悪夢の終わりと破滅の始まり40
ううっ。
冷たくないけど、なんか温くて気持ち悪い。
司が指で示した泥沼の中、正座をした俺。
泣いていた女の子を庇い、説教をしている司。
よっぽど変に見えたんだろう、泣いていた女の子は不思議そうな顔で、うずくまったまま俺達を見ている。
女の子の小さな頭は眉間の辺りまで裂けていて、真っ白な断層からは柔らかい物が、こぼれ落ちそうに震えていたが、その目は今まで泣いていたのが分かる潤んだ瞳ではあるけど、驚いた時の大きく開かれた瞳でもあって、何をしているんだろう、と好奇心に満ちた目でもあった。
……まあ、泣いて何も聞いてもらえないよりはいいのか? いいよな、子供の興味をひけたんだからいいことだよな……。
腰まで埋りながら説教されている俺を見ていた女の子は、そんな俺を憐れに思ったらしく、クイッと司の上着を引いた。朗々と言葉を紡いでいた司は、不意に引かれてツイッと視線を動かし、女の子を見て視線を戻して。
「んん?」
怪訝な顔に。
難解な疑問を考えついた顔で。
「ん~?」
唸る。
そして、よせばいいのに又、女の子を見て。
「……。」
一拍。
二拍。
三拍。
「ぴゃーっ!」
絶叫した。
肩までの髪の毛が逆立つ、ようにすら見えた司の絶叫。
悲鳴なんて、かわいい声じゃない。静寂に轟く雷鳴の如くってヤツだ。司の声に驚いたんだろう、女の子はポロリと手にもつモノを落として尻もちをついて……泥沼に沈まずに浮かんだまま。器用すぎる……司を仰ぎ見る。
「ひゃーっ! ぴゃーっ! ぴゃーっ! ぴゃーっ!」
バッタが跳ねるみたいな動きでしがみついてきた司は、正座していた俺を力強く抱き締めながら、言葉にならない鳴き声で何かを訴えてきている。しかし、俺の首は司に抱き締められている。
ギリギリ締められミシミシ音が……司の背中を叩いて正気を取り戻させようにも、恐慌状態では効果が薄く。声で注意するには締められた首をなんとかしなくてはならなくて。
司と顔の間に腕を突っ込んで隙間を作れたのは、やや経ってからだった。
「司っ。いい加減に……。」
「ひゃあぁっ! お兄ちゃんのばかーっ!」
やっと息をついて司に文句をつけようとした俺だったが、司は絶叫! 半分頭を割られた女の子を見たより大きな絶叫。絶叫のまま俺を一撃して、顔に喰らった俺は泥沼に沈む。
司……俺の事を忘れないでね……
ぶくぶくぶく。
幸い俺が溺死する前に我に返った司が、引き揚げてくれたようで短い気絶から目を覚ますと、泥だらけの司が半泣きで傍に座っていた。
「……お兄ちゃん、が。……悪いんだよ?」
俺が目を開けると司はホッとした顔をした後、泥と涙の跡で縞模様の顔で頬を膨らまし言うと
「……けど……やっぱり……ゴメン。」
目を逸らして小さな声で言った。そんな司の態度に、思わず笑みが零れ泥で汚れた司の頭を撫でてしまう。泥沼に沈んだ俺を慌てて引き揚げたのだろう。汚れた司の髪はボソボソして撫で心地は悪かったが、「お兄ちゃん?」なんて上目遣いですねる顔は眼福物だった。だから、司が呟いた
「つい本気で殴っちゃいて顔半分無くなっていたのは内緒にしとかなきゃ。」
木々を渡る風の音より小さな声での一言は聞こえていなかった事にしよう。
背筋を冷たい物が走っているのを無視して、回りを見ると今、俺がいるのは泥沼から少し離れた土の上だった。あの女の子は相変わらず泥沼の真ん中らへんで、しかし泣いてはいないでジッと俺達を見ている。頭を両手で抱え頭の無い首から赤い液体を滲み出しながら。
俺が小学高学年の頃、入学したばかりの司もそうだった。司も良くあんな顔をしていた。仲間に入りたいけど、どうしたらいいのか悩んでいる、ほっとけば仲間に入るのを諦めてしまう。……そんな顔で俺達を見ていた。だから、俺は昔、司にしたように“おいでおいで”をしてみる。
やっぱり間違い無かった。俺が呼ぶと女の子はニパッと笑い近づいてきた。首から上が無い女の子が無邪気に笑う自分の頭を両手で抱え浮かびながら駆け寄ってくる……正直、怖かった。俺は、それでも態度には出さなかったのだが、司は無理だったようでビクッと俺の陰に隠れようとする。司の、そんな行動を見た女の子は笑顔を消して立ちすくむ。
「司。」
「うっ。……だって……。」
「司。」
「うう~っ。」
「つ、か、さ。」
俺は女の子に笑いかけながら、司に呼びかけた。司も小学生にもならない女の子を邪険にしている自覚があって、俺の呼びかけに力なく反論しようとして、出来ずに唸って……。
「……。……。……。……うう~っ……。」
黙って司を待っていると悩んで悩んで悩んだ末って感じになり、
「うう~っ。……。……もう、分かったよ。もぉうぅ。」
根負けして地団駄踏む。
「もーっ! もぉーっ! もぉぉーっ! お兄ちゃんってば理不尽なんだからぁっ!」
確かに理不尽だよな。俺がした事で司は苦労しているのに。そもそも、司が使うキャラを聖職者で女性アバターに設定したのは俺だし。まあ、あの時は、まさかゲームの中のアバターが現実になるなんて考えもしなかったのだけど。普通、考えるわけ無いよな、うん。
司の現状は俺が作ったって言っても良いくらいなのに、気がついたら、司にばっかり損させている。理不尽って言われて当たり前だよな。
ごめん。司、本当にごめん。
そんな気持ちで頭を撫でると、司はプクッと河豚のように頬を膨らました。
「ずるい。ずるいよ? ずるいっ。お兄ちゃんはずるいっ!」
くちびるを尖らせてムーッとすねた顔。司がすねるのは珍しいはずなんだが、この短時間に何回もすねる司は可愛くて。
抱き締めたい。そして司の小さく整った柔らかそうなくちびるを……想いを伝えるために……。
…………………………!
今、俺は何を考えた?
何を思った?
何をしようとした?
疑問だけが先行して答えが出てこない。まるで、パソコンでプログラムを組んだ時にENDを入れ忘れて止まらなくなったように。その時と同じように俺も強制終了させなきゃならないのだろうか。
誰かに脳ミソごと強制終了してもらいたい俺の隣で司はコクッと一度喉をならして唾を呑みこみ深呼吸。そして
「ごめんね? 僕、怖いのが苦手でびっくりしただけだったんだよ。」
女の子に話かけ
「もう、大丈夫だから。……たぶん。」
震えているのを隠すように、俺にしがみついて
「少し僕達とお話ししよう? ね、こっちに来て。」
笑顔を作った。ホラーと聞けば逃げ出して帰ってこない司が、ホラー好きな俺ですら恐怖を感じる女の子に向かって、である。
女の子はひきつる司の言葉に、おそるおそる数歩分近づくとそこで立ち止まり、枯れ木のざわめきに似た声をあげる。
お兄ちゃん達はパパとママなの?
キョロ、キョロ。手に持つ頭を動かし、固まる俺と凍りつく司を見て、
パパとママは仲良くないとダメなんだよ?
どうやら、女の子は先程の司が俺に説教していたのを、司と俺が喧嘩していた、と思っていたらしい。だから、司を止めようとしてくれていたんだ。
あたしのパパはねぇ、町で一番の力持ちなんだよ?
あたしのママはね? 町で一番キレイさんなの。
けど、ママは怒ると怖いんだよ?
ママはパパに怒るときはパパを床に座らせて怒るの。
いつもは床に座ったらダメって怒るのにパパは座ってもいいんだよ?
けどね、パパはママの前に座って難しいお顔でママのお話しを聞いてるの。
あたしは座らなくていいや。
ママはパパにずっとずっとずぅっとお話しするの。
だからパパはママにごめんなさいするんだけどママはなかなか許してくれないの。
だからね。
パパはいつも困ってママにどうすれば許してくれるか聞くんだよ?
それでね、ママはこうすれば許してあげるって言うからパパはママの言うとおりにするの。
そしたらママの機嫌が良くなって、ごはんが豪華になるの。
だからね、お兄ちゃんもお姉ちゃんにどうすれば許してくれますかって聞いたらいいと思うの。
しかし、どう、良いこと教えてあげたでしょう? そんな顔でムフーと、どや顔する女の子に俺は何も返す事が出来ず固まり続け、怖いのが苦手な司は。
ジッと俺を見ていた。
その目は、女の子の言葉を良く聞きましたか? と問いかけるようで。
ジッとただ見ているだけなのに妙なプレッシャーが。
お兄ちゃん。お姉ちゃんを怒らせたんだからキチンとしないとダメでしょ?
幼女と言ってもいい女の子に正論で叱られる大学生の俺。ここ最近は俺って年ばかり取って全然成長していない子供だと指摘される事が多くて辛い……。
今は俺の脳内会議で、あの時司に何をしようとしたのか結論の出ない議論をしているから、考えるのがおっくうになって女の子の言葉の通りに
「司、何をすれば許してくれる?」
聞いてみた。
「じゃあ。」
司は俺の言葉に即座に
「……じゃあ、僕の……頭を撫でて欲しい、かな?」
恥ずかしそうに顔を赤らめて司が言った。
え? そんなんでいいの?
そう思ったのは俺だけじゃなく、
あたしのお姉ちゃんはねぇ、ギューッてしてもらってたの。
お姉ちゃんはモテるんだよ?
隣のパン屋のハンスも通り向こうの鍛冶屋の見習いのカッツも酒場の息子のライツもお姉ちゃんが好きなの。
けどね、お姉ちゃんが好きなのはハンスなの。
ハンスはね、おいしいパンをたくさんくれるのにライツの方がお金持ちだからダメって言うの。
お姉ちゃんはハンスにお金持ちだから好きになる訳じゃないって怒ったんだよ。
ハンスはお姉ちゃんに怒られて大事にするから許してくれって謝ったの。
そしたらお姉ちゃんがギューッてしたら許したげるって言ったの。
ハンスがギューッてしたらお姉ちゃんが泣き出して好きって言ったの。
だからお兄ちゃんもお姉ちゃんをギューッてするといいんだよ?
そしたらお姉ちゃんが好きって言うからお兄ちゃんも好きって言うの。
ムフー。
良い顔の女の子。
いや、ちょっと暴走してませんか?
赤い顔で固まる司。
いや、何か期待した顔をしないように。
俺はどうすれば良いんだ。
いや、司はもう言ったじゃないか。
「分かった、司。後で気がすむまで撫でてやるよ。」
ハハッと乾いた笑い声をあげ言うしか無かった。




