悪夢の終わりと破滅の始まり42
え? あれ? 何言ってんだ、この子。
俺は危ない雰囲気の司が女の子を捻り潰そうとしたのを止めて、対話をしようとしていた。
すでに亡くなって数年は経つ筈の女の子は、俺達と会話が出来る“人ではない何か”になっていたが、本質は見えている幼い姿に相応しい好奇心に満ちた女の子のようで、俺達を混乱に陥れる言葉を何度も発した。
だが、俺と司が喧嘩をしていると思い込んだ女の子は自分の父親と母親の喧嘩の様子や姉と彼氏の仲直りの仕方を教えて、俺にもそうやって司と仲直りしなさい、と言ってきたのだった。
抱きしめ合えば仲直り出来ると言ってきた女の子と期待している司に狼狽えて何も出来ない俺。それに我慢出来なくなった女の子は「仲良くしないと痛いんだから」と俺を攻撃しようとした。したのだが流石は“聖女”の称号をもつ司であって、女の子からの攻撃を無効化すると、それだけに終らず聖なる神力を使いながらも禍禍しい雰囲気で女の子をギュッとしめようとして。俺は慌てて庇ってくれている司を背後から抱きしめて止めると仲直りアピールをしたのだが。
初めは抱きしめ合うだけのアピールは、何故か頬にだが、キスをする話しになっており。
え? あれ? 何言ってんだ、この子。
になった俺は司を抱きしめたまま、固まっている訳だ。
ひきつる頬と背筋を流れるイヤな汗。
ただただ、ジッと見ている女の子。
俺の腕の中で「ひゃーっ!」と奇声をあげていた司は、脱力したように俺に寄りかかって黙っている。
ジィッ。
ジィィッ。
ジィィィッ。
言葉にならない幼い女の子の責めは心を抉るって事を初めて知った俺だが、だからと言って根負けして“ちゅー”は出来るはずがない。俺には大学に入ってから付き合いだした苺さんがいるのだから。ここで苺さんに何も言わないでキスをするのは司に悪い。
……と。
司を抱きしめている腕に細くて艶やかな指が絡まり。
「お兄ちゃん。僕、今から覚えないから。」
司は身をよじって顔を俺に向けると目を閉じた。
微かに突き出しているように見える唇は、羞恥の為か頬と同じく赤く染まっていて、待っているようにしか見えない。尚且つ、司は忘れる、ではなく覚えない、と言った。
何をしても何をしたのか分からなければ何も言えないよ、と宣言して苺さんに言わないと免罪符を渡してきた司。
そんな柔らかい司の躯を抱きしめたままの俺。仄かな体温と微かに薫る春の花のような匂い。落ち着く司の抱き心地に頭の動きが悪くなっていくのを感じながら、“途方もない安堵感”に包まれた俺と顔を向けたまま身じろぎしない司。それを、まばたき一つしないで見つめる女の子。亡くなっているはずなのに目が輝いて見えるのは不思議な話だ。
現実逃避気味な俺は、しかし、抱きしめた司を放す事は出来ず。
かつて典型的な小学生男子だった司は、いなくなってから五年たち綺麗で可愛い女の子として帰って来て、俺が親戚の従弟だと思い込もうとしているにも関わらず、女の子の扱いを求めてきている。
腕の中の司を強く抱きしめると、小さく「ンンッ」と呻くような艶かしい声をあげた。体勢的に苦しい所に強く抱きしめられたからか、司の顔が辛そうになって……それが扇情的に見える。
今まで、突き出したようにして閉ざされていた唇が開かれた。司からの吐息が俺の顔に当たり少しくすぐったいのだが、司は息を止めて俺を待っていたらしい。良く聞かなくては分からない程小さな呼吸音。その小さな口が誘って見えて。
いっそのこと俺が司の呼吸を止めてしまえば……!
お兄ちゃん、仲良くしないの?
動きを止めた俺に焦れた様子で言った女の子のそんな一言が、“苺さん”と“裏切り”と“肯定”の三つの想いが交ざりオーバーフローを起こしていた俺の頭を再起動させるきっかけになった。
そして再起動した俺の頭は、恐ろしくも当たり前に思える回答をだした。
ー司は女だ。
今更に思えるがずっと従弟と、弟のような存在と思っていたのだ。
思おうとしていたのだけど。
俺は司を女として見てしまった。
気づいていたのに気づかないふりをしていたのに。
気づいてしまった。
だから。
俺は俺の全力をもってして、司の唇をふさごうとした俺に逆らった。
俺の彼女は苺さんだから今、司に何かするのは裏切りでしかない。
司の形の良い唇まで届きそうだった俺のそれを意識して別な場所に移す。昔、ハンバーガー屋で小学生の司にしそうになって、頭突きに変えた、その場所に軽くは無い親愛の口づけ。
「むうーっ!」
寸前で変えられた事が不満なのか、抗議の唸り声をあげた司だったが、俺が抱きしめたまま離さないでいると「ウヘヘヘ」と気味の悪い笑い声を小さくあげていた。こういう所が司の“残念な所”なのだが、それすら司の魅力に思えてしまう俺は。
いつ罹患したのか分からないが、治療不可能な末期なんだろう。それは自覚してはいけなかった、自覚だった。
「ほら、仲良し。」
不気味な笑い声をあげている司を、抱きしめながら女の子に言った。抱きしめたままなのは、司の手が俺の腕に絡んで離れない事もあるが、俺が離したくないから。
無表情に近かった女の子は俺達の様子を見て、ニコニコと笑顔になり、
良かったね!
もう、ケンカしちゃダメなんだよ?
あたしみたいに会えなくなっちゃうんだから!
笑顔が陰った。しかし女の子は俺達に気を使うように努めて笑顔で。無理をしているのが分かる女の子に不気味に笑う司の声が止まった。
会えなくなっちゃうとお手てつなげないの。
会えなくなっちゃうとお話出来ないの
会えなくなっちゃうと謝れないの。
お兄ちゃんはケンカしちゃダメなんだよ?
けどね、ケンカしちゃったらすぐに「ごめんなさい」するの!
パパが謝るとママも「今回だけよ」って許すの。
だけどね、ママ、パパが謝るといっつも「今回だけよ」って許すの!
だから、お姉ちゃんもハンスを「今回だけ」って許すの!
だからだから、ちっちゃいお姉ちゃんも「今回だけよ」って許してくれるわ!
自分より小さな女の子に“ちっちゃいお姉ちゃん”と呼ばれた司は複雑だろうが、170ちょっとの俺より頭一つ低い背丈では……まあ、大きいとは言えないだろうな……。ただ、女の子の言葉は、幼い姿に似合わず、けど短かったろう人生を詰め込んだ蘊蓄で。どや顔を見せてくれた女の子に、その説得力に返す言葉がなく。
お兄ちゃんは、あたしみたいになっちゃダメだよ?
女の子がどんな気持ちで言ったのかは分からないが、泣くのを我慢して笑う女の子に、俺は違う、と叫ぶところだった。
違う、君は耳を塞いでしまったから。
だから、聞こえないだけだ。枝を揺らす風の声が、君を呼んでいるのに。……微かに聞こえる地から湧くような声を聞きたくない気持ちは分かるけど。だけど、聞いていれば分かったはず。君を呼ぶ家族の声。
自虐している女の子を、もう堪えきれないとばかりに怖いものが大嫌いな司が俺の腕を振りほどき駆け寄って、首の無い体を抱きしめた。
「違う! そうじゃない!」
固く女の子の体を抱きしめ、
「君は何も悪くない。だから自分をそんな風に言っちゃダメなんだ。」
女の子は驚いたのか身動き一つしないまま司に抱かれている。司が勢いよく抱きしめたせいで女の子が持っていた自分の頭が地面に転がり、女の子が涙目になっているのはしまらないが。
俺は女の子の頭を痛くないように慎重に首の下を持つようにしながら目の前に上げて目線をあわせた。
「君の家族……お父さんやお母さん、お姉さんは君の事を待っているよ。さあ、一緒に帰ろう?」
自分で耳を塞いで持たなくてもよくなれば、聞こえてくるだろ?
帰っておいで。パパは待っているからね。
帰って来なさい。ママ怒るわよ?
もう。戻ってきなさい。お姉ちゃん、怒ってないから。
女の子と会ってから小さく細く聞こえていた声は、ようやく女の子が気づいたからか、大きくなっていき、木々が震える程強くなった。そんな声の中、不思議な事に女の子の戸惑う声は聞こえて
あたし、いっぱい悪いこと、したよ?
パパもママもお姉ちゃんも怒ってないの?
俺も堪えきれずに女の子の片手を握った。
「大丈夫。俺も一緒に怒られてあげる。」
不思議そうな顔を向けた女の子に、俺は笑って言った。
パパもママもお姉ちゃんもに怒ると怖いんだよ?
「大丈夫。ちっちゃいお姉ちゃんに任せて。」
司が、女の子の反対側の手をとり。
ママの「怒るわよ」はパパも恐がるんだよ?
「大丈夫。俺にまかせとけ。」
片手で胸に掲げた女の子に頷いて見せ、横目で司に合図する。
お姉ちゃんのお説教は長いの。
「僕が、ちゃんと説明してあげる。」
俺と司は女の子の手を繋ぎゆっくりと歩き出す。
パパは優しいの! けど、怒ると怖いの。
手を繋がれた女の子は俺達に引かれ前に進んだ。
「君に会ったら喜ぶよ。」
喜ぶの?
女の子はまだ確信出来ないのか、自信無げな風に言う。そんな不安な顔をしなくても良いのに。
「俺が君のパパなら飛び上がって喜ぶよ。」
ピョンピョンって喜ぶの?
パパは熊みたいにおっいんだよ?
「じゃあ、ぐらぐら揺れちゃうかもね。」
俺が飛び上がって喜ぶと言い、女の子がびっくりした顔で答え、司がクスクス笑ってからかう。
ぐらぐらしちゃうんだ。
女の子も司に吊られてかクスクス笑って。
「さ、帰ろう? みんな待っているよ?」
司が優しく言うと、女の子はキュッと掴んだ手を強く握り素直な返事を返してくれた。
よっぽど嬉しいのか、時々、ピョンピョンって言いながら跳ねて笑って。エヘヘって明るい声が漏れて。だけど、そんな女の子は胴体に首が無くて、俺が腕に乗せて歩いている。
理不尽だと思った。親と姉に会える、家に帰れるって明るい声の女の子は何年も独りで廃墟の中にいて。日向で遊ぶのが似合う年頃なのに、ずっと耐えてきた、その結果が理不尽だと心の奥底から思った。
「君の名前を聞いていいかな?」
ふと、口から出た言葉。何とはなしに出た言葉に女の子は
えー?
お兄ちゃん、ちっちゃいお姉ちゃんがいるのにあたしの名前を聞くの?
体をくねくねさせて言った。いや、からかっているのは分かる。俺にも分かるくらいなのに、司から飛んできた鋭い視線。
もー。
しかたないなー。あたしの名前はね?
「……お兄ちゃん、あれ。」
いつの間にか、あの廃屋まで戻って来ていた俺達……いや、女の子を迎えるために3体の人影が廃屋の入り口に立っていた。
女の子は人影を認めると、握っていた手を離してタタッと走りだしたが、頭は俺が持っている。困ったように振り返る女の子の首の上、本来在るべき場所に頭を戻すと、女の子は光りだした。そして廃屋の奥から暖かい輝きが生まれ、腐敗こそしてなかったが傷だらけだった彼らを、たぶん生前の姿に戻した。
ボロボロの寝間着しか着てなかった女の子は可愛い服に着替えていて、今度こそ駆けていく。途中で一回だけ振り向き小さな手を大きく振って
お兄ちゃん、ありがとう!
あたしの名前ね、エリーって言うの。
忘れちゃダメだよ?
女の子が家族の元へ駆け寄ると、父親が腕を大きく伸ばして女の子を抱きしめ、俺達に頭を下げた。
今度は一緒に行こう
声は聞こえなかったが、そう言ったのが分かった。
母親も、俺達に深々と頭を下げた後、女の子をあやすようにしながら光の奥へ向かい父親と並んで歩きだした。
その後ろを歩いていた姉は、壮年の男がいるのを見て走りより抱きついていた。もしかして、あれがハンスなんだろうか? どう見ても一回り年が違うようにしか見えない。話を聞く限りは男より姉の方が積極的みたいだが。
ハンスは父親に謝っているようだが、父親は手をひらひらさせて男を姉に押出して。
そして二つの家族は光へ消えて行く。
その家族を追いかけるように、廃墟となった街から人影が集まり光へ向かって歩き出した。先に消えていった家族を悔しそうに見ていた男の子も、守りきれなかった街を悲しそうに見ていた兵士も、自分の足で歩いて光へ消えていった。
最後に残ったのは、やたらと豪奢な服を着た、明らかに偉いと分かる男だった。男は良くやった、と頷き自分の指から指輪を抜き、俺に放って
ー褒美だ
そう聞こえた。そして、その男が光へ消えてゆくと光は徐々に小さく弱くなっていき、何も残さずに消えてしまった。
俺は手にまだ残る、女の子の小さな手の感触に目が潤むのを、歯を喰い縛り堪える。
「お兄ちゃん。」
司はポロポロ涙をこぼして顔を擦り付けて
「司。司はこの街に何があったか知っているな?」
優しく司の頭を撫でて問いかけると、ピクッと反応がある。知っているのかは半々位で自信はなかったのだけど、俺のカマかけに司は引っかかった。
「細かい事はいい。これをやったのは、誰だ。」
迷うような間があり
「ポートプルー伯爵とその配下の男爵。」
やがて諦めたような深いため息をついて、教えてくれた。
そうか、ここでもその名前が出てくるのか。
「そいつは司の自称婚約者だったな。」
俺の言葉に、司がビクッと震え驚愕の顔を向け
「お兄ちゃん、何でそれを……。」
司は知られたくなかったろうが、知らないままだと多分、取り返しのつかない間違いを犯していた。
エリナさん達に感謝しないと。
「ポートプルー伯爵、か。……そいつは敵だな。」
小さな手に誓って俺は司を。




