7話 戦慄のドナドナ
まず首を切り落とす。アゴ下のラインに沿ってナイフで切断、そこから血を抜く。剥製を作る場合は傷を付けないよう注意する場面だが、今回はそれを気遣う必要はないため大胆にザックリといく。
充分に血を抜いたら四肢を半分ほど切り落とし、肉と皮の間に刃を入れてセーターを脱がすように皮を剥いでいく。ウインチがあればもう少し楽に出来るらしいが、手元に無いため慣れた方法でやる。
切断した首から肛門部分までを切り開く。腹部の肉は比較的薄いため内臓を傷付けないよう浅めに刃を突き入れて腹を裂く。晒される内臓、特に胃腸、膀胱、性器を傷付けないよう注意を払いつつ中身を取り出す。レバーは美味しいので別個に取り分けておき、肉を部位ごとに切り分けて解体にかかる。
もも肉、ロース、ヒレ肉、らんいち肉、しんたま肉、ここまでくれば精肉店に並ぶ商品と変わりがなくなり、『仕留めた獲物』から『美味しいお肉』の姿に変わっていた。
解体に使うナイフはランボーが使うような大仰な代物は必要無い。むしろ細かく切り分けるのに邪魔になって使いにくい。間接の周りにある筋を切り、ねじれば簡単にその部分は外れる。僕が使うのは刃渡り十五㎝の肉厚のナイフ、これでも解体に慣れた人なら大仰と言う人がいるかもしれない。凄い人になるとポケットナイフ一本で鹿一頭解体してしまうとか聞いた覚えがある。
ただ、このラージエルク相手にポケットナイフ一本は解体の達人でも厳しいだろう。小柄なゾウサイズの獲物を相手に、大体の解体作業が終わったのは作業開始から二時間後だ。これでも充分短時間のはず。
「――ふうぅ……終わった」
粗方の解体を終えて一息吐くと、思いの外深く重いため息だったのに自身驚いた。狩りをしている時とは違う疲労感が知らない内に体にのしかかっていたようだ。家畜の屠殺解体をする畜産業者の苦労が少しは理解できそうだ。
今日で仕事は四日目、移動と休息に一日使ったので魔獣駆除そのものは三日目だ。ニスカリーでの狩りも手慣れてきて、小型魔獣の群れを幾つか、大型魔獣もこうしてラージエルクを中心に何頭か仕留めるのに成功している。このぐらい魔獣を減らせば集落への被害は相当に減り、当初の目標はある程度達成出来ているというのが僕の見積もりだ。
初仕事の首尾としては上出来ではなかろうか。もちろん全部終わって家に帰るまでは気は抜けないが。
ラージエルクの解体が終わって、後は解体時に残った部位の処分をすれば全工程完了だ。日本だったら狩った山に埋めて山の生き物へと還元するところだけど、魔獣の被害に悩むこの世界の集落でも同じ様にして大丈夫なのか考えてしまう。
ここまで一応は集落や登山道から離れた地点に穴を掘って廃棄しているが、他の魔獣を引き寄せないか気になる。小型の魔獣ならともかく、大型魔獣がこの土地に引き寄せられないか。その辺りが心配で少し上の空になっていたところで横から声がかかってきた。
「お疲れルナ。手洗ってきて、血塗れよ。コーヒー淹れたから休んだら?」
「ああ、ありがとう。そうする」
水鈴さんが両手にカップを持って現れた。カップの中身は発言からしてコーヒーなのだろうが、それが分からないくらい今の僕の鼻はバカになっていた。
解体スペースにした宿舎の裏手はラージエルクの血で血溜まりが出来、強烈な獣臭と血の匂いが漂っている。作業が終わったらすぐ傍にあるポンプから井戸水を使って洗い流してしまう予定だけど、終了直後なのでスプラッタな光景が広がっている。こんな光景の中、現れた銀髪の狐少女の姿は酷く場違いに見える。
仕留めた獲物は生命反応が無く、アイテム扱いなのかバッグに収納できるという有用な情報をオータムから聞き、こうして解体に適した宿舎まで獲物を持ち帰った訳だがここまで臭いと匂いが酷いなら血抜きだけでも山の中でやっておくべきだったかと反省している。
正直言うと血の匂いで少し酔いだしていて、キツイ酒の臭いを嗅ぎ続けるのに近い感覚が体を襲っていた。ラージエルク程の体格ともなると抜く血の量も相当で、たちこめる匂いはかなり濃い。早く洗い流さないと服や髪に染み付いてしまうだろう。
ポンプから出る水で手を洗い、使ったナイフも簡単に洗ってしまう。以前のカランビットやトレンチナイフと違って新しく買ったこのナイフは実に使いやすい。形状は日本でも買えるハンティングナイフそのもの。肉厚で丈夫、刃こぼれし難く、変に凝った機能などは一切無い。けどそういうシンプルなのがここ一番では信頼できると僕は思っている。今回は大切に使おう。いつぞや出会った殺人鬼の持っていたナイフに似ているけどそこは綺麗さっぱりと無視だ。
血を洗い落とし、水鈴さんからカップを受け取ると嗅覚がようやくまともに機能しだした。暖かな湯気と一緒にコーヒーの豊かな薫りが気分を和らげてくれる。季節はすでに夏本番だけど標高の高い山地では肌寒い時間帯もあり、日が落ちようとして冷え始めたこの時間に暖かい飲み物はありがたい。
舌に感じるコーヒーの苦味と酸味のバランスが心地よい。水鈴さんはお茶もコーヒーも淹れるのがとても上手い。料理全般含めて基本的なことしか出来ないと本人は言っていたがそれでも充分だろう。
手渡されたコーヒーの温かさ、薫り、味を感じる段階になって本格的に気持ちが落ち着いた。二度目に吐いた息は最初のよりも深く、力の抜けるものだった。
「そういえばマサヨシも一緒に解体していたはずよね。彼の分もコーヒー持ってきたのだけど、どこに行ったの?」
「マサヨシ君はあっちの茂みだ。今日の昼食を野山に散布している最中」
「あ、吐いたんだ」
「そう」
宿舎から少し離れた茂みの方向に耳を傾けてみると「うぇぇ……」などといううめき声、それと水音が聞こえる。もう大分吐いて胃液しか出てこないと推測されるが、濃厚な獣臭と血臭はまだまだ彼の嘔吐器官を刺激しているようだ。
一般的な日本人の多くはこういう屠殺解体の経験は無いのが普通だ。魚を三枚におろすのとは訳が違うし、血や臓物がダイレクトに感覚を刺激してくる。マサヨシ君も戦いを通して血や死臭には慣れただろうけど、死体を解体するのはまた別の話だったようだ。
皮を剥ぐところまでは頑張ってくれた彼だったけど、内臓を取り出す段階でギブアップ。あのとおり野山に養分を散布する装置になってしまった。
「情けないわね。おーいマサヨシ、一通り出したらこっちに来なさい。コーヒーあるから」
「あ、ありがと――うぇぇぇ……」
水鈴さんの呼びかけに応えてはいるものの、まだ気分が悪そうだ。これはこの場の後始末を早く済ませて臭いを元から消してしまった方が良いな。
美味しいコーヒーを飲みつつ、横目で水鈴さんの様子を窺ってみる。フィールドでも活動しやすい服に身を包んだ銀狐の少女。周囲が赤黒い血溜まりなだけに彼女の色合いは取り分け浮いて見える。その白面に出ている表情はいたって平静なもの。気分が悪そうな風に見えないし、我慢している風でもない。もっとも僕は他人を対して色々と察しが悪いので断言は出来ない。なので聞いてみるとする。
「水鈴さんは大丈夫? 血とか臓物とか」
「ん? ええ、この程度だったら全く。魚をさばく時と同じようなものでしょ。スプラッタ映画とかも平気だし。むしろマサヨシの方が繊細過ぎ。もう、折角淹れたのに冷めちゃうわ。飲んじゃえ」
マサヨシ君用に持って来ただろうコーヒーを飲みだす水鈴さん。彼女は繊細そうな見た目とは裏腹にかなり図太い神経を持っているところがあるようだ。反対に頑強そうに見えるマサヨシ君は繊細な部分が見られるようになってきた。
住居を一緒にして寝食も共にしていると、こういう人の側面を見る場面が多くなる。こんな経験を積み重ね、人との関係を深める事を『信頼』とかいうのだろうな。それが僕にとって良いか悪いかはまだ論じる段階ではない。結論が出るのはまだ先だ。
ルナ・ルクスの今後の人間関係はひとまず棚上げ。直近で考えるべき今後の予定は、この場の後始末、銃とナイフの手入れ、次の狩り場の選定、オータムとヴィルヘルミナとの獲物の取り分の相談、ざっと思い浮かべただけでもこれだけ出てくる。今日の狩りが終わってもやる事は多い。
コーヒー片手に今日の予定を組み立てていると、マサヨシ君のうめき声とは別の声が複数耳に入ってきた。方向は集落の中心、ここまで聞こえるくらいに騒がしく騒いでいる人の人数も多い。人の少ないニスカリーでこの騒ぎ、何かが起こったのは確実だ。
「何かな? 様子見てくる」
「僕も行こう」
様子を見に行こうと駆け出した水鈴さんに僕も追走する。二人してカップとマサヨシ君をその場に残してだ。何が起こっているのかこの目で確認しておきたい。
危険性は仕事に着く前から考えていた。脇の下に収まっている.44口径は集落に来てからずっと身近に置いている。走りながらグリップを軽く叩いて存在を確かめる。返ってくるラバーグリップの確かな手応えが頼もしい。
狭い集落であることと僕らの足が速いことで、騒ぎの現場には一分少々で到着した。集落の中心、ニスカリー唯一の雑貨店の前に人だかりが出来ていた。
集落全員が集まっているのか人だかりの密度はそれなりにあって、何を中心にして騒いでいるのかは見通せない。ただし、人垣の向こうから漂ってくる匂いはとても覚えがある。薄くはなっているけど、さっきまで鼻を刺激していたのと同じ血と臓物の匂いと臭いだ。
「――ブラントンさんところの奥さんだって?」
「ああ、バケモノが少なくなったから山鳥を狩りに行った時に見つけたんだそうだ――」
「――気の毒に、内臓喰われていたって」
「え、確かあの人ってお腹に子供が……」
「その子ごとって訳だろ。人食いのバケモノにしてみるとご馳走だろうな。察しろ」
「おい、不謹慎だろ――」
性能の良い耳が人垣の会話を拾い上げて、僕に何があったかを推測させるに足る情報を仕入れてきた。どうやらこの人垣の向こうはあまり愉快じゃない状況みたいだ。横にいる水鈴さんもそれら会話が聞こえていたようで、顔が強張りだしている。
何が起こったか確認するために来たのは良かったが、このまま野次馬根性で人垣に潜り込んで大丈夫なのか迷う雰囲気がここにはある。切羽詰まった状況ではないのなら、後から知っても問題ないのだけどその判断すらつかない。
どうしたものかと迷っている間に状況は動く。騒いでいた人の声が唐突に止み、人垣が割れた。こういう時によく出エジプト記のモーセが紅海を割った場面を引き合いに出されるが、紅海に例えるほど人垣は厚くないし、その向こうからやって来た人物もモーセに例える人物ではないだろう。
「ん? 君らも来ていたのか」
狩りの時よりは幾分か軽装のオータムが割れた人垣の向こうから出てきた。ライフルは無いけど腰に.45口径自動拳銃をいつでも抜ける位置に差している。人垣を構成している集落の人達の視線を全く気にする様子は無く、悠々と歩いて来てこちらに気付くと軽く手を挙げてきた。これは神経が太いのか、最初から視界に入れていないのかどちらかだろう。
「ええ、今来たところですので何があったのかは分かりませんけど。オータムさん、中では何が?」
「口でいちいち説明するより実際見てみたらどうだ。折角邪魔な壁が消えたんだ」
水鈴さんの問いかけに答えることなく、親指で自分の後ろを指し示すオータム。この言動を見るに人を視界に入れていない方が有力か。
ともあれ指し示された先、割れたまま戻る様子のない人垣の向こうに視界を移すと、地面に横たわる人影とそれを前に跪いている人影があった。そう離れている距離ではないので詳細はすぐにでも分かる。死体となった人物とそれを前にして悲しんでいる人物だ。
三十代くらいの男性が二十代ほどの女性の遺体を前にして跪き、肩を震わせて悲しんでいる様子が窺える。さっき聞こえた話も合わせて考えると夫婦なのだろう。そこまでは推測できるけれど詳細が知りたい。ちょうど良く近くに説明してくれそうな人間がいるし、尋ねるとしよう。
「オータム、人が死んでいるのは分かった。詳細は?」
「……一緒に仕事しているし、情報共有は必要か。そうだな――」
説明を求めてみると質実剛健そうな雰囲気に違わず、余計な感情や憶測を一切交えずに説明してくれた。
今女性の死体を前にしている三十代の男性はブラントンといい、この集落で羊を飼っている傍ら狩人としても生計を立てている人物だ。オータムが僕達よりも先にここで下見をした時に案内人を務めた人でもある。そして死体になっている女性の方が彼の妻で、先日この集落をレッドハインドベアが襲撃してきた際にさらわれていった被害者だという。
僕らが仕事を始めたことで魔獣がある程度減ったと見たブラントン氏は、まだ危険性の高い魔獣も残っているだろう山に入り、食料確保の山鳥狩りの傍らさらわれた妻を捜していた。どうも昨日からそんなことをしていたらしく、今日になってその妻の遺体を発見してここまで持ち帰ったのがおおよその経緯だ。
オータムに話を聞いている内に顔が渋いものになっていくのが自分でも分かる。もしレッドハインドベアの習性がクマそのままだとしたら、状況は非常に拙い。
僕の考えていることと一緒なのか、オータムの表情も曇っている。僕の視線に気付いたのか、すぐに苦笑いに似た表情を作ってみせたがぎこちない。
「君も分かるか。マズイよな、これは」
「ええ」
「え、何かマズイの? 私には悲しい出来事にしか見えないんだけど」
「運が悪ければより悲惨になる」
クマの習性に獲った獲物を埋めておくというものがある。他の動物に取られないようにするのと、後から食べるための保存食という意味があるようで、必ずしも埋める訳ではなく隠すための行動だと思われる。
そしてクマは獲った獲物に対する執着が強く、仮に隠した獲物が取られた場合怒ったクマが追跡してくるのだ。
昔の日本でもクマに襲われた被害者の遺体を発見、回収して簡単に葬儀をしたところ、その遺体を追いかけてクマが人家を襲ったという実話がある。今の状況もちょうどその話に似たようなシチュエーションになっている。レッドハインドベアが一般的なクマに比べて気性がどうなのか分からないせいで、不安要素ばかりが強くなっていく。
置かれた状況が今一つ分かっていなかった水鈴さんにこれを簡単に説明してみたところ、面白いくらいに顔色を変えてくれた。もちろん真っ青な方向に。
「マズイじゃないの!」
「ああ、かなりな。下手すれば……いや、赤熊だから下手をしなくてもこのままだったら集落がなくなる」
「無くなるの!?」
「考えてもみろ、5mサイズの大熊が所構わず暴れ回る。しかも魔獣は普通の獣よりも身体能力は上だ。家の中に篭もっていたって壁をぶち破って来るぞ」
「一度襲撃を受けてはいるんだよね?」
「ああ、だけど今回は獲物を獲られて怒っているだろうな。被害は前回より酷くなりそうだ」
「……」
聞けば聞くほど拙い状態だと理解してしまい、水鈴さんはとうとう黙り込んでしまった。
クマの形をした災害がやって来る。オータムが言っている集落の消滅も大げさでもなんでもなく、事実として起こり得るだろう。モンスターパニック物の映画もかくやの光景が簡単に想像できてしまう。
だが、少し考えてみるとこれは……好機でもあるのではないか?
「だが、これはチャンスでもある」
「へ、どういうこと?」
彼は人の心を読む能力でもあるのだろうか? 僕が今後の手立てを考えたタイミングで口を開いた。
「あの女性の遺体をエサに赤熊をおびき寄せる。なに、何の捻りもない釣り作戦さ」
本当に何者なのだろうか、このオータムと名乗る男は。僕以上に戦闘というものを心得て、状況を優位に持っていくために手段を選ばない考え方も近しいものを感じる。
水鈴さんは非道な手段をあっさりと提案されてきたのに絶句したのか、目を見開いている。そして僕は彼が自分と同じ手段を考えていた事に驚かされた。ゲーム時代に相手の思考を読むスキルや呪紋などはなかったはず。ならば彼と僕は本当に近しい考えを持っているのだろう。だから、この男はとても危険な奴だ。僕の中でオータムへの警戒心が一段階引き上げられる。
日が傾き、強い西日が彼の顔に濃い影を作っていく。出会ってから今までずっと変化の少ないオータムの表情がこの時、何故か薄く笑っているように見えた。
何にせよ、この初仕事の佳境がやって来ようとしている。気を引き締めようか。




