承前・章前Ⅱ
黒辺七夫はこの日、知人の勤める大学の研究室にやって来ていた。目的は先日車で轢いてしまった謎の生物を売ることだ。せめて轢いた時に壊れた車の補助ランプの修理費ぐらいにはなって欲しいな、と思いつつ黒辺は通された部屋でコーヒーをすすっている。
彼の知人はこの大学で准教授の地位にあり、詳しくは知らないが生物に関する研究を行っていると黒辺は記憶している。研究の一環として様々な生物を資料として収集しており、解剖したり、標本にしたりしているのも知っている。その成果の一部が黒辺の目の前にある動物の標本の数々だったりするのだ。
黒辺が通されたのは研究室の隣にある準備室で、様々な資料や道具が保管されている倉庫でもある。知人がその一画を私物化しており、ティーセットやポットが置かれて、茶菓子として缶入りの水ようかんが常備されていた。
コーヒーに水ようかんってどうなんだ? と思いながら黒辺はビーカーに口を付けてコーヒーを一口飲む。マジックで『飲料用』と書かれたビーカーにコーヒーが注がれているのだ。知人曰く、この方が研究者っぽく趣きがあるのだそうだ。黒辺としては腹に入ってしまえばどんな飲食物も変わりないという主義なので、さして気にせず出された物を飲み食いしている。
見渡せば、ホルマリン漬けにされた生き物が棚に並び、骨格標本になった動物、実験用なのかビーカーやメスシリンダーが別の棚に並んでいる。黒辺の脳裏には遠い記憶にある母校の理科準備室を思い出す。そう言えば、通っていた小学校に夜中に動く人体標本って怪談があったなぁ、と懐かしい思い出に浸りながら気付けば黒辺は残るコーヒーを飲み干していた。
時刻は日の長くなる夏でも暗くなる時間帯、大学の研究室は街の郊外にあって周囲はとても静かだ。図らずも怪談向きなシチュエーションになっていた。
「……いや、流石に動き出すとかはないよな?」
「無いから安心してくれ」
「ぬわっ!」
「くふふ……ぬわっだって。くはは」
「はぁぁぁ……驚かすなよ、青木。いい歳してガキか」
「くはは、スマンスマン。お前の背中を見ていると驚かせって脳からの指令が来たのでな。これは本能行動かもしれない」
「何が本能だよ」
黒辺を背後から声をかけて驚かせた白衣の人物。青木と呼ばれた男性が黒辺の知人で待ち人だ。黒辺と同年代で四十代になるはずなのに若々しい顔立ちと、悪戯好きな性分が態度に出ているせいで実際の年齢よりも幼く見える男だ。
大学時代の友人を通じて調査の仕事で何度か交流がある程度の仲なのだが不思議とウマが合ったようで、もう友人と呼べるだけの仲にはなっているのでは? と黒辺は考えている。もちろん口に出すつもりはない言葉だ。
「それで、あのナマモノ買い取ってくれるのか?」
「ああ、もちろん。ほら、謝礼」
「――ほほう、大学から出てるのか? この金」
「いや、私のポケットマネー。ウチの大学はケチだよ、研究資料集めるのにお金なかなか出さないもの」
青木から渡された茶封筒には一万円札が幾つか。これならランプを修理してもかなり余りが出る。思わぬ臨時収入に黒辺の口元が緩んだ。讃えるべきは気前の良い大学准教授か。
「こっち来なよ。ご対面させてあげよう」
「ちょっと待ってくれ、グロいのは勘弁してくれよ。以前エゾシカだかヘラジカだかの解剖を見せられたのをまだ覚えているんだからなコッチは」
「あー……あれね、あの時のはトナカイだよ。動物園で飼育していた奴さ」
「何でもいいよ。俺が言いたいのはグロいのは勘弁ってことだ」
「大丈夫だよ。まだ腹を割いただけだし、本格的な解剖は後日だ。ほら、こっち来てくれ。明るい場所で見ると新しい発見があるかもしれない」
「そういう事なら、分かった」
青木に半ば強引に連れられた黒辺は、準備室を出て隣の研究室に入った。入ったとたん彼の鼻は強い薬品臭を嗅ぎ取る。そしてそれと同レベルに血の臭いが鼻を突いた。蛍光灯に照らされた研究室の一画にステンレスの解剖台があり、その上に例の生物が載せられていた。血の臭いはそこからだ。
「すまんね、研究室の予算が不足していてファン付きの解剖台が用意できなかったんだ。私は馴れているけど、きつかったらコレを使ってくれ」
「ああ、ありがとう」
渡された医療用のマスクをしても臭いは薄れないが、気持ちは少し楽になった。蛍光灯の明かりを反射するステンレスの平面。その上に載せられた死骸に黒辺は改めて目を向ける。
あの夜と同じように力なく足を伸ばして横たわっている死骸。鳥に似ているシルエットだけど、羽毛の代わりにウロコが体を覆っている。まるで恐竜みたいだ、とはあの時感じた印象だったけど、こうして明かりの下で見るとその恐竜の印象はより強くなっていた。
青木が「腹を割いた」と言っているように、生き物の腹は縦に切られて腸などの内臓が一部取り出されている。生臭さの源はここからだ。
「映画とか創作の中以外でこういう生き物は初めて見るよ。何、いつの間にかどこかの動物園がジュラシックパークでも作ったのかな? それとも研究施設から脱走でもしたとかかな?」
「知らないよ。そういうのは青木の方が専門家だろ。それで、見てやったけどどうなんだ?」
「うん……そうだね……どこから説明したら分かりやすいかな……」
話を振られた青木は言葉を探して解剖台の横を右に左にウロウロしだした。説明をするために文章を頭の中で組み立てているのだと、付き合いのある黒辺には分かるが、それでも鬱陶しく見える光景だ。この研究室に通っている研究者達は何も言わないのだろうか? と考えてしまう。
研究室には二人以外に人は居らず準備室と同じく、いや広さがある分より一層に静けさを感じる。聞こえるのはウロウロする青木の足音だけで、周りが静かな分余計に響く。キャンパス中に響いているのではないかと錯覚してしまいそうだ。
慣れている黒辺でもそろそろ注意したくなってきて、一言もの申そうと口を開いたタイミングで足音が止んだ。
「一言で言えば、この生物は余りにもイメージ通り過ぎて逆に嘘くさく感じる」
「嘘くさい?」
「ああ、もちろん生き物としての矛盾はないよ。食べ物だって胃の内容物を見たけど虫とか家庭から出る生ゴミだった。カラスみたいな生活だろうね。私が言いたいのはこの生き物が一般的なイメージにある『恐竜』そのままの姿であるところだ。黒辺、君は子供の時とか恐竜の図鑑を見たことはないかな?」
「あったな。男のガキンチョだったら一回は恐竜に憧れが湧くし、図鑑も読んだなー、今はそれほどじゃないけどさ」
「ああいった図鑑に出てくる恐竜の体表部分ってほとんどイメージで書かれているんだ。恐竜の体の表面がどんな色だったのか化石じゃ分からないからね。赤いかもしれない、黒いかもしれない、虹色だったりするかもしれない。毛が生えていたり、予想もつかない部分に角が出ているかも知れない。そういう予想外の発見が古生物学にはあるんだ。君が子供の頃に見た図鑑に出てくる恐竜も今の研究成果に合せると全く違う姿になるかもしれない。
そういう事を踏まえてこの生き物を見ると、余りにもイメージ通り過ぎて『恐竜』という名称は使いたくないな。さっきも言ったけど、どこかの研究施設から脱走した人工的な生物って言われても納得するね」
「そう、か。解説ありがとう」
『恐竜』というイメージ通りに過ぎる謎の生き物。それがこの生物学者の見解らしい。
「それで黒部、改めて見て何か気づいたところとかないかな?」
「何かって……専門家を前にしてあれこれ言うのは何か違う気がするんだが」
「素人だからこそ気づく部分もあるんだよ。問題の解決には専門家を頼りすぎて妄信しない方が良い。些細なことでもいいんだよ」
「ふーむ……そうだな……関係あるかどうか分からないけど、こいつをここに持ってくる時から見られている気がしてな」
「見られている?」
「ああ、思い返せばコイツをはねた時からかもしれない。あの時は気づけなかったが……監視されている、のか?」
黒部は職業柄人を尾行したり追跡したり、その逆で尾行や追跡を受けたこともある。そのため人の視線には敏感な方で、とりわけ害意ある視線には気付きやすい。そんな彼でも確信を持てない薄い感触をここ最近感じるようになっていた。記憶を辿ってみるとこの生物を轢いた後からになる。
やはりコレがどこかの研究室から脱走した生物で、それを拾った自分に監視がついているのだろうか? そんな風に考えていた黒部だったが、話を聞いた青木の考えはまた違ったようで、再び考え事のためにウロウロと動き始めた。
ただし今度は短時間で済み、さっきまで顔に浮かべていた楽しそうな表情が引っ込んで至って真面目な顔を黒部に向けた。
「この生物はヴェロキラプトルに形状が似ている。ただし、羽毛があったという説が出る前の姿だけどね。映画のジュラシックパークで名前が出てくるヤツだ。もっとも、実際に映画に出ていたのはデイノニクスだけどね。ただ、どちらにせよこの手の生き物は大概群れで行動しているケースが多いんだ。オオカミしかり、ライオンしかり、群れで狩りをするように生体レベルで出来上がっている。
何が言いたいかというと、黒部、この生き物を轢いた時にその場に居たのはコイツ一匹だけだったかい?」
「まさか仲間がいて、コイツを轢いた俺をつけ狙っている?」
「だとしたら興味深いなぁ、なんて信じた?」
「……あのなぁ、趣味悪いぞ」
ふざけて自分を驚かせていると分かった黒辺は、肩を落として溜め息を吐いた。先も述べたが青木という人物はこうやって子供じみた言動をする。黒辺はそれを知ってはいてもまだまだ慣れずに振り回されてしまう。
「脅かすなよなぁ、ホントガキみたいだぞ」と文句を言いながら、黒辺はそろそろお暇しようと考えた。明日も調査の仕事でアポを取って面会する人がいる。金も手に入ったのでさっさと帰って早めに寝ようと思ったのだ。
着ているジャケットの内ポケットに貰った金をしまって、「じゃあな」と踵を返したタイミングで研究室の窓ガラスが盛大な破壊音を立てて破られた。割れたガラスが細かく無数の破片になって、窓の向こうから乱入して来たものも一緒になって研究室の床に落ちた。
「え……」
「は? いや、まさか本当に?」
床に落ちたソレは倒れた姿勢からムクリと起き上がり、二本の足で立ち上がって首を巡らし黒辺と目が合う。
ソレは解剖台に載っている死骸と同じ形をしていて、生きた姿で二人の前に現れた。目が合った黒辺は一瞬だけ幼い頃に鉢合わせをした野生の熊を思い出す。動物園で見る獣と違って、生々しく貪欲で生きるのに躊躇が無い。獣性と呼ぶに相応しいものをその時出会った熊から感じた。それと似た感触を彼は目の前の生き物から感じ取る。
つまり野生の獣相手であり、とてつもなく危険だという事だ。
「青木、ゆっくり下がるぞ。こいつを刺激しないようにな」
黒辺はソレから目を離さずにゆっくりと動き、後ろにいる青木に声をかけつつ研究室のドアへと向う。
熊とかと遭遇したのなら背中を見せないよう後退るのが正解だ。しかしこれが猿相手だったら目を合わせると敵対していると思われて襲われる。動物の習性ごとに対処法は変わるため、黒辺の行動は自分自身でも正解かどうか分からない。だけど危険かもしれない相手から視線を外したくない心理が働いてこんな動きになったのだ。
その生き物と目を合わせたまま後退る黒辺の姿は傍から見ていると滑稽だけど、本人としては必死だ。
そういえば声をかけた青木から返事がない。まだ呆然としているのだろうか? 後ろに下がりつつ黒辺は青木の様子を窺おうと後ろに目をやる。もちろん目の前の生き物を視界に入れたままにするのを忘れない。
思った通り青木は呆然としていた。ただし、その目は何故か窓の方向に向っている。嫌な予感がした。けれど確認しないわけにはいかず、黒辺も青木の視線を辿って窓の方向に視線を移した。
「うげ」
黒辺の口からそんなうめき声が出ててしまう。研究室のあるこのフロアは一階、窓からは暗闇に覆われた大学構内が見える。それを背景にして貼り付くように多数の生き物が窓の外に現れていた。
なぜ今まで気付かなかったのか? 大学の警備は何をしているのか? そんな思考が黒辺の脳内でグルグルと回りだす。そうしている間にも破られた窓からさらに一匹、二匹と侵入してくる。
研究室内に次々と入ってくる恐竜モドキの生き物。黒辺の中にある危険度メーターはすでにマックスに振り切っている。
「なんでこんなに集っているんだよ……」
「昆虫や甲殻類が死亡した際にフェロモンを放出して仲間に危険を知らせるというものがある。さっき軽くバラした際にこの生き物の鼻近くに臭腺があるのが分かった。仲間内のコミュニケーションとして臭いを使っていると推測されるな。多分、この生き物が死亡した際にフェロモンを放出、死んだことを仲間に知らせたんだろう。
一般的に死亡を知らせるフェロモンは仲間が危険に近付かないようにする警告だったりするんだが、こうして報復に来るのもありえそうだね」
「なんでこんな時に饒舌になるかね」
「あ、それとこの生き物に攻撃される時は足にある蹴爪に気をつけて。毒腺らしきものがあったから。イメージとしてはカモノハシかな?」
「おいおい、このタイミングでそれを言うか」
「毒とか、マジか」と呟きながらも黒辺は侵入してくる恐竜モドキから目を離さない。
大きさとしてはニワトリを数倍大きくした程度。大したことがない様に思えるが、人間は自然界では最弱とか言われ風説では素手ならネコにも負けるとか言われている。対して目の前の生き物は見た目からして生粋のハンター、強力そうな爪には毒までも持っているらしいときた。もともと戦う気の無かった黒辺だったが、これで完全に戦闘意欲は無くなった。
もう取れる方法は逃げの一手のみ。そう思った黒辺は、青木に目配せをしつつジリジリと後退していく。目配せを受けた青木も意図を理解して出入り口のドアを目指してゆっくりと動き始めた。
後退している間にも窓から侵入してくる生き物の数は増えて、すでに十匹以上の数になっていた。
その十匹分の獣の目が一斉にこちらを向いた。来る、黒辺は直感して動いた。
「うわぁっ!」
「青木!」
後ろ足が発達していかにも跳躍が得意そうな外見を裏切らず、生き物の一匹が大きく身を屈めたかと思えば青木に向って跳びかかった。両方の後ろ足を前に出して蹴爪で攻撃するのがこの生き物の攻撃スタイルらしい。
爪に毒がある、青木が狙われた、黒辺が一瞬で理解したのはそこまでで、行動を起こすのにそれで充分。とっさに手が横に伸びて、そこにあったパイプ椅子を掴んで生き物目がけて繰り出された。
「――ッ!」
確かな手応えがして人間には発声不可能な悲鳴を上げて床に叩きつけられる生き物。それらの感覚でこれが夢幻ではないと黒辺は確認させられる。
「逃げるぞ!」
「あ、ああ」
さらに飛びかかって来た一匹をもう一度パイプ椅子で叩き落とし、黒辺は青木を先に行かせて研究室から脱出する。
研究室に次々と入り込んでくる生き物が上げる鳴き声、暴れることで壊される研究室の資料や機材、それらの騒音を背中に黒辺と青木は研究室から廊下、廊下から非常口へと転がるように逃げ出した。
こんな非常事態になっているのに研究室の外は異様に静かで、非常ベルも鳴っていないし警備員が動いている気配も無い。そこに違和感を覚えながらも黒辺は脱出先を考える。
「とりあえずここから逃げて車で大学を出るぞ」
「今日、車じゃなくて自転車なんだけど」
「じゃあ自転車は置いて俺の車に乗れ」
「でも高いんだよ、私のキャノンデール。そこらのママチャリと一緒にしないでくれ」
「諦めろ、命が大事だろ」
研究室の近くに止めている自分のミニで逃げて、後から大学なり警察なりに連絡をとるのが現実的。そう結論を下した黒辺は自身の自転車を惜しむ青木を引っ張り、車へと向った。
背後から生き物が襲ってこないよう警戒しながら非常口を抜けて二人は外に飛びだした。夏場とは思えないほど冷えた夜の空気が彼らを迎える。外に出たことで大学キャンパス内の静まりかえった様子が直に分かるようになった。
遠くから獣の鳴き声が響いて、あちこちから人間以外の生き物の気配が伝わってきて、冷えた空気には気のせいか血の臭いがしている。ただ事ではない拙い事態になっている。黒辺はそう感じ取った。
「おいおい、一体全体何が起こっているんだ、これは」
黒辺の呟きはこの場におけるもっともな疑問だったが、それに答えられる人間はどこにも居なかった。




