【46】ラングストン子爵領プレーツォル01
生憎の曇り空の中、私はライダー侯爵夫妻と共にラングストン子爵領プレーツォルを目指していた。ライダー侯爵家が用意した大きな馬車に、ライダー侯爵とライダー夫人と私の三人が乗り込んでいる。
私も元夫と婚姻していた頃、ライダー侯爵家の馬車を色々と使っていたけれど……あの頃は一人用の小さい馬車をいつも利用していた。今回はそれらとは違い、人間が三人乗る。しかもそのうちの一人は大柄なライダー侯爵という事もあり、馬車は私が人生で乗ってきた中でも最大規模のものであった。
馬車が走り出して最初のころは私とライダー夫人が少し会話をするだけで、ライダー侯爵はずっと黙り込んでいた。姿勢よく座り、微動だにしない姿は、どこか彫像のようでもある。
私は一対一で話した事もないので、ライダー侯爵には到底話しかけられなかったのだけれど……。
(何か話した方がよいのかもしれないわ)
でも、話題がない。ライダー侯爵と共通の話題は、夫人に関してぐらいだが……それだって、目の前に夫人がいるのだし夫人の事は話せない。元夫の事は話せるわけもないし……と無言になっていると、急に、低い声が私の耳に届いた。
「……新しい屋敷での生活は如何かな」
私に話しかけられたのだと、慌てて背筋を伸ばす。
「も、問題ありません」
「そうか。ジュニア……ギブソン家の子は役に立っているかね」
「はい。ジェロームはとても良く働いてくれております」
「それは良かった。ギブソン家は、長年、我が家に仕えてくれていた」
その言葉に、私はアッとなる。ジェロームに兄弟がいたという話は聞かない。つまりジェロームがラングストン子爵家に来てしまった事で、長年仕えている家臣一族であったギブソン家を、私は引き抜いてしまった形になるのでは……?
「も、申し訳ありません」
「む……。何を謝罪している?」
眉間に皺を寄せたライダー侯爵に私はなんというべきか言葉に迷って目が回る。
……と、それを見ていたライダー夫人が、侯爵の腕に触れた。
「あなた。アナベルが萎縮しておりますわ」
「……怯えさせるような事を口にしたつもりはない」
「分かっておりますが……あなたはブリンドル伯爵とはあまりに違いますもの。慣れぬのも致し方ないことですわ。アナベル。何を謝罪したのか、教えてくれるかしら」
ライダー夫人の言葉に、私はおずおずと口に出した。
「ジェ、ジェロームを引き抜いては……長年、お仕えしている家臣の家の者を引き抜いた形になったと、その、お恥ずかしながら、今気が付きまして……」
「そのような事を謝罪したのか?」
ライダー侯爵はわけが分からないという風な顔をした。
「謝罪が必要な事ではなかろう。ジュニアが我が家を離れたのは、ひとえに我が息子の不徳故。息子が主人に足る人間ではなかったのであれば、見限る人間が出るのは当然だ。侯爵家の跡取りたる者、使用人から選ばれる立場である事も意識せねばなるまい」
ライダー侯爵の言葉を不思議に思った。
普通、人を選ぶのは雇う側だ。
ライダー侯爵家で働ければ、自分の経歴に箔が付く。だから働きたいと思う使用人は多いはず。けれど希望者すべてを雇えるわけではないから、雇い主であるライダー侯爵や夫人が人を選ぶのだ。
なのに、今の物言いだと、主人を選んでいるのが使用人の側、という風である。
勿論、私ぐらいの人間であれば、使用人が希望する――選んでくれなければ、そもそも雇う事も出来ない訳だけれど、ライダー侯爵がそのような物言いをするとは思わなかった。
(……とりあえず、ジェロームを引き抜いてしまったような形になった事をお怒りではないのね?)
良かったと思う。侯爵のお心が広くて、安堵した。
◆
プレーツォルは、領地の広さで考えると、私の実家であるブリンドル伯爵家より狭い土地だ。
とはいっても、豊かさはプレーツォルの方が遥かに上である。
プレーツォルの領地に入った後、その支えの一つであるものがすぐに見えた。
「あれがギナ湖ですか」
「そうだ」
私の言葉に侯爵が頷かれた。
ギナ湖。プレーツォル領にある、小さな湖なのだが……ここは、海でもないのに、塩が取れる湖と言われている。仕組みはよく分からないのだけれど、海で塩が作れるように、ギナ湖の水を使うと塩が取れるのである。
塩は何をするにも必要なので、この塩はプレーツォルを支える大事な特産の一つとなっている。
プレーツォルの立地も、良いのだ。
王都は国の中心寄りの場所にあるので、海に接している領地は遠い。それに対して、プレーツォルは海辺の領地よりも王都に近い。
勿論、ギナ湖はそう大きい訳ではないので、その採取量だけで王都に暮らす民の必要な塩をまかなえるわけではないものの、運搬にかかる日数や費用も考えると、ギナ湖で取れる塩を仕入れるのは利点が多い。なので日常生活に長く使われていたそうだ。
現在では、海岸地域で生成される塩の量が増えた事で、日常で使われるものとしてではなく、少しお高い塩として販売しているらしい。
……ちなみにこのあたりの知識は、ラングストン子爵位を私が継ぐにあたって、ギブソンたちから教えてもらった知識である。
それ以前の私の認識だと、塩が取れる不思議な湖がある、ぐらいの知識しかなかった。
このような理由からギナ湖は間違いなくプレーツォル内でも最重要な要素の一つであるが、このギナ湖そのものは対して大きくない湖だ。
なので、代々ギナ湖を管理している家の方々がいて、その方々が年に取る塩の量を決めたりして、湖が万が一にも無くなってしまわないよう、大事に管理されているそうだ。
その方たちも領内の重要な人物として、お披露目パーティーには招待状を送っている。
ギナ湖周辺はあまり植物が生えていないようで、湖は遠目でもよく見えた。
「子爵邸は、ギナ湖が見える所にあるから、もうさほど遠くないわ」
ライダー夫人の言葉通り、そこからそこまで時間がかからず、私たちはラングストン子爵邸に到着した。
子爵邸の前には、沢山の人間が集まっていた。
男性、女性。色々な年代の人々が集まっているのが、遠目からでも分かる。
前の領主夫妻と、新領主が来るのだから、人が多く集まるのは当然ではあるのだけれど……。
(……)
無意識のうちに、膝の上で拳を強く握っていた。
正直、彼らの前に出るのは怖い。
ライダー侯爵はあまり子爵領に来る事はなかったと言っていたが、それでもどんな方がお仕えしている相手か、領地の有力者たちは把握していたはずだ。彼らからすれば、ライダー侯爵のような立派な方が主人であるのは、誇りにもなっただろう。何かあれば頼れるという安心感もあったのではないだろうか。
(そこから変わって、爵位を継いだのが私みたいな若い女では、きっと失望される)
それでも彼らの前に立つしかない。
ラングストン子爵に、私はなったのだから。
馬車のドアが開かれる。最初に降りたのはライダー侯爵だった。
降りてきた侯爵に、挨拶している声が一部聞こえてくる。侯爵は片手を上げてそれを返してから、馬車の中にいるライダー夫人にたいして手を差し出した。
ライダー夫人は夫の手を取り、降りて行った。
次は私の番である。
私は意を決して、馬車を降りるために腰を上げた。
「アナベル殿」
そこで私はライダー侯爵が手を差し出してくれているのに気が付いた。そんな風に対応されるとは思っていなかったので驚いてしまったものの、差し出されている手を無視するのは失礼だろう。私はそっと、自分より大きく固い手に自分の手を重ねた。
ライダー侯爵の手をお借りして、私は馬車から降りた。
私とライダー侯爵夫妻が横に並ぶと、館の前に集まっていた人々の前から、一人の男性が出てきた。年齢は、私の親と同じか、それより少し若いぐらいだろうか。
「彼がこの領地の代官よ」
小さな声でライダー夫人に囁かれ、私はこの方が……と相手を見た。
彼はきっちりと手入れの生き届いた服を着ていて、優雅に胸の前に手を当てた。そうして、こちらに頭を下げる。
「ようこそお出でくださいました。ライダー侯爵、侯爵夫人。ラングストン子爵。ラングストン領を代表して、お三方がお越しくださった事に感謝申し上げます」
彼の言葉に合わせて、屋敷の前にいた人々が頭を下げる。練習を繰り返して出来そうなほどに統一された礼を見た私は、何でもないという風に立っていながら、心の中で(やはり私にこの土地の領主は力不足かもしれない……)と冷や汗を流したのであった。




