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吊り橋効果と言う奴は、所詮長続きしないものらしい。
爆弾騒動を乗り越えて訪れた仮初めの幸せは、その後、まる一カ月に及ぶ責め苦へと直結していった。
『財団』の事、爆弾の事、そして、志津子の命を危険に晒した悪戯について洗いざらい告白した挙句、洗濯、掃除、料理といった家事全般を当面、兼弘は一人で受け持つ事になったのだ。
妻の厳しい指導の元、兼弘は悪戦苦闘を繰り返す羽目になったが、それで済んだのは驚きでもある。
一発張り倒されるのは当たり前。警察への出頭を覚悟していたし、志津子が離婚を口にするのも十分予期していた。どんな酷い要求だろうと、何もかも、全部受け入れるつもりでいた。
なのに、お仕置きは家の中だけで完結。徐々に慣れていく家事の作業中、妻と協力する事に兼弘はやり甲斐を覚え始めている。
少なくとも夫婦の関係性は、以前よりずっと好転していた。危な過ぎる「火遊び」を経て、互いに「寸止め」を覚えたという所だろうか?
きつい毒舌を叩き合う事があるとしても、あくまで冗談めかしたもので、険悪なレベルまで至らない。
慌ただしい年末年始を乗り越え、次の年も半ばを過ぎた頃、二人は旅行さえ一緒に企画した。曽根夫妻と待ち合わせ、小田原城のあじさい花菖蒲祭を泊り込みで堪能しようと決めたのである。
急ぐ旅では無いから、二人は新幹線を使わず、ロマンスカーにノンビリ揺られて小田原を目指す事にした。
事前予約が必要な特製駅弁を味わい、梅雨時には珍しい澄み渡った青空の下、滑らかに流れる窓の景色を楽しむ。
「何か、嘘みたい、こんな風に二人で旅を楽しめるなんて」
程良い堅さのシートに深く凭れ、少し眠そうな顔で志津子が言った。
「一時はいがみ合ってばかりいたのに。あの爆弾の送り主に、あたし、感謝しなくちゃいけないのかな?」
兼弘は小さく首を傾げた。
「う~ん、俺が感謝するとしたら『財団』じゃない、別の誰かだろうな」
「え?」
「今回の成り行きを全て計画し、最後の最後までコントロールしてのけた人物」
「……あなた、何か、わかったの?」
旅行バッグの中から、兼弘はA4サイズの茶封筒を取出し、志津子の前へ置く。
「俺の会社の同期に、建設素材を開発してた奴がいてさ。今は独立した研究室を立ち上げているから、例の爆弾の分析調査、依頼してみたんだ」
取出してみると茶封筒の中身は、数字のデータだらけの薄い鑑定書だ。
「……今更、何故、そんな?」
「時限装置は作動していたにも関わらず、爆発しない理由が府に落ちなかった。
で、昨日届いた結果を見たら一目瞭然だ。爆弾の素材が変質し、劣化していた。二十年の時が経過する間に」
「それはつまり……あの爆弾、使用期限切れのお古と言う事かしら」
「そうだ」
「それが、今になって使われた理由は?」
「『財団』という組織が現代に復活し、活動を再開したのだと仮定しても、彼らが敢えて古い爆弾を持ち出すメリットは無い。
むしろ二十年前、『財団』が派手に活動していた時期に爆弾を送られた何者かが、警察にもマスコミにも知られぬまま、それを手元に保存していて、今回、何かのきっかけで使用へ踏み切った……そう考える方が自然だと思う」
兼弘はふと言葉を止め、妻の目を正面から見つめた。
「それ、お前だよな、志津子」
「え?」
「あの日、城の模型を全部壊せと急に言い張った事。慎重な性格のお前が家に携帯電話を忘れた事。
それに俺が自転車でお前の車に追い付いた後、詳しい説明を聞く前に俺を許し、必要以上に罰しなかった事。
始めから全部、成り行きをお前が仕切っていたのだと考えれば、理解できる」
「……あなた、冗談はやめて」
「俺が模型に爆弾を仕込むのも、自転車で追う羽目になるのも、お前はお見通しだった。いや、そうするように仕向けた」
志津子は兼弘から視線を逸らし、窓の外の景色を眺める。
「もう一度言うぞ。あの爆弾は、お前が俺に送ったんだ。多分、腑抜けになった俺に刺激でも与えるつもりで」
「……そんな偉そうな理由じゃない」
反論する口調では無く、ポツリと呟く志津子の言葉は、か細く寂しげで力無く響いた。
「退職した直後、どんなだったか、覚えてる?」
「ああ」
「何を言っても上の空。全然、話は噛み合わないし、部屋へ閉じこもる時間が長くなる一方……二人でいるのに、一人っきりの気がしたわ」
「心配してくれてたのか、お前」
「あなたの心が壊れてく……そんな気がして、怖かった。 凄く多いのよ、定年で生き甲斐を失い、鬱や神経症を患う人が」
その事は兼弘も良く知っていた。知人にも精神科に通い、入退院を繰り返す者が何人かいる。
その傾向があるというレベルなら、兼弘自身を含め、どれ位の数か想像もつかない。
もしかしたら、居場所の無い高齢男性の殆どが、そういう時期を潜りぬけているのかもしれない。
「だから、一か八か、極端な手を使ったの。あたしが悪役になり、挑発して殺意を抱くほど怒らせたら、少なくても無気力な状態から逃れられる」
「……メタボな食事もその為に?」
「一緒に食べてたでしょ、あたしも」
「ああ」
「お陰様で、5キロ太りました。あなただけにリスクを負わせた訳じゃないわ」
デブも厭わず、か。
ある意味、妻が夫に為し得る究極の自爆テロかもしれない。
「でもさ、志津子」
「何?」
「城の模型を俺がオーダーした時、一緒に届いた振りして爆弾セットを手渡すのは、段違いにリスクがでかい。劣化しているとはいえ、爆発の危険は感じたろ? いや、むしろ爆発する可能性の方が高いと思った筈」
「ええ」
「お前、その時はどうするつもりだったんだよ?」
「……一緒に死ねば良いと思った」
愕然とする兼弘の方へ志津子は視線を戻して笑う。
「家に引き籠って死んだような目をする夫との暮し……女の老後は長いのに、そんな寂しいの、耐えられないもん、あたし」
志津子の笑顔は、彼女なりの深い覚悟を含んでいる。
「二人でいるのに一人きり、自分の心も死んでいくのを待つより、ずっと良い」
物静かな面持ちだが、その底が知れない。罵詈雑言を投げかけ、憎々しげに振舞っていた昨年の彼女より、ずっと恐ろしい。
そして、美しいとも兼弘は思った。
右手を伸ばし、そっと彼女の左手を取る。色褪せた結婚指輪が愛おしく、限りなく貴重なものに感じられ、指先で撫でてみる。
「なら死ぬまで、ちゃんと二人でいよう、志津子。お前から貰ったルールの箇条書き、俺、今度こそ守るから」
「……あら、いつまで続くの?」
いつものノリで憎まれ口を返しつつ、志津子の指先が、兼弘の指を握り返してくる。
小田原城へ着いたら、曽根さん達の前で手を繋いでやろうか?
そう考えるだけで兼弘の心は躍り、残っていた志津子への最後の質問を、胸の奥深く仕舞いこんだ。
それは『財団』から爆弾を送られた二十年前、彼女がどんな悪意を抱え、誰を殺したいほど憎んでいたかと言う問い。
相手は兼弘だろうか?
彼がしたように、生活のごく身近な所へ爆弾を仕掛け、密かに憂さを晴らしていたのだろうか?
それとも、他に憎むべき誰かを、妻は隠し持っていたのか?
無性に気になる。
でも、その答えを知ったら取り返しがつかない。
そんな予感もあるのだ。
「何を信じようと、泊君、君の自由さ。どうせ、どうあがいても、真相なんか判らないんだから」
以前、曽根に言われた言葉が、唐突に胸へ甦った。
もう考えるのは止めよう。
シートに凭れ、穏やかな寝息を立て始めた志津子の髪を撫で、兼弘は思う。
二十年前、何があったにせよ、仕事にかまけて妻の心の闇を気付けなかった。
向き合おうとさえしなかったその無関心こそ、兼弘の、夫としての最大の罪であったのは、疑いようもない確かな事実なのだから。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
少しブランクがあった分、いつも以上に暗中模索した感がありますけれど、何とか完走できたのは読んで下さった皆様のお陰です。
もっと自分なりの面白さを追求していけるよう頑張りますので、宜しくお願い致します。




