悪夢の終わりと破滅の始まり6
私が直樹を追いかけて階段を上り始めた頃、司さんの押し殺した泣き声が聞こえてきた。
司さんは直樹が高校最後の年、まずはセンター試験に向けてゲーム絶ちをする日にいなくなった、と聞いた。司さんと直樹の年の差は7才だったか8才だったか? で、直樹は“オムツも取り替えた仲”と言って笑っていた。もちろん、直樹がまだ小さい司さんのオムツを交換していた訳で、だけど直樹は司さんが男の子だと言っていたから私は仲の良い親戚としてしか思っていなかった。
司さんの両親は事業の失敗で住む場所を失い直樹の家に居候していたが小学校に上がる頃、株で当面の生活費を稼いだ司さんの両親は近所のマンションの部屋を買ったと聞いた。そうは言っても親が新たに事業を始めて忙しい時などは司さんは直樹の家に泊まっていたらしい。直樹は、それを普通にとらえていたけど直樹から聞いた司さんの行動は小学校が終われば駆けて会いにくる、クラスの女の子と話をしていると怒る、直樹が中学校に上がれば中学校のクラスに、高校に上がれば高校のクラスに遊びに行く。
いや、それって普通じゃないから。
直樹は暢気に“従兄離れ”していないと笑って話しているけど、仲の良さをアピールして牽制しているわよね? どう考えても小学生が中学校や高校に行くなんて普通は無いから!
そんな風に寝物語には司さんの話がよく出てきていたけど“男の子”と言っていたから気にしていなかった。直樹の“司さん大事”な言動にモヤモヤしたものは感じていたけど。
私はトントンと階段を上りながら初めて司さんに会った時の直樹へのモヤモヤがイライラ、ムカムカに変わった瞬間を思い出す。
直樹が司君と紹介したのは、まぶしい位輝く金髪をショートにした緑のような青と言えばいいのか青のような緑というのか深い綺麗な瞳が印象的で背は低めの包容力ありそうな女の子だった。
直樹、どういう事! 男の子って言ったよね? 今、中学生くらいって言ったよねぇ?
叫んで蹴飛ばそうになる私に、暢気な直樹は“異世界転位”とか“性転換”なんて中二病な話を語り始め、私は司さんに見せられた“魔法”を前に信じざるを得なかった。
階段を上り終わった。先に直樹の部屋に入った蒼井さんは直樹に一方的に話している。
「……もう、良いわよね? あなたがした余計な事で司君が辛い思いをどれだけしていると思っているのかしら? 司君は向こうの世界に帰します。あなたはあなたの世界で司君と関わらずに生きていきなさい。」
ついに蒼井さんの我慢の限界を越えたみたい。蒼井さんは司さんの保護者として、ずっと直樹の悪い所を見てきたから、いつかは言い出すと思っていたけど、このタイミングで、とは思わなかったわ。
あの日、泣き腫らした顔を司さんに見せるのは嫌だった。けど私がいない所で直樹と司さんが話し合って、その結果ここじゃない何処かに行ってしまう気がしたからプライドを捨てて、司君の“魔法”で治してもらっていた私に
「司君といい、三郷野さんといい、何故こんな目にあいながら直樹君といるの?」
蒼井さんは理解に苦しむ、と渋い顔をして言った。その言葉に思わず頷いた私は同じように頷く司さんに驚いて。司さんは小さく「あっ!」と短く叫びかけクスクス笑いだして
「もう、お兄ちゃんってば……。」
呟き、そして言葉にならない声で「変わってないんだから。」
あー。うん。私もそうだった。最初は直樹に怒りまくってた。もしかしたら司さんも、なのかもしれない。
直樹には、いつの間にか気になってしまう魅力がある、と私は思っている。私が直樹に会ったのは大学のサークルで開いた新歓社交ダンスパーティーの会場でだった。入場資格にペアである事とあったから女友達と組んで入った会場で、いきなり腕を掴まれ
「司、こんな所で何をしてるんだ!」
怒鳴られた。怒声に会場が静まりかえった中、呆気にとられた私は会場を連れ出され、訳も解らず叱りつけられるという苦行を味わったのだった。私が司さんではないと言っても信じず、男である司さんとは別人なのを証明する為に小さい私の胸を触らせてブラを着けているのを見せて、ようやく他人な事を納得させた。いや、私のカッコも悪かった。女友達はパーティードレスだったのだけど身長が170センチ半ばの私がタキシードを着て男装してパーティーに出ていたのだから。だからといって、細やかだけど確かに有る胸を両手で揉みしごいて
「え? ある?」
と言われたのは忘れられない出来事だった。
その後、数日してから、お昼の学食で直樹に見つかり皆が見ている前で土下座されて迷惑だと怒ったり、迷惑をかけたお詫びにと高い食事を奢られて迷惑だと断ったり、高価なプレゼントをされて迷惑だと突っ返したり、有り難迷惑を繰り返されて……気がついたら隣にいるのが当たり前な存在になっていた。
女友達は直樹を“付き合ったら女が苦労して男は苦労に気づかない”タイプだと言って早めに別れるように説得してきて、その頃には私の方がのめり込んでいたものだから大喧嘩になったり。
鈍感なのにいてほしい時には必ずいてくれて、何もしてくれないのに辛い時は包み込んでくれる、そんな直樹を女友達は“麻薬の様に”質が悪いって言ってたけど、私は……たぶん司さんも、「その通りだ」と思っていた。自覚が有っても離れる事は出来ないところが正しくその通り。
階段から扉の開けっ放しな直樹の部屋まであと数歩。
「私があなたに望むのは荒れた領地を豊かにする方法を考える事、それだけだわ。……もう、これ以上、司君に付きまとわないで。」
蒼井さんは司さんと直樹を遠ざけてしまいたいらしい。私が直樹から聞いた蒼井さんは、もっとのんびりしているように聞いたのだけど……うん、直樹にそれだけ苛立ったという事ね。このまま放っておけば向こうの世界に行く事無く、自分の気持ちも自覚していない直樹なら私に繋ぎ止めておけるかもしれない。
蒼井さんや司さんの言うところの塩漬け農地の再生は四方を海で囲まれた日本の農業関係では昔からの課題のひとつで塩に強い植物を使った土壌改善、強い稲の作成、土壌から塩を抜く方法と幾つかの手法が考えられてきていて、今も研究は続けられている。私と直樹が所属しているゼミでは“塩分が高い土壌で生育する稲”の研究をしていた。大学の卒業の時に出す論文は、この稲の研究成果にするつもりで直樹と共同研究を始めていた。私は理論を主に、直樹は実務を主にして話合ってハウス栽培で擬似的な環境を作って育てている。
大学の一部に作られたビニールハウスの中はサウナの様に熱く、よく直樹は上半身裸になり作業をしていた。見掛けと違い筋肉がついて腹筋も割れていて背が高く成績も上の中をキープしている直樹が汗をきらめかせて働いているのを一年女子がキャーキャー騒ぎながら見つめているのは、少し不安になるけど、直樹が私だけを見ていたから気にしていなかった
そんな私の前に立ったのは自称、男の子だった司さん。男の子だったというわりに直樹を妬けるような目付きで見ている見た目が完璧な女の子。そして直樹も自覚していないみたいだけど見つめ返している女の子。直樹に本気になって結婚の二文字も考えていた私の最大の敵。
「司君を泣かせるあなたはいらないの。」
蒼井さんは直樹を責め立てる。そして直樹は黙って聞いている。
このままなら直樹は、向こうの世界に行かないのだろうか? 私とこの世界で一緒にいてくれるの?
私は直樹の部屋に着いてしまう。直樹は項垂れて固く口を結んでいた。
蒼井さんのもっともな指摘に返す言葉が無い。
そんな所だろうか。
「蒼井さん。それは司さんに決めてもらいましょう? 司さんに黙って決めていい事では無いですよ?」
なんでこんな事を言わなくちゃならないの、と思いながら私は直樹と蒼井さんの間に入った。蒼井さんは私が邪魔に入るとは思っていなかったらしく意外そうに顔をしかめていたけど、小さくため息をついた。
「三郷野さんが、そう言うとは思わなかったわ。」
「私は……私は直樹の味方ですから。」
たとえ後悔する事になったとしても、ね。




