7.虹の草原
丘の上の草原には、たくさんの動物がいました。
いろいろな動物です。
色々な種類のトリ、ネコ、イヌ、ウマにウシ、何とライオンなんかの肉食の獣までいます。大きい所だとゾウやクマもいます。大きなトカゲやイグワナもいます。小さい方だと、ゼニガメや、フェレットや、ハムスターもいて、ウサギなんかと追いかけっこをしています。
そして驚いたことに、人間もたくさんいるのです。それも、サクラのように小さなサイズではなく、人間本来の大きさのままです。
人間たちは、草原の動物を撫でたり、抱きかかえたりしています。
そして、草原の奥には、本当に橋がありました。
金の帽子をかぶった、真っ赤な欄干の、虹色の橋です。
滝は、その橋のすぐ横に落ちていました。
白くけぶる滝のしぶきが、虹の橋を濃く映し出し、きらきらと輝いています。
ヒナは草原に降り立ちました。
サクラも、草の上に降ります。
すると、サクラの身体は、みるみると大きくなってゆき、いつもの大きさに戻りました。
ヒナは、サクラの洋服をよじ登って、いつもの定位置――サクラの肩に移動しました。
サクラは、肩のヒナの翼を撫でつけながら、何となく、虹の橋に向かいながら草原を歩きました。
「ここは、どんな場所なの?」
サクラは、ヒナに聞きました。
「人肌が恋しい動物が来る場所よ。死んだあとで、もうちょっと撫でてほしいとか、そう思ってる動物は、ここに集まってくるわ」
「ライオンとかいるけど……」
「撫でてほしいライオンなんでしょ」
「そうなんだ」
そうして歩いていると、サクラの元に、一頭のウマがやって来ました。栗色の毛並みのウマです。ウマは、サクラの元までやってくると、その尾をサクラの足に絡ませて、首を、サクラの身体にこすりつけました。
サクラは、無意識に、そのウマの首や体を、撫でてやりました。
馬は、優しげな瞳を気持ちよさそうに細くてして、うっとりしていました。
ヒナも、馬の背に乗って、毛づくろいをしてやりました。
しばらくそうしていると、ある時、ウマは、サクラに一礼をすると、くるくると二週ほど、サクラの周りを回りました。そしてそのウマは、どどっ、どどっと腹に響く足音を響かせながら草原を走り抜け、虹の橋を渡っていきました。やがて馬は橋の奥、けぶるしぶきの霧の中に消えてゆきました。
「満足すると、みんな、橋を渡っていくのよ」
ヒナが言いました。
「橋の向こうって、どこに繋がってるの?」
「行けばわかるでしょ」
「ヒナも、行っちゃうの?」
「そのつもりだったけど、お姉ちゃんを待つわ」
「お姉ちゃんって、お姉ちゃん?」
「そ。サクラに撫でてもらえたら行こうと思ってたんだけど、やっぱりお姉ちゃんにも撫でてもらわないとダメよ。もうちょっと待つわ」
「お姉ちゃんも、ここまで来させるの?」
サクラが聞くと、ヒナは高い声で笑いました。
「今回は特別。たまたま、魔女のチョコレートを盗めたから、呼んだのよ。お姉ちゃんは、普通に待つわ。お姉ちゃんの寿命までね」
そっか、とサクラは頷きました。
それから、蜘蛛にもらった最初のあのチョコレートが、ヒナが魔女から盗んだものだということを知り、サクラは驚きました。魔女が怒るのも当然の様な気がしました。
「大丈夫なの? 魔女、怒らせちゃって」
「大丈夫、大丈夫。ほら、あれが魔女よ」
ヒナの視線の先には、一人の老婆がいました。
ウシを撫でつけ、肩にオウムとヒタキを乗せ、空いているもう片方の手で、足元のウサギの頭を撫でています。その姿は、おとぎ話の挿絵に現れる様な、かぎ鼻の恐ろしい姿ではなく、年配の飼育員という感じです。着ているのも、黒いワンピースではありません。とんがり帽子もしていません。
魔女は、ヒナの視線を感じたのか、サクラの方を振り向きました。
サクラは、息を呑みました。
また、何かの動物をけしかけられるかと思ったのです。
ところが、魔女はそんな事をするつもりはありませんでした。
「運の良いというか、しぶといというか、驚いた娘だよ」
魔女は、ため息交じりに言いました。
「生きたまま、勝手にここに入ってからに。全く、この泥棒インコめ」
魔女に言われて、ヒナは誇らしげに翼を広げました。
褒めちゃいないよ、全くと、魔女はぶつぶつ言いながら、牛に牧草を食べさせました。
「ごめんなさい、勝手に、入っちゃって。ここは、おばあさんの土地なんですよね」
サクラが言うと、魔女は、背中越しにサクラに言いました。
「別に誰の土地でも構いやしないがね、場所には場所の習慣って言うものがあるのさ。まぁ、今更言っても仕方がない。ここに来たからには、ちゃんと役目を果たしておくれ」
「役目?」
「ここにいる動物たちは、人間に撫でてほしいのさ。そうしてやっておくれ。人間ってのは、本当にろくでもないが、撫でる手だけは、他じゃ真似できない特別だ。それがなかったら、とっくに滅ぼしちまってるよ」
魔女の言うことが冗談なのか本気なのかサクラにはわかりませんでしたが、魔女の言う〈役目〉は、十分果たせそうだとサクラは思いました。
それからサクラは、ヒナを肩に乗せたまま、寄って来るいろいろな動物たちを撫でてやりました。ヘビやカエルなどの爬虫類もやって来ました。けれどもう、サクラにとって彼らは、友達でした。
そうしていると、時間はあっという間に過ぎてゆきました。
陽が沈みかけ、空が茜色に染まります。
山間に見える夕日の光は、左右の山肌を朱色に染めて、草原一面の草汁が、茜色の絨毯のように広がり、その草葉が、吹き下ろす風に振られて波打ちます。その模様の美しさは、人間の作るどんなものよりも、美しかったのです。
「さてと、ご苦労様」
再び、サクラの元に魔女がやって来ました。
その肩にはフクロウを乗せています。
「おばあさん、本当に――」
「構いやしないよ。たまに、いるんだ、あんたみたいなのが。それに見て御覧な、あんたに撫でてもらった連中、嬉しそうにしてるよ。本当にね、人間なんて馬鹿でくだらなくて、どうしょうもない生き物だが、撫でる手だけはねぇ、やっぱり、本物だねぇ」
魔女はしみじみとそう言いながら、サクラと並んで、夕焼けの最後を眺めました。
陽が沈み、空に夜のとばりが降りてくると、魔女はサクラに、例のチョコレートを一つ、渡しました。最初に、蜘蛛に貰ったチョコレートと同じものです。
「そろそろ時間だよ。あんたは、元の場所に帰んな。あんたはまだ、ここで夜を明かしちゃいけないよ」
サクラは、頷きながら、魔女からチョコレートを受け取りました。
「帰りはね、私のフクロウが、あんたを送ってくれる」
魔女が言うと、フクロウはうやうやしく、サクラに一礼しました。
これで最後かと思うと、サクラはまた、ヒナがどうしょうもなく恋しくなってきました。サクラは、両手でヒナを抱えるようにして、ヒナの柔らかい胸元に、顔をうずめました。
「寂しいよ。もう会えないんだね」
「暫くね。でもサクラ、元気を出しなさい。私がいなくたって、私があなたの中からいなくなるって事にはならないでしょ。私たちは、一回しか出会わなくても、どんなに離れてても、近くにいるわ。そうでしょ」
サクラは、涙を啜って、頷きました。
「じゃ、出発だよ。あんまりゆっくりもしてられないからね」
魔女がそう言った後で、サクラは、魔女のチョコレートを口に入れました。今度は、味わうよりも、一飲みにして。そうして次に目を開けると、サクラは、フクロウの背中に乗っていました。
隣には、また大きくなったヒナがいます。
「じゃ。サクラ、気をつけてね。お姉ちゃんによろしく」
「うん、わかった」
「それからサクラ、あなたに貰われる子は幸せよ。次の子にもよろしくね」
「うん」
サクラは、また出てきそうな涙を堪え、頷きました。
「では、参ります」
行儀のよいフクロウの声とともに、サクラを乗せたフクロウは、音もなく飛び立ちました。
もう夕日の名残は、山間の一部のみを残し、すっかり夜です。
その微かな夕焼けの後を追いかけるように、フクロウは虹の橋にふもとをあとにしました。
帰りの道は、フクロウの背中の、空の便です。
これまでの冒険が嘘のように、夜はどこまでも深々と続いています。
もうすっかり日は落ちて、海のどこにも日の名残りはなく、どこからどこまでが海で、どこからどこまでが空なのかわかりません。ただただ広がっているのは、夜の黒です。それでも、空が空と分かるのは、月の合間に月が見えるからでした。そして所々の薄い雲の隙間から、微かに星が光っているからでした。
フクロウの背中は快適でした。
今日は色々な生き物の背中に乗って来たサクラでしたが、フクロウの背中はその中で、一番柔らかく、暖かいのでした。羽ばたいて翼が風を切る音も、ほとんど聞こえません。
「帰るんだね」
サクラが呟くと、フクロウは、低い心地に良い声で応えました。
「えぇ」
「あなたの目には、海も、空も、良く見えるの?」
「そうですね。昼間よりは暗くはありますが、しっかり見えております」
「そっか。すごいね。やっぱり、すごい」
サクラは、しみじみとそう思うのでした。
小さくても大きくても、人間の自分は、ボーダーコリーのように臭いを見ることも、トリたちのように、風を見ることもできません。そしてトリの本当の、カラフルな世界を見ることもできません。
それに、蜘蛛やアリやムササビたちのように、素早く動くこともできません。ヌートリアやカメや、そしてコイのように、水中を自在に泳ぐこともできません。もしかすると彼らには、トリが風を見ることができるのと同じように、水の流れを見ることができるのかもしれません。
これまでも、動物が人間にはない特別な能力を持っていることは、知っているつもりでした。
それでも今は、これまでの〈知っている〉とは違う何かを、〈知った〉のだと、サクラは実感していました。フクロウの背中の上で、それを感じていました。
どれくらい経ったか、静かな暗闇の中に、明りが見えてきました。
人間の街の灯りです。
サクラの心に、ほっとしたような気持ちと、名残惜しい気持ちとが同時に沸いてきました。
車の灯り、外灯の灯り、家々の、ビルやマンションの灯り。人間の街は、確かに、人間の目には賑やかです。
「もうすぐ到着いたします」
「うん」
サクラは、頷きました。
それから、フクロウに訊ねました。
「また、あの島に行けるかな?」
「二度あの島を訪れた人間の話は、聞いたことがありません。生きている人間の話は」
フクロウはそう言うと、一つ間を置いて続けました。
「普通は、一度だって、生きてあの島に入ることは、できません。サクラ様は、本当に、珍しいお方でした」
「そっか。うん、本当に、楽しかった。怖いこともあったけど」
「それは良かった」
サクラは訊ねました。
「これは、もう、夢にならない?」
「えぇ。あなたが、そう望まなければ」
「望まない! 夢じゃなくて、ちゃんと、本当のことだって、ずっと覚えていたい!」
それを聞くと、フクロウは、ほっほっほと笑いました。
「覚えていてください。私たちは、あなた達人間の、そういう所が好きなのですから」
フクロウはそう言うと、いよいよ、高度を落とし始めました。
フクロウは、まるで空にレールがあるかのように、静かに、滑らかに、サクラの馴染みの街に降りていきました。近所の公園、そして神社が見えました。あの、蜘蛛とラグドールのファムが、待ち合わせおうぃていた神社です。
「フクロウさん、あの神社の、階段の手前でいいよ」
「かしこまりました」
フクロウは、すいーっと、神社の階段下に降下しました。
そうして、階段の脇の茂みの中に、降りました。
サクラは手綱を解いて、フクロウの下げた首から、地面に降りました。
「では、これを」
フクロウはそう言うと、羽毛の間から、小さな白いチョコレートを嘴で摘まんで、サクラに差し出しました。サクラ頷いて、そのホワイトチョコレートを受け取りました。
これを食べたら何が起きるのか、サクラにはもう、わかりました。
「フクロウさん、ありがとね。とっても、楽しかった。それに、飛ぶのすごく上手ね」
フクロウはサクラにそう言われると、恭しく頭を下げるのでした。
サクラはそうして、いよいよチョコレートを、口に放り込みました。舌の上にチョコを置いた、息を吸い込み、そして、一思いに呑み込みます。
次の瞬間、サクラは、もとの大きさに戻っていました。
サクラは、足元に、黄色い目のフクロウがいるのを見下ろしました。
フクロウは、ホゥホゥと鳴いて、音もなく夜の空に飛び立っていきました。
サクラは、フクロウの飛び立った夜の空に手を振りました。
神社らか家まで、サクラは夜道を歩きました。
蜘蛛に乗って、ゴキブリとカーチェイスをした道です。人間の大きさだと、何のことは無い、五分程度の道でした。
サクラが家に帰ると、家族の三人が、玄関から飛び出してきました。
皆、必死な顔をしていて、サクラは驚きました。
姉と母は、目を真っ赤にしていました。
「どうしたの?」
サクラは、きょとんとして訊ねました。
すると、まず姉が、サクラに抱き着いてきました。次に母が、大きな大きなため息をついて、その場に座り込んでしまいました。父はと言うと、「心配させるなよ!」と、弱った様な、怒った様な、変な声を出しました。
もう、夜は十一時を回るところで、サクラの家族は、警察にまで捜索を頼んで、サクラが帰ってくるのを待っていたのでした。サクラの服装は、粉やら泥やらで汚れていたので、家族は次に、サクラの身に何があったのかを心配しましたが、サクラはとりあえず、野生のインコを探しに行っていたと、言い訳をしました。
それで誤魔化せたかどうかはわかりませんが、その夜は、サクラはたくさん食べました。サクラはもう、ヒナのことで悲しんだりはしませんでした。




