戸惑いだらけのメインパート8
俺達がリビングに入ると緊迫感が漂っていた。
母さんと蒼井さんは知らぬ顔でおしゃべりをしていたが視線がなんとかしろと言うように俺と七歌をチラチラ見ている。今年、会社を定年で退社した父さんは呆れたように七歌を見て俺達がリビングに入って来たのに気づくと視線を玄関に動かしてから新聞を拡げた。七歌はそのどちらも無視して全部お前の責だとばかりに俺を睨んでいる。
傍らにいた司が七歌の吊りあがった目に驚いたのか俺の袖口を強く掴んだ。
「ちょっと? ずいぶんゆっくりじゃない?」
苛ついている時の七歌らしい語尾が上がる言い方が妙に感に障り俺はあえて”いないもの“として分かってる事を問いかけた。
「苺さんは? 先に降りて来てる筈だけど。」
父さん母さん蒼井さんおそらく司も七歌を見た。
「……帰ったわよ。」
俺の言葉に睨んでいた目を下に落とした七歌はやがて顔を背けるとぼそぼそ言った。
―またか。
苺さんと七歌は初めて会った時から仲が悪かった。……というか七歌が苺さんに突っかかっていき怒らせるか泣かせるかするので出来るだけ会わせないようにしていたのだけど。母さんにフォローを頼むのも忘れるぐらい浮かれていたみたいだ。
「七歌。あれは”追い返した“と言うんだ。……直樹、すまんな。上手くやれれば良かったんだが。」
父さんがヤクザ屋も引く顔つきで低い声で謝ってきた。あの凶相で謝っても謝られている気がしないが頷いて返した。それより本来、謝らなければならない七歌は黙って俯いたままだ。父さんの「追い返した」の言葉もあって我慢が出来ない俺は七歌に向かって怒鳴り付けようとした。それを司が腕を引いて止めてくる。
「お兄ちゃん。追いかけてあげて。」
司は俺を見上げてそう言って俺の背中を押した。
「あ、けどそんな格好で行っちゃダメだよ? ちゃんと着替えて行ってね? 僕、ナナカねーちゃんと話してみるから。」
司は言いながらグイッとスエットのズボンを摘まんで上下に大きく動かした。手を動かすたびにズボンがずり落ちたり食い込んだりして。そんな風に司に遊ばれながら
「分かったっ分かったって。」
ズボンを押さえ司の手を払った俺は七歌に向かって
「帰ってきたら話しがある。逃げるなよ!」
「うるさい! 早く行けッ!」
苺さんの為にもう許せん。七歌が何を考えているかはっきりさせてやる。そう思って叫ぶと七歌も顔を背けたまま怒鳴り返しできた。
―この女郎、いい加減にしやがれ。
怒り心頭になり本気で殴るつもりで一歩踏み込んだ時、タイミング良く司がズボンの尻を引っ張った。ズボンのゴムがのびて大きく隙間が開いた。
「おわあ! 司ぁ!」
「あ、えっと、お兄ちゃん、早く着替えないと……あの人、追いかけるんだよね?」
白と青の縞模様の下着が見えてたんじゃないかと思う。司は少し赤い顔で俺に言って七歌に突撃した。
「ナナカねーちゃんのバカー!」
「えっ? ナニ? 痛いッ! バカ司!」
椅子に座っていた七歌は司を受けとめきれず盛大な音をたてて転がった。背中と頭を打ったらしく仰け反りながらハグゥとか呻いている。そして、司は小さく笑って言った。
「お兄ちゃん、ここは僕に任せて早く行くんだ。」
埃が舞い散る中、呆れた顔の母さんと蒼井さん、苦笑いしている父さん、椅子ごと転んだせいでしかめっ面の七歌。
司は俺を落ち着かせる為だけに馬鹿なことをしたのだろう。司がなんでこんな事をしたのか気づいた俺から怒りが抜けていく。俺は司にひきつった笑いを返して苺さんを追いかける事にした。
―やっぱり司は俺をよく知っているよ。
着替えてから探して歩いたが当然、見つからず苺さんが住んでいるワンルームマンション迄来てしまった。
取り敢えず、いないかもなと思いながら部屋のインターホンを鳴らすとすぐ苺さんが出てきた。だが、充血した目ややや赤くなった鼻が泣いていた事を報せてくる。
「…………どうぞ?」
他人行儀な苺さんに冬の風が吹き抜けた気持ちを味わった。
―うん、司がどうであれ七歌は一発殴る。
胸の内で決めるが俺が部屋の奥に入っても苺さんは立ったままだった。
「あの子……司さんって言ったわね? あの子はいいの?」
俯いて呟いた苺さんは暗い目をしていた。滅多に見ない闇墜ちの苺さんに思わず“苺さん、俺を信じるんだ”と言いたくなったが|いくらなんでもそれはない《空気を読んで》。
まず、しっかり話し合わなくては。俺は床に座り苺さんも座らせると真っ直ぐ目を見て言った。
「苺さん。信じられないだろうけど司は男なんだよ……だったんだよ。」
「……だった?」
「そう。不思議で奇妙で有り得ない話しだけど本当の話しなんだ。」
俺は司が帰ってきてからの事を話した。話しながら“嘘臭い”わ、“妄想っぽい”わ。自分でも今までの事が夢にも思えてきた。聞いている苺さんもだんだん呆れたような心配なような最後には可哀想なモノを見る目になって複雑そうにため息を吐いた。
「や、本当の事なんだ。……本当の事なんだよな? …………本当、だったはず……。」
そんな苺さんの目に俺も自信がなくなってくる。脳裏に司の姿を思い浮かべた。
昔、小学生の男の司。
今、高校生ぐらいの女の司。
全然違う姿なのに両方、俺の知っている司だと断言できる。
「間違いなく本当の事なんだ。信じられないだろうけど司は俺がずっと探していた従弟なんだ。」
言い切った俺をじっと見ていた苺さんはまた大きな息を吐いた。
「正直、信じられない。……けど嘘ならもっと有り得そうな嘘をつくと思う。」
頭を抱えるような項垂れ方に申し訳ない気持ちが沸き上がる。苺さんはそのまま床を転がり始めた。あー、とか、うー、とか、唸っていたがピタリと止まると上目使いで
「…………うん。まあ、来てくれたって事は私を選んだって事なのかしら……?」
「司が追いかけた方がいいって言ったんだ。」
苺さんは暫く固まっていた。
俺はつい口から出ていった“言わなくてもいい事”に顔色をかえる。
「……なぁ、おぉ、きぃ~!?」
床の上で寝転がった苺さんは低く響く声を出して睨んできた。
「苺さん……違う……違うんだ…………。」
「馬鹿直樹! 信じらんないっ。ここでそんな事、普通言う? 言われたから来た? バカにしてんのっ? ふざけてんじゃないわよーっ!」
やってしまった。俺は思わず天井を見上げ。
飛び上がった苺さんは俺に殴りかかるように腕を振り上げた。
「もちろん、司が言わなくても、司が行かないでくれと頼んできても苺さんに会いに来たさ。」
俺は苺さんの腕を掴んで落ち着かせるように言って隙をみつけて抱き締める。苺さんは暴れながら
「なんて、嘘臭い!」
「嘘じゃない。俺、苺さんに嘘をついた事ないだろう?」
「いっぱいあるわよ!」
「それこそ嘘だろう? 俺は苺さんを騙した事は無い。」
最初こそ暴れていた苺さんだけど必死に説得していると落ち着いてきたのか動きを止めて
「いいわ。じゃあやり直し。…………私を選んでくれた、のよね?」
「……司と苺さんじゃ比べ物にならないな。」
苺さんの問いかけに俺が答えると胸を叩かれた。どうやら答え方が気に入らなかったらしい。
「苺さんは俺の彼女で司は従弟です。」
今度は強く叩かれた。
「……俺は苺さんが好きです。」
暫く間が空いた。やがて軽くため息をついて苺さんが頷き
「おまけして合格にしてあげる。…………好きよ、直樹。愛してる。」
珍しく好きとか愛しているなんか言う苺さんは俯いて顔を隠したまま抱き締めてきた。
俺も強く抱き締め返して。
今の司が泣きながら怒っているのを想像してしまった。
何故だろう?
そして抱き締めている苺さんはなんで泣いているんだろう。
俺は大事な何かを間違えたような気持ち悪さの中、ただ“離れたくない”とだけ思っていた。




