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吹っ飛ぶ城のイメージ、爆死する妻の姿が脳裏に浮かび、茫然自失で力無くソファに座りこむ兼弘だが、諦めるのはまだ早かった。
和田家は大して遠くない。うまくいけば、自転車で先回りできるかもしれない。
志津子が友達の家を訪れる時は、大抵、お気に入りの洋菓子店でケーキを買い、お土産にする。
クリスマス前でそこそこ店は混んでいる筈だし、アイツの性分からしてアレコレ迷う。それから車を走らせるとして、到着まで20分以上かかるだろう。
なら、両家の間に位置する自然公園へ向かい、その中を突っ切る最短コースを通って、兼弘が志津子を爆発前にキャッチできる可能性は、僅かながら残されている。
もう迷う時間は無かった。
最近、滅多に使わないママチャリを物置きから引きずり出し、軋むサドルに弛んだ腰を載せ、公園へ続く坂道を漕ぎ始める。
大した距離では無い筈なのに、緩やかな登り道を走ってみると意外にキツい。
曇り空から音も無く雪が舞い始め、滑りそうな路面の恐怖と戦いながら、軋む膝へ力を籠め……
あぁ、キツい。
下っ腹のお肉がタプタプ揺れて止まらない。
改めて、メタボの怖さを思い知らされた。たちまち息が切れ、心臓が高鳴る。何で自分の体はこう重いのだろうと痛感する。
普段の兼弘なら速攻で音を上げる所だが、手錠を掛けられ、刑務所へ送られる自分の姿を思い浮かべ、何とか持ち堪えた。
「あなたの悪意を応援します」
『財団』の密やかな囁きが、又、耳の奥で響く。
さっきは感謝したい気持ちでいたのに、今、改めて盛り上がった感情は激しい怒りだった。
あぁ、そうだよ、畜生。
俺はつまんねぇ男さ。ずっと、ず~っと、クソ真面目に生きて来た。
平凡で、臆病で、ろくにやりたい事もできなかったけど、ただ精一杯自分なりの人生を歩んで来たんだ。
今更、得体の知れない奴らに心の底を見透かされ……夫婦共々、オモチャにされた挙句、地獄へ突き落とされてたまるか!
灰色だと思っていた過去の人生が、走馬灯の様に脳裏を巡り、急に得難く貴重な物に思えてくる。
後悔が憤怒へ結びつき、噴き出すアドレナリンの力を借りて、兼弘は15分弱で公園へ到着。林道に繋がるプロムナードを更に突っ走った。
もう目的地は近い。
けれど到達するには、まだ大きな障害がある。
住宅地沿いの丘陵に設けられた自然公園には、和田家付近の土地と、かなりの高低差があるのだ。
極めて細く急激な坂道を下りなければ最短距離で大通りへ出られず、それは本来、手すりを握って通行する歩行者専用の道とされている。
自転車を使う場合、舗装された広い散歩道まで迂回するのが本来のルートだが、それでは近道にならない。到底、あと10分以内で辿り付けない。
恐る恐る坂の頂点から下を見下し、兼弘は思わず息を呑んだ。
ざっと見積もって、30メートル以上の落差がある。忍城の御三階櫓から下を見下した高さと、体感的に殆ど差が無い。
今は雄大とも絶景とも思えなかった。
ただ、怖い。
全身が震える。
奥歯のガチガチ鳴る音がやたら大きく聞こえる。
ゆっくりと降り積もる雪で、坂道は仄かに白く染まっていた。
ヤバいと言えば、こいつもヤバい。雪と言う奴は積もり始めが一番滑りやすい事、北陸育ちの兼弘は体の芯で覚えている。
義経のひよどり越えじゃあるまいし、メタボのオッサンが自転車で駆け降りるのは自殺行為としか思えない。
今回も読んで頂き、ありがとうございました。




