戸惑いと裏切りと14
久しぶりに司の元を離れて世界を跨いで大学に来た俺は、大学の教授室で資料を纏めている苺さんを見つける事が出来た。
今、苺さんがしているのは、司の世界で成長を続けている新種の稲の様子を数値化して、現存している品種の稲との比較をしながら、最適な成長方法を既存の品種から学ぶ、という大事だが面倒な仕事だ。
司の世界での稲作は、潮を撒かれて荒野になった土地に作られていて、そこでは大震災後から研究されていた塩害に強い稲を植えている。この試験的に育てられている稲の結果しだいで日本の海辺での稲作の作付けが変わると言っても過言ではない、この重要で意味のある実験は、俺と苺さんの大学卒業の為に書かれる論文のテーマとなっていて教授も興味津々と過去のデータを見ていた。その結果、大学で一番資料の揃っている教授の部屋を使わせてもらえるようになった、と聞いて来たのだ。
苺さんは短く刈られたヘビーショートの髪型が似合う背の高いスレンダーで中性的な女性だが、今日は珍しく薄い青色のサマーカーディガンと膝下くらいのスカートでパソコン端末に向かい合っている。そんな姿だと何時もは男と見間違えられる苺さんが、生粋のお嬢様みたいに見えるから不思議な気持ちで見てしまう。
一心不乱にキーボードを叩いている苺さんが、一息つくまで待つ事にした俺は、チラリと教授の部屋で共に作業している男性陣が向けてきた視線に一瞬だけだが怯んだ。
教授のサークルの一員として、3年ちょっとの付き合いがある筈の彼らから酷く攻撃的な視線を向けられ、奥の一際、立派な机に肘をついて顎を乗せている教授は面白そうに眼鏡越しの視線を向けてくる。いつもは騒がしいとは言えないまでも、静かとも言えない程度にはザワついているのに、水を打ったようにシーンと静まり返っていた。
カタカタと苺さんが打ち込む音だけが響く中、最近になって鈍感な事を自覚した俺であっても流石に苺さんに話し掛けるのが憚られ、どうしようかと立ち竦む。
「……三郷野くん。」
他人の修羅場は蜜の味。
そんな顔の教授が笑いすら感じられる声で苺さんに呼び掛けた。
「……。……。……ハァ。」
それでも苺さんは、カタカタと打ってはいたが、徐々に打ち込みが遅くなり、最後には深くため息。
「直樹は、ほんっとーに。……タイミングを読まないと言うか……ハァァァ……。」
打ち込んでいたパソコンの画面から目をずらした苺さんは、スッと立ち上がり、ツカツカと俺の前まで来ると。
「言いたいことは有るけど、まずは直樹の言葉を聞きたいわ。」
いつもの様に気の強さを前面に出す苺さんの態度に
「あー、ここじゃなんだから、ちょっと向こうに行かないか?」
人目を気にした俺が言うと、苺さんの顔が驚愕の表情に変わる。目を丸くした苺さんは、
「……ウソ……直樹が……空気を読んだ……?」
ザワ……ザワ……とさざ波が鳴るような静かなざわめきが室内に広がった。
ちょっと待て。……俺ってそこまでかよ!
……そこまでだったんだろうな……。
「和やかな新歓パーティーで姉御に怒鳴った挙げ句、公衆の面前で引き摺り連れ出そうとした、あの直樹が……。」
「講師や職員、学生が利用する学食で“君が赦してくれるまで謝るのを止めない”つうて戸惑う三郷野さんに土下座し続けたアイツが……。」
「彼女がいるにも関わらず言い寄ってくる女の子を拒ずミサトちゃんに“大丈夫、俺ハーレム願望無いから”ってふざけた返しをしていたアヤツが!」
「鈍感で無神経。無礼にして無調法。一緒にいるとストレスで胃液が逆流する事から、鈍無三と二つ名が付いた、あの直樹が!」
囁かれる「己が所業」に、俺は血の気が引く思いだったが、苺さんは若干顔を赤らめる程度で持ちこたえた。
「あの。……その……なんて言ったらいいか……その……。」
今さらだが。ようやく自覚した自分の酷さに他の言葉が思い付かず
「……苺さん。……なんか……ごめん。」
おい、マジか。アイツが謝ったぞ。そんな言葉が流れる中、俺の言葉に苺さんは、綺麗な笑顔を返してくれた。
「直樹?」
俺よりやや背が低いだけの苺さんは、抱きつくみたいに両手を伸ばして、
「今さらおっそいのよ、バカァーっ!」
思い切り良く俺の頬をつまみ上げる。ギリギリと音がしそうな絞り具合に悲鳴の代わりに声無き声を出す俺。
伸びない! 俺の頬はそこまで伸びないからぁ!
流石にこれを力づくで払うのは違うと思ったから我慢していたが、苺さんが満足するまで数分、自分の感覚では数時間。ギリギリ引っ張られた頬が数ミリ広がった気すらしていた俺を、鬱憤が晴れた満足感に清々しい笑顔となった苺さんが
「それで? 話が有るのよね?」
問い掛けてくる。
「……ああ。だからちょっと向こうに行かないか?」
言いづらい事だし、他人に聞かせる様な事でも無いから、やはり人気の無い所で話をしたくて言うと、苺さんは軽く「そうね」と呟き
「教授、続きは戻って来てからしますから。」
生暖かい目をした小太りの教授は、夏の強い日差しが射し込む部屋の中で反射光に眼鏡を光らせながら机に両ひじをついた状態で
「……ああ……。」
とだけ返す。孫のいる教授は、アニメ好きな孫に教えられたアニメにハマり機会があれば印象的な場面の真似をしたがる。そんな悦に浸る教授がいる部屋から出て、人気の無い休憩所にまで数分歩いたが、なんの気負いもなく歩く苺さんは何時もと違うブラウスと長いスカートという姿も相まって、社長令嬢らしい雰囲気を醸し出している。今こうして考えると良く俺の様なヤツと付き合っていたよな、と思ってしまった。
「さ、直樹。私と話したいことがあるんでしょう?」
通う生徒が1000人を越えていた頃に作られた三つ目の休憩所は、少子高齢化の今では自販機も無く照明もまばらで薄暗いデッドスペースでしかない。座るための木製のベンチすら使うことをためらう程度には年季が入っていている。
そんな場所だから、苺さんが明るい声で俺に問いかけてきた時も周りに誰もいないのは当たり前な事。そして、こんな場所で語られる事はだいたい……。
「久しぶりだよね、直樹。ずっと司さんの所にいたのかしら?」
苺さんは、この大学で唯一司がいる世界に入っている。司のいる世界では、大学で研究していた稲を試験的に植えて育てていて苺さんが、その状況をデータ化していた。俺は司がいる世界で稲作の様子を確認してデータを苺さんに渡す役割をしていたのだが、考えてみれば司が帰ってきてから大学に行ったのは数回だけで苺さんに会うのもずいぶん久しぶりだ。
「……一応、向こうの様子をある程度データ化しておいた。」
メモリーカードを入れた入れ物を渡すと苺さんがクスクス笑う。
「これくらいの事ならメールしてくれればいいのに。」
ヒョイと軽くカードをつまんだ苺さんは、
「直樹?」
やや強い口調で叱るような顔になる。
「直樹と初めて会ったあのパーティーで、司さんと見間違えたのが始まりだったのよね。次に会ったのは学食で、皆見ている前で土下座してくるものから、あれから“姉御”とか“雪の女王”とか言われる様になったのよ?」
懐かしい……とは思えない隠して忘れたい過去を苦笑いを浮かべながら
「お詫びとして連れていかれたレストランは、とても普段着で行けるような場所じゃなくて恥ずかしかったな……夜中にいきなり来て家族と喧嘩して家を飛び出してきたって語られた時はどうしようかと思ったわ。」
次々に言われた俺は、謝る事すら出来ずに無言で受け止めるしか出来なくて、
「そのまま住み着いて、いつの間にかそんな関係になっていて、けど私も直樹しかいないかなって思う様になっていて。……友達の愛梨にはクズ男をクズ男として見ないダメ女って言われたわ。」
実は、愛梨という苺さんの一番親しい友人には直接、しかも目の前で「苺ちゃんを幸せに出来ないなら、さっさと別れて。長くなればなるほど苺ちゃんは辛くなる」と言われていた。言われた時は、苺さんを幸せにするのは俺の義務だと思っていたから、気にもしていなかったのだが、俺の「幸せ」の方向は苺さんの望む「幸せ」では無かった……いや、俺の考えた「幸せ」は押し付けの「幸せと思える願望」でしかなく、苺さんはそれを我慢してきたのだろう。
「こうして考えると私って直樹と、どうして付き合っていたのかしらね?」
不思議そうに首を傾げる苺さんは、
「直樹は、家族と距離を置いていた私を大事にしてくれていたわね? 私が寂しい時には隣に居てくれて、泣きたい時は黙って背中を貸してくれて……。」
思い返すように今までの出来事を語る姿は、凄く綺麗で……哀しそうに見える。
「生活費を入れるからってバイトを掛け持ちして身体をこわした事もあったわね。私がストーカーされてるって聞いたら、すぐに駆けつけて、あっと言う間に解決してくれたしね。あれ、本当に気持ち悪くて怖かったから助かっていたのよ? ちょっと恥ずかしくて“ありがとう”って言えなかったけど……。」
この休憩所は、薄暗くてややうつむき加減になった苺さんの顔は良く見えない。
「お父さんやお母さんと縁を切るって話した時に、切ってしまえば結ぶのは難しいからって自分の事を棚の上に上げて言ったのは笑ったわ。……けど、今は縁を切らなくて良かったって思っているの……感謝しているわ。」
ああ……いくら俺が鈍くても、これは分かる。苺さんは。
「私って意地っ張りだから、言いたくても言えなかったの。だから今言うわね……直樹、ありがとう。直樹がいてくれたから出来た事ってたくさんあるわ。直樹が止めてくれたから、最悪にならなかった事もね。」
敢えて自分から言う事で、そんな雰囲気を作っている。たぶん、俺が言いやすい様に。
「直樹? 鈍感で無神経な直樹が人目を避けてこんな場所まで連れてきたのよ? 誰だって気がつくわ……教授も、みんなも。」
言外に“時場所を選べ”と言われて、俺は急ぎ過ぎた事に今更気づいた。考えてみれば、人目を避けて連れてくるより、大学からの帰りに苺さんだけに言うべき事じゃなかったか……?
「直樹は……二本柳、くんは一つの事しか考えられないんだから。」
寂しげな顔の苺さんは、ふふ、と微笑み
「さ、私と話したいことがあるんでしょう?」
俺は、どんな顔をしていたんだろう。微笑みながらも強い意思を感じさせる目はまっすぐ俺に向けられていて、逸らすことすら出来ない。その苺さんに……三郷野さんにどんな顔をして
「俺と別れてくれ。」
言ったのだろう。
「ええ。今まで、ありがとう……二本柳くんのおかげで楽しい夢が見れたわ。……司さんと仲良くね……。……さよなら。」
「俺こそ、ありがとう。その……ごめん……。」
俺の言葉に三郷野さんがクスリと笑い、背を向けた。先程言った通り、教授の元に戻り入力の続きをするのだろうか。まっすぐ休憩所を抜けていく三郷野さんを見送った俺は、姿が見えなくなると
「クソッタレッ!」
ガツン。
壁を殴る。三郷野さんは「俺に振られた」と言うかもしれない。確かに言葉だけをみれば俺が「振った」と言えるかもしれないが実際は「俺が振らせてもらった」だ。たぶん、俺はこうされなければ別れる事は出来なかった。三郷野さんとは、将来の約束もしていたし、そのつもりでいたから一方的に約束を破る様な事は出来なかった気がする。だから、そんな俺を知っている三郷野さんが「覚悟は出来ているから気にしないで」と道筋を作ってくれてくれた……。
「情けなさ過ぎるって俺。」




