58.裕介の臍帯血移植
俺は「ううーん」と腰を伸ばした。
勉強を終えたばかりのペンを無造作に机に落とし、気分転換にと病室を出る。
今日はいい天気だ。窓からの景色は、抜けるような青い空を見せてくれている。暖かい光に誘われるように外の景色を見ていたら、後ろから声を掛けられた。
「お、おっはよーはよー、颯斗くん!」
「おはよう、大谷先生」
相変わらずテンションの高い先生だ。その後ろには小林先生、そして看護師さんも二人いる。
みんなはそれぞれに消毒を始め、使い捨てのエプロンやキャップや手袋をし始めた。この入念さは、裕介の所へ行くからだろう。それにしても、先生が二人揃っての入室は珍しい。
「あ、そういえば……裕介の臍帯血移植、今日だったな」
「そうそう。臍帯血移植は骨髄移植と違ってすぐ済むんだけどね。必要なものだけを取り出してるから、カテーテルから注射みたいに入れるだけで済むんよ」
「そっか」
俺の時は点滴で落とす感じだったからちょっと時間がかかったけど、臍帯血の場合はもう必要な細胞だけ抽出されているから早いみたいだ。
準備が整うと、先生たちは裕介の病室へと入って行く。カーテンが引かれて中は見えないけど、俺は小窓から覗くように裕介に声を掛けた。
「裕介、おはようー!」
そう言うと、中から「ハヤトおにちゃだ」「返事して」という木下さんとのやりとりが聞こえてくる。
「おにちゃ、はよー!」
「よし、元気そうだな。今から移植、頑張れよ! ここで見守ってるからな!」
「ありあとー」
顔は見えないけど、声だけは元気そうだ。まぁ、移植自体は無事に終わるだろう。大変なのは、その後だからな。
それからしばらくは、先生たちが準備をしているようだった。
「じゃあ、始めるよー。これを入れるだけで、すぐ終わるから頑張るんよー」
大谷先生の明るい声が聞こえる。廊下で待つだけって、大丈夫ってわかってても落ち着かないな。もう入れてるのかな。
そう思った瞬間、裕介の凄まじい叫び声が耳に飛び込んできた。
「ぎゃあああああああっ! まじゅい、まじゅいーーーーッ」
まじゅい……不味い? まさか、飲み物じゃないよな。カテーテルから入れるって言ってたし。
その不可思議な叫び声に、俺は眉を寄せた。中では木下さんも同様に疑問に思っているようで、「まずいの??」と不思議そうな声を上げている。
「木下さん、匂いわかりますー?」
「匂い? わ、本当……なにこの匂い……っ」
なんだろう、と思った瞬間、異臭が鼻をついた。すごい、廊下にまで臭いが漏れ出してきてる。
「臍帯血移植をすると、これが口臭となって出てくるんですよー。それで苦いとか不味いとか言う子は、結構いますねぇ」
「うああああああ、まじゅ、まじゅいいいっ」
「もうちょっとで終わるから、我慢しよなぁ。もう終わるもう終わる……はい終わり! よぉ頑張った!!」
終わり、の言葉に俺は目を広げる。始めるって言ってから、一分も経ってないはずだ。本当に一瞬で臍帯血移植は終わった。
けど終わった後も裕介は「まじゅいまじゅい」とぐしぐし泣き続けている。
「終わったって、よかったね裕介!」
「うえ、ええええ……っ」
「しばらく口の中が気持ち悪いと思うけど、徐々に治ってくるんでね。心配ないですよー」
大谷先生の言葉に木下さんは礼を言って、裕介をあやしているようだった。少しして先生や看護師さんたちが病室から出て来る。
開けられた扉から流れ出てきた空気が、また強烈だった。
なんだろう、この匂い。えずくような感じじゃないんだけど、すべての医薬品をかき混ぜたような、妙な匂いだ。
こんな匂いが口から出てきたら、そりゃあ不味いに決まってるよな……。俺は思わず扉に向かって声を掛ける。
「頑張ったな、裕介! 偉かったぞ!」
「ぶぇぇええ……っ」
吐き気や痛みも嫌だけど、苦いのや不味いのもつらいよな。四歳児だったら泣くのも当然だ。俺みたいに味覚障害にならなきゃいいんだけど……。
扉一枚隔てた向こう側だと、俺にはなにもしてやれることはなくて。なにかをしてあげたくてもできない自分が、すごく歯痒かった。
なんか、裕介のためにできることがあればいいんだけどな。
そうは思っても中々すぐには考えつかず、俺は裕介の泣き声を背に自分の病室へと戻るしかなかった。




