70.退院と入院
三月九日。
外はいい天気だ。今日は退院日和だな。
気温はどれくらいかわからないけど、三月だからそこまで寒くはないだろう。春はもう、すぐそこまで来ているはずだ。
「ハヤトおにちゃー」
「ハヤトくーん」
二人の声がして、俺は病室を出た。大荷物を抱えていて、病院を出る準備は万端のようだ。
「おー、退院おめでとう裕介!!」
「ありあとー!」
裕介の点滴はもうなかった。身軽になった体は、嬉しそうにぴょこぴょこ飛び跳ねている。
「ハヤトくん、長い間本当にありがとうね!」
「俺の方がだよ。木下さんが買い物に行ってくれるお陰で、すげー助かったし」
「私も、裕介の面倒を見て遊んでくれる人がいてよかったよ。先に退院しちゃってごめんね」
「だいじょぶ、俺もすぐに退院するから」
本当は俺の方が早く退院するはずだったんだけど、黄色ブドウ球菌のせいで抜かされてしまった。でも、代わりにこうやって裕介を見送れたんだから、良しとするかな。
「ハヤトおにちゃ、こえ、おてまみー」
「ん? 手紙? おー、サンキュー!」
「これは私から、りんごジュース」
「わざわざよかったのに。でもありがとう!」
裕介から手紙を、木下さんからりんごジュースを受け取る。
住んでいるところも違うから、今までのようには会えなくなるだろうけど、連絡は取り合っていきたいな。
「もう行くのか?」
「うん、みんなに挨拶も済ませたし、今から帰るね」
「そっかー、気をつけて帰るんだぞ、裕介! 風邪ひかないようにな!」
「うんー! ばいばい、ハヤトおにちゃ」
「バイバイ!」
「ハヤト君もあと少し、頑張ってね!」
「ありがとう!」
二人はニコニコ顔で手を振ると、清潔室を出ていった。
長い入院で、最初は泣き虫だった裕介が成長してたな。俺もこの入院で健康のありがたさを知ったし、人の優しさも身に沁みた。自分一人で生きているんじゃないってことが、よくわかったつもりだ。
長期入院していると、なにかしら学んでいくものがあるんだろう。この気持ちを忘れないようにしないとな。
裕介からの手紙を開けてみると、絵が描いてあった。多分俺と裕介のイラストかな。二人で手を繋いでニコニコしている。
上手いとは言えない絵だったけど、心は十分に温かくなれた。またいつか、病院以外で会えるといいな。
そうして裕介が退院して行った翌々日のことだ。知った顔が入院してきたのは。
「ハヤトお兄ちゃん!」
「ま、守!?」
そう、すでに退院したはずの斎藤守だった。すごい元気そうなのに、どうしたんだ?
「久しぶり〜、ハヤト君」
「え、なに、再発……?!」
焦る俺に、守の母親の斎藤さんは「違う違う」と手を横に振る。
「うちは骨髄移植も臍帯血移植もしなくて済んだから、その代わりに数ヶ月に一度、ワンクールの抗がん剤治療が必要なの」
「あ、そういえばそんなこと言ってたな……じゃあまた一ヶ月くらい入院?」
「そうなのよ」
一度退院してからまたワンクールの入院とか……めちゃくちゃ大変そうだ。大荷物を部屋へと運び入れている。
今回の抗がん剤が終わっても、また数ヶ月経ったらワンクールの治療を受けに来なくちゃいけないらしい。
ようやく生えてきてる守の髪の毛だったけど、また薄くなっちゃうんだろうな。
「でも一ヶ月だけの入院を繰り返すって大変だな」
「そう〜! 聞いて! 私、前回の入院では仕事は休職扱いにしてもらえたんだけど、今回は駄目でクビになっちゃってね……仕事がなくなったら、下の子の保育園も通わせてもらえなくなっちゃったの〜」
「ええ!? なんだそれ??」
そういえば、世の中は待機児童問題とかで騒がれているっけ。両親が働いている人優先だって聞いたことがある。
そりゃ、斎藤さんは働いているわけじゃないけど、子どもの面倒を見られるかって言われたら、普通に働いている人よりも見られない。だって、ここにいたら会うことすらできないんだからな。
斎藤さんは疲れたように言葉を漏らす。
「状況を話して、大分掛け合ったんだけどね〜……特別扱いはできないって言われて」
「じゃあ守の弟は、今誰が面倒見てんの?」
「私の実家で見てもらってる。県を跨いでるから遠いんだけどね。旦那は仕事があるからそっちにはいけないし、家族みんなバラバラだよ……」
前の入院では、保育園に下の子どもを預けて、すべて旦那さんが送り迎えやお世話もやっていたみたいだ。でも今回は斎藤さんの仕事がなくなったから、保育園にはいられなくなってどうにもできなくなったらしい。
「両親も年老いてるし、子どもも家族と離れて暮らすのは申し訳ないんだけど、仕方なくって。こんな状況で仕事を見つけるのも大変だし……」
数ヶ月のうちに、一ヶ月間も休みを取らなければいけない人を、雇ってくれるところは少ないんだろう。
ちょっとしたことで再入院もあるし、長期化する恐れもあるんだ。保育園は、病気の子を持つ親を共働き扱いと同じくらいに優遇してくれてもいいと思うんだけどな。働く人のためだけの保育園じゃないだろうに。
俺がどんな顔をしたらいいのかと悩んでいると、「ごめんね、愚痴っちゃって」と斎藤さんは明るく言った。
斎藤さんは明るい人だけど、そりゃ愚痴りたくなる時だってあるよな。理不尽なことだったら尚更だ。
「希望者は全員、入園できるようになればいいのになー」
「本当だね〜」
結局無難なことしか言えなかったけど、斎藤さんは胸の内を吐き出したからか、ようやく笑ってくれた。
「ハヤトお兄ちゃん、遊ぼうよー!」
話終わるまでちゃんと待っていた守が、俺を誘ってくる。
「よし、じゃあプレイルームに行くか!」
「やったー!」
「ハヤト君、いいの?」
「うん、斎藤さんは入院の準備とか部屋の片付けとかあるだろ。俺、守と遊んでるからやってていいよ」
斎藤さんの「ありがとう」の言葉を背に、俺たちはプレイルームに向かった。
俺にできるのはこれくらいしかないからな。また家族と離れ離れになった寂しさを、少しでも紛らわせてあげられればいいんだけど。
そんな風に思いながら、俺は守と遊んでいた。




