64.謝罪
ピロリロン、ピロリロンといつもの音が鳴る。いっつも、寝る前のこの時間に鳴るんだよな。もちろん、朝も昼もしょっちゅう鳴ってはいるんだけど。
俺はナースコールを手に取って、カチリとボタンを押した。電話のようなトゥルルルって音がして、すぐに誰かが取ってくれる。
『はい。あ、点滴交換ですね』
「うん、お願い」
『すぐ行きまーす』
それだけで通話はすぐに切られる。いつまでもピロピロうるさいから、勝手にポチっと消音の所を押して切ってやった。
本当は素人がいじっちゃいけないのかもしれないけどな。でも今までに文句を言われたことがないので、勝手に消してしまってる。少ししたらまたピロピロなってくるんだけど。
それから次のピロピロがなってくる前に、園田さんと徳澤さんコンビが来た。新しい点滴を二人で確認し合って滴下してくれる。
それを横目で見ながら、山チョー先生特製のプリントをこなしていた。
「勉強頑張ってるねー」
「うん、夜の方が捗るんだ」
「朝にやるのも結構いいもんだよ?」
「ええ〜……朝っぱらから勉強したくないんだよなぁ」
そう言うと、二人に笑われてしまった。前は朝にやってたこともあったけど、結局は朝のうちは運動の方が俺には合ってる。まぁここじゃあ運動もできないけど。
「じゃあ、電気つけとく?」
「んー……いや、消しといて。もう疲れたから寝る」
「わかった。じゃあおやすみ、颯斗君」
「おやすみなさい、園田さん、徳澤さん」
勉強していたものをバサッと無造作に机に置いやり、ゴロンと寝転ぶとパチンと電気が消された。でも、扉から漏れる廊下の薄明かりが、室内のカーテンを通しているから真っ暗闇じゃない。
大欠伸をひとつすると、俺はそのまま目を瞑った。
それからどれくらいの時間が経ったのか、コソコソとする人の声で目が覚める。チラッと片目を開けてみると、ペンライトがユラユラ揺れていた。どうやら看護師さんが点滴を見ているみたいだ。いつもの確認かな。なんかいつもよりうるさいけど。
それでも俺は睡魔の指示に従って、そのままもう一度眠りについた。
朝の光は、シャッターカーテンの隙間を掻い潜って俺の顔に当ててくる。
お陰で目覚ましがなくても、大抵いつも同じ時間には目が覚めた。
「ふあぁああ……トイレ……」
昨日は夜中にトイレに行かなかったから、膀胱がヤバイことになってる。点滴入れてると、どうしてもトイレの回数が増えるんだよな。
ベッドを降りて靴を履き、トイレに向かったその時だった。
バリッ
変な音がして、足元を見る。なにもない……けど、一箇所だけ歩くとバリバリ音がして、靴の裏が床にくっつくように足を取られる。
「なんだこれ??」
昨日までは、なかったよな?
「ってヤベ、漏れるっ」
俺は慌ててトイレに駆け込んで用を足した。
朝の検温で看護師さんが来てくれた時に聞いてみたけど、「後で先生の方から説明があるから」と教えてもらえなかった。何なんだろう、めっちゃ気になる。
その先生が、朝の回診の時にやってきた。いつもは小林先生か大谷先生のどちらかなのに、今日は二人もお出ましだ。しかも看護師長の盛岡さんまでいるし……なんだ、なにがあったんだ??
二人とも神妙な顔をしてるから、余計不安になる。
ベッドの頭側に回ろうとした大谷先生の靴が、バリッと音を立てた。
「ああ、ここかぁ……」
いや、だから納得してないで、それがなんなのか教えてくれよ。
「これなぁ、気にならんかった?」
「いや、気になるよ! めちゃくちゃ朝から気になってるしっ!!」
そう訴えると、俺の言い方が可笑しかったのか。大谷先生はちょっと笑った後で眉を下げた。その隣で小林先生が説明してくれる。
「昨日の夜中に、点滴が漏れていたんですよ」
「え、漏れ……っ!?」
その言葉に、俺は慌てて自分の体と繋がっているカテーテルを確認する。抗がん剤が漏れて皮膚に着くと、壊死するって聞いた。最悪皮膚移植だって……。
「ああ、そうじゃなくって、点滴の袋自体に破れがあったってことです」
「袋に?」
首を傾げると、今度は盛岡さんに説明が代わる。
「昨日の夜、巡回に来た看護師が床に雫が落ちているのに気付いて、すぐにその点滴を回収して取り替えました」
あ、だから昨日ゴソゴソうるさかったのか。
「その点滴が栄養剤だったから、こんなベタベタするんよ。ほとんどブドウ糖みたいなもんだしなぁ」
ああ、破れてたのは栄養補給のための点滴だったのか、よかった。なんか大切な薬だったりしたら、やっぱ気になるもんな。
あんまり食べられなくて体重が落ちてた時に始まった栄養剤だ。もうちゃんと食べられるようになったし止めようかって言ってた物だから、特になくても問題はない。
小林先生もベタベタしているのを確認してから、俺の方を見た。
「後で清掃の方に綺麗にしてもらうよう頼んでおきます」
「うん、ありがとう」
「また後で、薬剤部の人と来るから、もう一回ちゃんと説明させてな」
え? 今の説明で俺は十分だけど。ベトベトしてる理由がわかったし。まぁでも、説明してくれるって言うなら聞いておくか。
そんな朝の会話が終わり、またみんながやって来たのはそれから七時間も経ってからのことだった。
すっかり忘れて裕介やユキ達と遊んでいたところに、ぞろぞろと清潔室に人が入ってくる。
「ちょっと今いいですか、颯斗君」
「あ、うん……」
「じゃあちょっと、部屋の中へ」
「わかった。ちょっとごめんな、裕介、ユキ」
そう言って俺は病室に入り、ベッドの上に腰を掛けた。入って来たのは小林先生、大谷先生、盛岡看護師長に、知らない男の人。それに園田さんと徳澤さんだ。
目の前にズラッと並ばれると、ちょっと緊張してしまう。
「こちら、薬剤部長の菅原さんです」
小林先生の紹介に菅原さんは丁寧に頭を下げてくれる。
薬剤部長……部長?! なんか偉そうな人が出てきたな。いや、態度は全然偉そうじゃないけど。
「菅原です。この度は大変ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
え、ちょっと待て。俺みたいな中学生に、なんでそんな改まってんの?
どう反応していいのかわかり兼ねて、助けを求めようと小林先生に目を向ける。
と、ここでみんなが俺に頭を下げていることに気付いた。全員……全員だ。
大谷先生も、小林先生も、盛岡さんも菅原さんも、園田さんも徳澤さんも、全員。
なにこれちょっとどういう状況? 俺はなんて言えばいいわけ?!
どうしていいのかわからずに固まっていると、顔を上げた菅原さんが真面目な顔で俺を見る。
「薬剤部の方で入念に調べた結果、薬物等が注入された痕跡はありませんでした」
薬物……? あ、穴が空いてたってことは、誰かになにかを入れられてたかもしれないと考えたのか。なるほど〜、考えもしてなかったな。
確かにそう考えると笑い事じゃない。劇薬とか入れられてたりしたらと思うと……ゾッとする。
そっか……点滴の袋が破れるって、怖いことだったのか。なんもなくてよかった。
ほっとしていると今度は小林先生が口を開く。
「薬剤部の方で、そうとう経路を辿ってくれたんですが、破れた経緯は特定できませんでした」
「申し訳ありません」
「薬剤部からここまで運ぶまで、どの経路を辿ったか、誰が関わったか、放置している時間はなかったか、そうとう聞き込みしてくれたんですが……」
小林先生は難しい顔をしている。いや、もう十分だけど……変な薬を入れられてたわけじゃないし。
「小児科に来てからでも、調べてみたけど原因がわからなくて」
盛岡さんは申し訳なさそうに眉を下げて。
「壁に当たってスレて破れた、のかもしれんし……うーん」
大谷先生は眉間にしわを寄せてしまった。破れた理由って、そんなにそこまで重要か??
「ちゃんと目視して、破れがないか確認したつもりだったんだけど……ごめんね、颯斗君」
「ごめんなさい」
園田さんと徳澤さんに、また頭を下げられてしまう。
ちょっと待て。見ただけでちょっとした破れを見つけるとか、絶対無理だろ! ダバダバ流れ出るくらいの破れならまだしも!
結局何事もなかったんだから、もう笑い話ではよくないか?! ってかそもそもなにを謝ってんのかわかんねー! だって誰も悪くないし!!
「申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
いや、だから俺……どうすりゃいいの!
「も、もういいから……やめてくれよ……っ」
「ご両親には、僕の方から連絡を入れて説明しておきます」
「いやいやいやいや!? 別になんにもなかったんだし、言う必要なくないか??」
「そういうわけにはいかないので」
小林先生が真面目な顔で言う。そういうわけにはいかない理由が俺にはわからないんだけど……。
報告するって、点滴に破れがあった、でも俺の体にはなんの影響も心配もないってだけだろ? それって報告する意味なくないか? ……まぁ、もう好きにしてくれ……。
先生達は俺の許しを得ると、またぞろぞろと部屋を出ていった。
その後しばらくして、母さんから連絡があった。
でも「そんなことがあったのー、あはは」だけだった。母さんも緊張感ないよな。
先生達は形だけでも謝罪しておかなきゃいけなかったのかもしれない。俺も母さんも、なにもなきゃ訴えたりしないんだけどな。
なんにしても、大人六人にあんなに頭を下げられるなんて経験は、二度としたくない。もうたくさんだ。
今日はなんか疲れたー。
なんとなく、点滴が床に垂れてないかを確認してから、俺は布団に潜り込んだ。




