72.退院の日
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すう、と大きく息を吸い込んだ。
いつもの病室、いつもの朝。
だけど今日は、ここから見える澄み渡った空と同じように、俺の心は凪いでいた。
今日は三月十六日。
退院……する日だ。
荷物を全部片付けて待っていると、母さんが迎えに来てくれた。
退院の手続きを終えて、母さんは何回かに分けて荷物を運んでいってくれる。移植前に随分減らしたつもりだったけど、それでも車いっぱいになるくらいに荷物は多かった。
清潔室を出る前に、斎藤守・田内ユキ・今崎桃花に挨拶していく。
「ハヤトお兄ちゃん、またなー!」
「おう、またなー!」
守は、入院してきた時に比べたら、やっぱり大きくなった。途中痩せてた時もあったし、これからもまだまだ大変だけど、持ち前の明るさがあれば乗り越えられるって信じている。
「退院おめでとうございます、ハヤトお兄ちゃん」
「ありがとな! 守とユキを頼んだぞ。なんか困ったことやつらいことがあったら、いつでも電話してこい」
そう言うと、桃花は少しだけ照れ臭そうにコクンと頷いている。桃花はしっかりしてるけど、母親が常にそばにいない分、寂しい思いをしているはずだ。ちゃんと気にかけてやらないとな。
そして俺は最後にユキの方を見た。相変わらず何も喋らず、ジッと俺を目だけで見上げている。
ユキの顔は、どこか不安そうで。その視線に合わせるように、俺は膝をついた。
「ユキ」
「……」
「大丈夫だから、心配すんな」
「……」
「桃花も守もいるし。お母さんもいるだろ?」
「……」
「また会おうな! 俺が計画を立てるから」
「……」
「電話を掛けてきてもいいんだぞ。あ、でもその時には喋ってくれよな!」
そう言った瞬間、ユキの顔がふにゃっと崩れた。
あっ、と思った時には、ユキの目から涙が溢れ落ちていて。
「ふえ、ふええぇええっ」
「ユキ!?」
泣かせてしまったことに驚き、田内さんに救いを求めて視線を向ける。すると田内さんは少し苦笑いして言った。
「ごめんなさいね。ユキ、ハヤト君がいなくなるのが寂しいみたいで……一昨日からずっと泣きそうになってたの」
「ええ? 本当に?」
視線を田内さんから戻すと、くしゃくしゃな顔から涙やら鼻水やらが流れ落ちている。
ユキは桃花と仲が良かったし、俺のことなんてどうでもいいのかと思ってた。でもそうだよな。一緒に遊んだり、裕介の誕生日サプライズを計画したり。楽しかったよな。
「うえ、ふえぇええ……っ」
「ありがとな、ユキ。先に退院しちゃって、ごめんな」
「ううう……ハヤトお兄ちゃん〜……っ」
ズルッという鼻のすすり上げる音と共に、ユキの口から言葉が発せられた。
俺の名前を──今、初めて。
「ユキ……ッ」
ヤバイ、泣きそうだ。めちゃくちゃ嬉しい。
「退院したら、また会おうな! ユキが退院するの、待ってるからな!」
「うん〜っ」
なんとか涙を堪えてユキの頭を撫でると、ゆっくり立ち上がった。
あれだけ出たかった病院なのに、どこか名残惜しい。
「じゃあな、みんな」
「お世話になりました」
俺の言葉の後で、母さんがみんなに頭を下げている。
田内さんと斎藤さんも頭を下げた後、俺に『バイバイ』と手を振ってくれた。
「ハヤトお兄ちゃん、バイバーイ!」
「退院したら連絡しますね」
「ひっく……ひっく」
守と桃花とユキに手を振り、俺は清潔室を出る。
声には出さなかったけど、みんな頑張れって……絶対に良くなれって、そう願いながら。
清潔室を出てナースステーションに向かうと、園田さんが俺たちに気付いて駆け寄ってきた。
「颯斗君、退院おめでとう〜!! よく頑張ったね!!」
「あ、ありがとう園田さん」
それを皮切りに、多くの人が集まってきた。
「わー、よかったねぇ、颯斗君!」
徳澤さんはとびっきりの笑顔だ。本当に俺の退院を喜んでくれているのがわかる。
「つらいこともいっぱい耐えてきたもんね。しばらくは気をつけて生活してよ!」
嬉しくてたまらない、と言った表情なのは仲本さんだ。彼にもめちゃくちゃお世話になった。
「色々あったけど、退院まで漕ぎ着けられてよかったです」
看護師長の盛岡さんも優しく笑ってくれている。
「颯斗君、これからはいっぱい笑おな! 笑うのがガンに効くって、あれ嘘じゃないんよ。笑って過ごそな!」
大きな声は、いつもニコニコ大谷先生だ。
みんながなにかを言ってくれるたびに、母さんは頭をへこへこ下げっぱなしだ。
「なんだよ、小林先生はなにも言ってくれないのかよ?」
後ろにいた小林先生に文句をいうと、いつも通りニヤッと笑って前に出てきた。
「どうせ一週間後に診察室で会いますし」
「ちぇ、そうだけどさ」
「冗談ですよ。これは小児病棟から、お祝いです」
小林先生はそう笑えない冗談を言って、なにやら点滴ポールを取り出してきた。
点滴ポールがお祝い? マジで笑えない……
「あれ持ってきて」
小林先生がそう言うと、看護師さんの一人が金色の紐付きボールのようなものを持ち出してきた。そして点滴ポールにそれをつりさげている。
まさか、それって?
「はい、引っ張ってください?」
いつもより二倍増しのニヤけ顔の先生が、そう促してきた。俺は迷わずにそのボールから出た紐を、思いっきり引っ張る。
「「「颯斗君、退院おめでとうー!!」」」
そのくす玉が割れると同時に、多くの声が響いた。
くす玉からは『颯斗君、おめでとう』と書かれた紙が垂れている。
「ははっ、なんだこれ!! マジかー!! ありがとう!!」
まさか、こんなことをしてくれるとは思ってもいなかった。先生も看護師さんも、みんな笑顔で退院を祝ってくれる。
園田さんが紙をクルクルと巻いたかと思うと、くす玉の中に戻して俺に渡してくれた。
「はい、これは私たちからのプレゼントね! 持って帰って遊んで!」
「っぶ、こんなのでどうやって遊ぶんだよー! あ、香苗は喜ぶかな」
俺は金色のくす玉を手に取り、鞄の中に仕舞った。こんなプレゼント貰ったのは初めてだ。めちゃくちゃ笑える。
「退院の記念に、写真でも撮っとく?」
「うん、撮りたい!」
園田さんの提案が嬉しくて、俺は即座にお願いした。母さんがカメラを出して撮ってくれる。
個別に何人かの看護師さんと写真を撮ったことはあったけど、こんなに大勢の集合写真は初めてだ。
「撮りますねー。はい、チーズ!」
母さんの古典的な言葉と共にシャッターが切られる。すぐにデータを確認すると、みんなすごい笑顔で楽しそうだった。
「みなさん、長い間お世話になりました。本当にありがとうございました」
母さんが深々と頭を下げている。看護師さん達は、母さんにまで労いの言葉を掛けてくれていた。
「園田さん、本当にありがとう。徳澤さんも仲本さんも、先生も、みんな……」
「退院しても、通院に来た時には病棟に顔を見せに来てね!」
「うん、わかった!」
担当看護師の園田さんには、本当にお世話になった。
いくらお礼を言っても足りない。
「ありがとうみんな!! また顔見せに来るよ」
「約束ねー!」
「颯斗君、バイバイ!」
「気をつけて帰ってねー」
みんなに礼を言ってナースステーションを離れると、今度はプレイルームに足を踏み入れる。
志保美先生と沙知先生、この二人の保育士さんにもすごくお世話になった。
「志保美先生、沙知先生、俺、今から退院するー」
そう声を掛けると、すぐに二人は寄ってきてくれて。
「わー、よかったねハヤト君! 退院おめでとうーー!」
「よく頑張ったねぇ、長い間……本当に……」
いつも明るい沙知先生と、涙もろい志保美先生。志保美先生はもう涙目だ。
「沙知先生、志保美先生、本当に今までありがとう! 診察に来た時に、また顔出すよ」
そう言うと喜んでくれるかと思ったのに、志保美先生は目に涙を溜めて首を横に振る。
「もういいの、私のことなんか忘れて大丈夫。長い期間、つらい時を過ごしたことを思い出させるくらいなら、私のことなんかどうぞ忘れちゃって」
その言葉に、今度は俺が首を振った。志保美先生は、俺がガリガリになって動けなかったり、なにも食べられなくなったり、便が出なくて苦しんでた時のことも全部知ってくれている。だから、こんな言葉が出てきたんだろうってことはわかる。
わかるんだけど。
「忘れないよ、俺。秋祭りとかさ、クリスマスとか、裕介の誕生日とか……楽しいこといっぱいあったよ! 忘れたら勿体ないじゃん。だから、志保美先生のことも絶対忘れないからな! 俺のことも忘れないでくれよ!」
心からの言葉を伝えると、志保美先生は感激したようにウンウンと首を縦に振ってくれた。
そりゃあ、入院中は楽なこと、楽しいことばかりじゃなかったけど、それでも俺にとっては大事な思い出だ。絶対に忘れたくない。
「沙知先生も、俺のこと忘れんなよ!」
「おっけー、忘れないよ! 勉強頑張ってね!」
「っう、それ言われるとつらい……ッ」
俺が言葉を詰まらせると、二人の保育士さんは「あはは」と声を上げて笑った。
最後にありがとうの言葉を述べると、プレイルームを後にする。
そして俺は、とうとう小児病棟の扉を開けた。
前回の外泊から、もう四ヶ月もここを出ていない。ガラスの扉一枚が、めちゃくちゃ遠かった。
まだ完治したわけじゃない。これからどうなるかもわからない。
でも、寛解という病気の症状がほぼなくなっている状態なのは確かだ。
扉を開けて、一歩。
その一歩が、大きな前進に思えて。
俺は込み上げそうになったものを、必死に抑え込んだ。




