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爆発まで後5分を知らせる携帯電話のアラーム音が響いても、兼弘はまだ躊躇いの中にいた。
志津子が知ったら、きっと思い切り笑い飛ばすんだろうなぁ。
そう思い、妻の冷笑を思い浮かべた途端、兼弘の胸に鋭い痛みが走った。
怒りからではない。
自分でも意外な事に、それは激しい喪失感に他ならなかった。
そう、どんなに憎たらしいと思っていても、志津子がいなければ兼弘は一人だ。両親は既に他界しており、兄弟とは疎遠、他に家族を増やす事はできなかった。
友達も多い方じゃない。
つまり妻を失ったが最後、一生をかけ、やっと建てたあの家、俺の「城」に朝から晩までオッサン一人っきり。嫌味を言い、悪意をぶつけあう相手さえいなくなる。
待っているのは、多分、孤独死。良くあるパターンだ。あぁ、今時、笑っちゃうほど有り触れた成り行きだけどさ……
警察に捕まるより、その事の方が恐ろしくなった。
もし、志津子を助けられないなら、俺もここで死んだ方がマシかも?
そこまで思いを巡らせ、やっと覚悟が座った瞬間、眼下の路地に、大通りの方から近付いて来るワインレッドのセダンが見えた。
志津子の車だ。
今すぐ駆け降りれば、通過する前に行く手を塞げる……かもしれない?
兼弘は吠えた。
怯える心に思いっきり気合を入れる怒号。こんな大声で叫んだのは、生れて初めてだと思った。
足元を蹴り、夢中で前へ……
おぉぉおっ!!
加速する毎に風を孕み、渦巻く雪を蹴散らし、ガタガタ軋む自転車が坂道を転がり落ちる。下っ腹の贅肉がブルンブルン上下へ揺さぶられ、すこぶる痛い。きつく締め付けたベルトの下、今にもちぎれそうな感じで……
ぎゃぁぁあっ!!!
雄々しい怒号はすぐ恐怖の悲鳴へ変わった。
途中の岩場で大きく跳ね、衝撃で目の前が白くなる。灰色の上空に、天国……いや、地獄の門が見えた気がした。
命からがら、滑るタイヤを転倒寸前で抑え込む。その瞬間、すっかり血の気の失せた頭の片隅で兼弘は思った。
テーマパークの絶叫マシンなんて、これに比べりゃチョロいわ。下手うっても即死は無ぇモンなぁ、ありゃ。
何度も高くバウンドしてタイヤのホイールを歪ませながら、辛うじて転倒は回避。
えらく長く感じたが、その決死行はおそらく十秒にも満たないだろう。辛うじて、青息吐息の兼弘は下の路地へと辿り着く。
奇跡だ……
兼弘自身、無事なのが信じられない有り様だったが、それ以上に驚いたのは、正面の路上、セダンの運転席にいる志津子に他ならない。
慌ててハンドルを切り、突進してきたポンコツ……いや、スクラップ寸前のママチャリを避け、急ブレーキ。そのまま路肩へ車を停めた。
「あ、危ないじゃない、あなた! こんな所で何してるの!?」
「うるさいっ! どけっ!」
路上へ出た志津子を兼弘は荒々しく押しのけ、開いたドアから頭を突っ込んで、車の前部、後部座席を見回した。
そこに姫路城の模型は無い。
「トランクの鍵は!?」
「あなた、何を偉そうに……」
「鍵を出してくれ、頼む! それと、お前は車から遠くへ離れるんだ」
兼弘の目が血走っている。
そのド迫力に押され、志津子が差し出した鍵でトランクを開けた瞬間、携帯電話にセットした最後のアラームが鳴った。
残り時間ゼロ。即ち、爆発のタイムリミットが来てしまったのだ。
頭を抱え、兼弘は自分と妻の体が引き裂かれる衝撃を待った。
だが、爆発は起らない。
城の天守閣をずらし、中のタイマーを覗くと、残り時間はやはりゼロ。機械は確かに作動しているから、何らかの理由で不発に終わったとしか思えない。
全身の力が抜け、兼弘はその場にへたり込んだ。
ホッとした途端、体のアチコチが猛烈に痛みだす。坂を登り、駆け下りた際の打ち身と筋肉痛。多分、明日は一日中、まともに動けないだろう。
「……さあ、どういう事か、説明してもらいましょう」
目の前で仁王立ちする志津子を、兼弘は何も言わず、抱き寄せようとした。
「ちょっと、いきなり何よ!? ひ、人に見られたら恥ずかしいじゃない」
「……お前が無事で良かった」
「はあ!?」
「憎ったらしいお前の有難味、今になって、やっと……」
反射的に後ずさり、困惑する志津子の前で、兼弘は俯き、啜り泣く。
「あなた、バカじゃないの?」
志津子の声はいつも通り、冷静で遠慮のカケラも無い。
まぁ、当然だ。バカ旦那に呆れ、すぐ何処かへ行っちまうンだろうな。結局、孤独死のオチじゃねぇか、俺。
兼弘はそう思ったが、何故か志津子はその場から動こうとしなかった。
立ち去る所か静かに寄り添い、夫の身体へ手を伸ばす。それは爆弾の不発より兼弘にはずっと意外な展開だ。
唖然として顔を上げると、何時の間にか志津子は微笑んでいた。
そして、子供でもあやすように、背中を軽くポンポンと叩く。
その優しい感触は、二人が結婚し、初めて一つ屋根に暮らした頃の懐かしいときめきを兼弘の胸に甦らせてくれた。
しがみつく勢いで、今度こそ妻を強く抱き寄せる。
ああ、俺達は生きてる。
世界中の『悪意』を片っ端から敵に回しても、今は勝てそうなくらい幸せだと兼弘は思った。
読んで頂き、ありがとうございます。
あと一話、しっかり締めくくれるようベストを尽くしたいと思います。




