紙一重のところでリセの前髪をかすめていく。
結果的に攻撃が失敗したボルトは、驚愕の表情で目の前の少女を見下ろした。
「なん、だ。今の感覚は」
「…………」
ボルトは言いようのない恐怖を感じ、震える口元で言葉を発する。
しかしリセはボルトの言葉に答えることなく、瞳の中に光も感じられない。そして無機質なその表情でボルトの顔を真っ直ぐに見返した。
「答えろ! 貴様俺に一体、何をした!?」
「…………」
自分はこれまで、ここまで接近した相手への攻撃を失敗したことがない。
そもそもこの娘の身体能力では、あそこまで近づいた自分の攻撃を回避できるわけがない。
しかし結果は、見ての通り。
その予測と結果のあまりにもかけ離れた距離にボルトは言いようのない恐怖を感じ、数歩後ずさって距離を取ると高速の雷を連射した。
「くそぉああああああああああああ!」
「…………」
威力を落とし、スピードを重視した攻撃。これだけの数を放てば、一発くらい薄皮をはぐことはできるだろう。
しかしそんなボルトの予想に反して、リセの体にはかすり傷ひとつついていない。それどころかリセは、その場から少しも動いてすらいなかった。
「ん。わたし、は、いったい?」
やがてリセの瞳の中に光が戻り、きょろきょろと周りを見回す。
そこではなぜか距離を取っているボルトが、明らかに動揺している姿があった。
『わからない。でも、今がチャンス!』
「っ!? あっぐぁぁぁ!」
動揺したボルトの隙を利用して、リセは再生成した槍をボルトの足に突き立てる。
出血と共に激痛がボルトの体を走り、膝を折ったボルトの額に冷たい汗が垂れていった。
「―――これで、あなたの足は封じた。騎士団に投降して」
リセはその透き通った瞳でボルトを見つめ、ゆっくりと口を開く。
そんなリセの言葉を聞いたボルトは嘲笑するような顔をしながら返事を返した。
「この俺に、負けを認めろと? 認めれば許してくれるのか」
「私は許す。でもきっと、この国はもうあなたを許さない」
王国領土への不正侵入だけでも重罪だが、多くの市民を危険に晒し、魔術協会職員にも重傷を負わせた。
ボルトに対する断罪はもはや避けられないだろう。それがわかっているから、ボルトは不敵に笑ってみせた。
「だろう、な。だったら―――!」
「っ!?」
ボルトは右手をレウスの方向に突き出すと、その腕に乗せるような形で雷の槍を生成する。
その槍はやがて倒れているレウスに向かって高速で射出された。
「言っただろう! 経験が足りないんだよ!」
「レウス!」
リセは咄嗟に風を操って自身の体を槍の先端とレウスの間に割り込ませる。
できることなら、迫りくる槍を叩き落としたい。しかし、その時間は残されていなかった。
「止めてみろ! その身を盾にしてでもなぁ!」
「くっ……!」
リセはもう、避けられない。レウスを助けたいのなら、その身を盾にするしかない。
あの小娘が死ねば、その後自分はゆっくりと小僧を始末すればいい。
勝利を確信したボルトは頬を緩め、囁くように言葉を落とした。
「これで、終わりだ」
「あっ……」
飛翔する雷の槍の先端はリセのワンピースの生地を焼き切り、その刃を柔肌に突き立てていく。
しかしその刃が深く突き刺さろうというその瞬間、まるではじめからその槍はなかったかのように掻き消えた。
「……にぁ」
「っ!? なっ、何だ。何が起きた」
リセの体を貫いていたはずの槍が消え、自分とリセの間には一匹の白い猫が座っている。
先ほどまでこんな猫、気配すらも感じなかった。それが今は悠長な鳴き声を響かせ、前足で顔を洗っている。
死を覚悟していたリセはぱくぱくと口を開きながら、目の前に座る猫を見つめた。
「にぁ」
「シ、ロ?」
白く美しい毛並みを見たリセは呆然としながらその名を呼ぶ。
シロは顔だけリセの方に向けると、面倒くさそうな表情でぴこぴことひげを動かした。
「なん、だ、このネコは。邪魔なんだよ!」
「っ!? だめぇえええええええ!」
ボルトは悠長に鳴き声を響かせるシロに苛立ち、一発の蹴りを放つ。
そのつま先がシロの喉元に刺さろうという刹那、シロの体は金色の光を放つ。
まばゆい光に目をくらませていると、シロのいた場所にはいつのまにか一人の女性が立っていた。
「えっ……」
頭の上には小さな花が装飾された冠が輝き、白いドレスが日の光を浴びてキラキラと輝く。
その右手には装飾の施された杖が握られており、白いドレスの肩からは赤いロングマントが下がっている。
整った顔立ちと控えめな胸元をしたその女王は、面倒くさそうに息を落としながら言葉を紡いだ。
「はぁ。まったく。わたくしがこんな男を相手にしなければならないなんて」
「きさ、ま。貴様は……。ナンバー、ワン!?」
魔術協会を調査する過程で何度も目にしたその顔を見たボルトは、驚愕の表情を浮かべながら声を荒げる。
しかしそんなボルトの声を鬱陶しそうな表情で受けた女性は、胸の下で腕を組みながら言葉を返した。
「あら、なんのことかしら」
「……シロ?」
リセは呆然としながらも、かろうじて小さく言葉を落とす。
そんなリセの言葉を聞いた女性はほんの少しだけ目を細めると、さらに言葉を続けた。
「そう、シロ。わたくしは、ただのシロですわ」
シロの声が広場に響き、その言葉を受けたボルトは困惑した様子でその顔を見つめる。
リセは変わらず呆然としながら、目の前で揺れる金色の糸をじっと見つめていた。




