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妻という生き物は、何でこう見事に夫の神経を逆撫で出来るんだろう?
夕食後、脂肪の吸収を妨げると言う緑茶のペットボトルを手に、泊兼弘はしみじみ思う。
今夜、彼が平らげたメニューを分析するなら、妻・志津子の意図は明らかだ。
煮卵が入ったブタの角煮、スーパーで買ったフライドチキン1パック、思いっ切り塩辛い漬物に味噌汁、辛子明太子も添えられている。
カロリーや塩分量は計算するだに恐ろしい。
さしずめ『夫を早死にさせるメニュー』の模範例と言う所だろうか。
どれも大好物だから、食卓へ並ぶと食べずにいられない。だが、今やメタボど真ん中の腹周りが、食後、兼弘の気分を重くした。
毎日の食事がこうでは、トクホのカテキンくらいで対抗できるわけ無いじゃないか。
胸の奥でぼやく内、志津子トドメの一言が飛んだ。
「ホント、いい年して良く食べるわねぇ。あんまり腹凭れとか、しないモンね。油もの、もう少し控えた方が良いんだけど」
「……はぁ!?」
「ホラ、あなたって根っから自制心が薄いタチだし、無理なんでしょうねぇ、自己規制」
言い終えた後、ほんの少し唇を歪め、志津子は笑う。
「お前……減塩とかさ、食物繊維を増やすとかさ、作る側にも工夫の仕方が有るンじゃないの?」
「あら、一度試してみた事あるわ」
「そうだっけ?」
「ええ、その時、あなた、何て言った? 薄味のストレスで早死にしそう、って呟いたのよ」
「……そうだっけ?」
「アラ、物忘れもひどくなってンだ? ボケるのだけは勘弁してね。倒れるならポックリ後腐れ無く。本人にも家族にも、それが理想ですから」
言葉の内側にまぶす毒を吐き出すだけ吐き、又、ニッコリ。
無駄な抵抗を止め、早く死ねと言っている様に感じられ、それが兼弘の中で一際重いストレスになる。
文句を言っても口では敵わない。
好きな物を思い存分食べさせてくれる「良い奥さん」に、定年後、粗大ごみと化した夫が何と言って逆らえば?
無理ゲーだろ、そんなの。
逆らった所で小言のダメ押しを食らうだけ。
だから、兼弘は早々にダイニングキッチンを出て、六畳の狭い自室へ向った。
一人になれば、愚痴くらい言える。趣味の世界に没頭し、耐え難い現実から逃げ出す事だってできる。
思えば、建築業界中堅の金城工務店で42年を勤めあげ、定年退職するまで夫婦関係は悪くなかった。
志津子と初めて出会ったのは兼弘が30才の時だ。
取引先のOLで、当時27才だった彼女に一目惚れ。
何度も通いつめた末、プロポーズを受け入れてもらった夜こそ、兼弘の生涯に於いて最も幸福を感じた瞬間と言えるだろう。
読書が趣味で内向的な志津子は結婚を機に退職、主婦となる道を選んだ。
以来、子宝には恵まれなかったものの、埼玉の郊外に家を買い、ローンを完済。
老後に備えて、貯金もそこそこ溜めた。退職金もそれなり。人並み以上の定年を迎えた自負が兼弘にはある。
そうだよな?
人並みに順調だったよな?
少なくとも志津子から、文句を言われる筋合いは無い筈。
もし兼弘に引け目があるのだとしたら、それは定年直前、交わした約束が殆ど守れなかった事くらいだろうか?
あの時、箇条書きで手渡された妻からの要望は、実に他愛無いものばかりだった。
朝から晩まで、家の中でゴロゴロしない。
使ったものを出しっぱなしにしない。
時々は妻の邪魔にならない程度に家事をする。
話しかけた時は適当に返事せず、決断を妻に任せきりにしない。
全部で10項目程度の箇条書きを一通り読み、体の力が抜けたのを憶えている。子供のしつけじゃあるまいし、大の大人が一々誓う事でもないと思った。
だが、守るのは意外と難しい。
職場を去るというのは男にとって、それまで築き上げた人生の基盤を根こそぎ失うに等しい。
現役の間、楽しく思えた娯楽の殆どが何時の間にか魅力を失い、味気無く思える。想像以上に気持ちは落ち込み、夜も十分眠れない。
色々と退職後の予定を立てていたのに、第二の人生を堪能する所ではなかった。
退職後、三か月で兼弘は半ば自室へ引き籠るようになる。終日寝て暮らし、何を聞かれても適当な返事で妻の神経を逆撫でするだけ。
にも関わらず、夜になったら何故かヘトヘト。
始めは優しく嗜めていた妻の口調が、次第に皮肉っぽくなり、何時しか毒舌の嵐になったのも無理はない。
でもさ、長いつきあいなんだし。こっちの辛さを察してくれても良いンじゃね~の?
36年も食わせてやったんだぞ!
心の声はそう叫ぶ。勿論、現実には何も言えず、口の奥で罵詈雑言をこねくり回すのが関の山なのだが……
読んで頂き、ありがとうございます。
どうしても書けない時期がしばらく続いておりましたが、環境を立て直し、もう一度頑張っていきたいと思います。
読んで下さる皆さん、これからも宜しくお願い致します。




