4.東の島へ
サクラの乗っているオオミズナギドリの近くにも、たくさんの海鳥がいました。黒いのや白いのや、黒くて目が赤いのや、小さいの、大きいの、とにかくたくさんの海鳥です。魚もひっきりなしに飛び跳ね、エイの魚影が近くを通ります。
「ユリカモメ遊覧隊離陸、ウミネコはそこを横切らないでください」
「南南南西からの風ありー。水っぽいから気を付けて―」
「前方の稚魚たち、早くそこを離れてください、迷いガモを降ろします」
「北西上空に腹ペコのミサゴ、第一から第八シギ群は高度下げ、イソヒヨ全群は岩場待機、どうぞ」
ここはまるで、鳥たちの滑走路の様でした。
鳥たちはひっきりなしに、色々な情報を交換しながら、海から飛んで行ったり、空から降りて来たりを、次から次に繰り返しています。海がこんなに賑やかなのを、サクラは知りませんでした。
「海って、賑やかなんだね」
「そうよ。静かな所もあるけど、そういう所にはいかないわ」
「そうなの?」
「えぇ、退屈じゃない」
オオミズナギドリは、その黒い瞳を輝かせて、サクラを見やりました。
それが合図だったのかどうなのか、オオミズナギドリの周りにいたカモメたちが、一斉に飛び立ちました。飛び立ったカモメは、それが一つ生き物のように陣形を柔軟に変えながら、海面の低空を飛び回り始めました。
「危険なボラなし、アジもクリア、ウミネコどかしまーす!」
カモメたちは飛びながら、オオミズナギドリに何やら報告をしています。
サクラはオオミズナギドリの太い(今のサクラにとっては)首に手を回して伸びあがり、彼女に訊ねました。
「何してるの?」
「滑走路作りよ」
「ウミネコどかしました。上空、ハヤブサの鳥影なし。トビ旋回しています。姉さん、どうしますか?」
姉さんというのは、オオミズナギドリの事でした。
オオミズナギドリは、河口上空を回っている三羽の鳶を見やると言いました。
「予定通りいくわよ」
「カモメ了解、滑走警戒はじめますー」
カモメはそう言うと、サクラには聞こえない高い音で、他の鳥たちに、オオミズナギドリが離陸するのを伝えました。
「じゃ、行くわよ」
オオミズナギドリは楽しそうにそう言うと、折りたたんでいた大きな大きな翼をぐいっと伸ばし、羽ばたき始めました。少しずつ、オオミズナギドリの身体が前進し、徐々にその速度をあげていきます。羽ばたきも、だんだん激しくなります。
「サクラちゃん、しっかり掴まってるのよ」
オオミズナギドリはサクラに告げ、サクラは手綱をぎゅっと握りました。
パシっと、加速したオオミズナギドリは、その足で海面を蹴りました。
オオミズナギドリの身体と、羽ばたく翼は、海面ギリギリを飛び始めます。海の水が、滑らかなコンクリートのように見えます。速度を維持したまま、オオミズナギドリは海面を、薙ぐように飛びます。
サクラは息を呑みました。
ひとつ間違えれば、落ちてしまうのではないかと、サクラには思われたのです。
「あの風を捕まえるから、準備してね。ちょっと冷たいかも」
サクラには、〈あの風〉と言われてもそれがどの風が見当もつきませんでしたが、とにかく振り落とされないようにしようと、体を低くしました。
やがて、サクラが気づくと、オオミズナギドリは高度を上げていました。
「やっぱりちょっとまだ冷たいわねぇ。サクラちゃん、大丈夫?」
サクラは、ほうっと息をつきました。そうすると、急に気温が下がったのに気づきました。
「寒い……」
「ちょっと待ってね」
オオミズナギドリはそう言うと、背中の羽をふわりと持ち上げました。すると、サクラの身体は、ほとんどその中に隠れてしまいます。天然の羽毛布団です。一瞬前まで寒かったのはうそのよう、途端にサクラは、布団にくるまっているように温かくなりました。
「暖かい!」
サクラは、オオミズナギドリの羽毛を抱く様に、ぺたっと身体をくっつけました。そうすると、モモイロインコのヒナのことが思い出されます。ヒナの温かさも、同じような感じだったのです。
「ねぇ、お姉さん」
「どうしたの?」
「さっき、〈あの風を〉って言ったけど、風、見えるの?」
サクラが聞くと、オオミズナギドリは一瞬驚いたように頭をぴょこっと動かし、それからすぐに、高い声で笑った。
「あぁ、そうね、ごめんなさい! 人間は風が見えなかったわね。私、うっかりしてたわ」
「見えるの?」
「当然よ。今吹いてる風、吹いた後の風、吹く前の風、全部見えてるわ。それが見えなかったら、とても飛んでいられないじゃない」
それもそうか、と妙に納得してしまうサクラでした。それくらい見えていなければ、とても群れで飛ぶなんて言うことは、できっこありません。今も、気づけばカモメたちは、オオミズナギドリを先頭に、少しずつ形を変えながら、全体で矢じりのような形をとっています。
「見てみる?」
「え?」
「私たちの世界」
「そんなこと、できるの?」
「えぇ。本当はダメなんだけど、特別に、ちょっとだけね」
オオミズナギドリはそう言うと、今度はカモメに向かって言いました。
「カモメさん、この子にちょっと、アレやってあげて!」
「えぇ、いいんですか?」
「いいわよ、ちょっとくらい」
「わかりました」
そんなやり取りの後、矢じりの中にいた一羽のカモメが、しゅうっとオオミズナギドリに平翔し、その嘴だけを、くいっとサクラに向けました。サクラは驚いて仰け反りましたが、思い直して、体を元に戻しました。
カモメは、その嘴の丸い部分を、サクラの額に軽く小突きました。
ズンと、サクラは、自分の中に何かが入り込んだような気がしました。
そうして目を開けて、驚きました。
世界が、これまでの百倍はカラフルになっていたのです。
胡桃色だったオオミズナギドリの背中は、美しい青と赤と白のコントラストで輝き、白と灰色だけだったカモメの身体には、虹色の模様が入っています。しかもその模様は、それぞれのカモメごとに、全然違うのです。
鳥だけではありません。
青と、雲の白だけだった空には、今や全ての色がありました。緑の渦巻き、赤い粒粒の道、紫のらせんを描いて登る道、下る道。そして本当に、空に道がありました。いろいろな色の、幅も濃さも方向も違う、色々な動きをした道です。
「これ何! 私の目、どうしちゃったの!?」
「あっはっは、驚いたわよね。これが、私たちの観てる世界。風、見えるでしょ?」
「どれが風? これ、風の道なの?」
「そうそう。これだけ見えたら、サクラちゃんも飛べるかもしれないわね。あと、翼があれば」
翼があってもこれは難しそうだとサクラは思いました。確かに、道のようなもの見えるのですが、色も様々、形も様々で、そのどれが、どんな道なのか全くわかりません。そしてそれらの道と色は、刻々と変化しているのです。
サクラは思わず目を閉じました。
もっとこの世界を見ていたいとは思うのですが、目も頭も、パンクしてしまいそうにななるのです。サクラのそんな様子を見計らって、再びカモメがやって来て、サクラの額を突きました。
次に目を開けた時、サクラの目は、元に戻っていました。
空は青と、雲の白。
鳥たちも、もうカラフルではありません。
けれど、カモメの本当の色や、オオミズナギドリの本当の色を知った後だと、サクラは自分たち人間が、とても地味なように思えてくるのでした。
「お姉さん、これからどこに行くの?」
「東の島よ。人間も知ってる島」
「え、どこ?」
「呼び名が色々あったわね。私たちは東の島としか言わないけれど、ヨミ、だとか、ホーライだとか、トーゲンキョー? だとか、他にもいろいろあったでしょ?」
オオミズナギドリがそう言った後、カモメが、報告を入れました。
「メジロ来ました、合流します」
カモメの報告の後、一羽のメジロが、パタパタとせわしなく羽を動かしながら、オオミズナギドリたちの下方からやってきました。
「姉さん、久しぶりねー」
メジロが言いました。
浅黄色の身体の小鳥です。
「メジロちゃん、合いたかったわ。今日はよろしくね」
「はーい」
メジロは答えると、オオミズナギドリたちの先頭を飛び始めました。
それからオオミズナギドリは、サクラの疑問に先廻りして答えました。
「メジロちゃんは、道をたくさん知ってるのよ。安全に飛びたいときは、いつも来てもらってるの」
こうしてオオミズナギドリの背に乗ったサクラは、メジロを先頭にして、カモメたちと一緒に、東の島に向かいました。
「サクラちゃん、もう着くわよ」
いつの間にか、サクラはオオミズナギドリの背中で眠っていました。
サクラは目を開け、慌ててナズナを握ります。
そうして正面には、大きな山を持った島が、近づいてきていました。オオミズナギドリは徐々に高度を落とすと、海面にはクジラやイルカが泳いで位で、クジラは、サクラの来訪を知ってか知らずか、ぷしゃっと、勢いよく潮を吹きました。
その水しぶきのアーチを潜り抜けて、オオミズナギドリは着水しました。
そうしてそのまま泳いで、白い砂浜に上がりました。
サクラはオオミズナギドリから降りて、お礼を言いながら、その首や、ふわふわした胸元を抱きしめました。オオミズナギドリも、その頬をサクラにこすりつけました。
「あの、サクラ、良かったら、私たちも」
カモメの一羽が言いました。
「喜んで」
サクラはそう答えて、カモメたちのことも抱きしめ、撫でてやりました。
最後は、小さなメジロです。小さいと言っても、今のサクラよりも、一回り小さいくらいです。ふんわりしたメジロの身体に手を回し、撫でつけると、メジロは気持ちよさそうに口笛を吹きました。
「それじゃあサクラちゃん、気を付けてね。もうすぐだから」
「うん、ありがと!」
オオミズナギドリたちとはここでお別れです。
鳥たちは、海の上に戻って、他の海鳥たちと合流していきました。
サクラは、島の山を見上げました。
途方もなく広がった森に、そびえたつ高い山。
鳥にとっては一っ飛びでも、サクラにはそうはいきません。
「サクラ殿、サクラ殿」
と、サクラを呼ぶ声がありました。
サクラが砂浜に視線を戻すと、一人のお坊さんが、こちらにやって来るところでした。薄い緑色の袈裟を着て、頭には三角形の笠をかぶり、手には杖を持っています。背丈は、サクラよりも少し高いくらいですが、ほとんど同じ大きさです。
「今度は、あなた?」
「左様。拙僧、ツクツク法師と呼ばれております。どうぞお見知りおきを」
「ツクツクホウシ……って、あの、蝉の?」
「いかにも」
「え、でも、蝉って、なんで人間の恰好を」
「サクラ殿を驚かさないためでございます。ささ、ひとまずは、こちらへ」
サクラはたくさんの疑問を抱えながらも、ツクツク法師についていきました。
ツクツク法師が案内したのは砂浜の奥、草むらの中でした。その草むらの、ちょっとした空間がある場所までやってくると、ツクツク法師と同じような(そして今のサクラと同じサイズの)、人間の姿をした小人たちが、木の枝に座っていました。
ただそのうち、一人――一匹だけは、違いました。
小人と同じほどの大きさの、クロアリです。
ただのクロアリではありません。王冠を被り、朱色のマントはつけ、装飾の施された見事な権杖を持っています。
「おぉ、よく来たな、褒めて遣わす」
クロアリの王様は上機嫌に笑い声を上げながら、サクラを迎えました。
サクラは、驚きながらも、王様の全ての左手と握手を交わしました。
「まぁまぁ、長旅であったろう。食事にいたそう」
王様がそう言うと、小人たちは早速、食事の準備を始めました。葉で作った器に、色々な料理が盛られ、並べられていきます。そのどれもが、でれもサクラには馴染みのないものばかりでしたが、美味しそうに見えました。
「あぁ、安心して良いぞ、サクラ殿。変なものではない。全てキノコじゃ。味は保証しよう。さぁ、遠慮せずに」
王様にこう言われては、サクラも食べないわけにも行きません。その上サクラも、空腹でした。思えば今日は、朝から何も食べていません。
キノコのから揚げ、キノコのサラダ、キノコのステーキ、キノコ尽くしです。なぜキノコばかりかと言うと、この小人たちが、皆、キノコの精だからなのでした。食事をしながらそのことを知らされて、サクラは驚きました。虫や動物だけでも驚いていたのに、今度は妖精です。
ところがそれは、驚くようなことでも何でもないと、キノコたちは言いました。
「私たちからしたら、人間のほうが変だよ。だって、ずっと起きてるんでしょ? 信じられない!」
「どうして? 起きなかったら、ダメじゃない」
「起きてるのって、普通じゃないよ。普通は、寝てるんだよ。ずっと寝てるのが普通。それなのに人間って、自分たちで起きていられるように灯りまでつけてるんでしょ? なんで?」
「なんでって……」
そんなことを聞かれると、サクラも困ってしまうのでした。
人間のサクラからすれば、起きて寝る、寝たら起きるのは、普通のことでした。そのことに理由なんて無いと思っていました。
「でもみんなは、今、起きてるんでしょ?」
「今だけだよ。これ食べたら、また寝るよ!」
「いつまで?」
「ずっとだよ! 今日は、王様の頼みだから起きただけ!」
キノコの精の小人たちは言いました。
そして本当にその言葉通り、食事が始まり、しばらくすると、キノコの精たちは、一人、また一人と、いつの間にか消えていき、最後には誰もいなくなってしまいました。残ったのは、サクラと、アリの王様と、そして、ツクツク法師だけです。
「はっはっは、驚くことは無い。彼らは、そういう性分なのだ」
王様は、サクラに言いました。
「寝てるのが普通って、そういう世界も、あるんですね」
サクラが呟くと、王様はうむうむと、深く頷いた。
「そういえば、ツクツクホウシも、セミだよね?」
「左様」
「七年間も土の中にいるんでしょ? それで、出てきたら一週間で死んじゃう。悲しい気がするんだけど」
「サクラ殿、それは大きな誤解でございます。むしろ拙僧らは、土の中にいる時こそが、人生の花なのでございます。眠りながら、こうして精となり、世の真理を探究する旅ができる。それこそ、人生の喜びなのです」
サクラは、そうなんだ、と頷きました。
自分にはやっぱり、蝉や、キノコの世界はわからななと思いました。けれども、彼らの世界を人間に照らし合わせて、馬鹿にするような気持ちには、とてもなれませんでした。サクラが感じるのは、自分はこれまで、色々なことを知った気でいたのだなという、恥ずかしい気持ちでした。




