【33】新しい生活、新しい出会い
あっという間に月日は過ぎる。
大臣補佐に見られながら契約書にサインをしてから約二か月が過ぎていた。夏の盛りは少し過ぎ、だんだんと秋が近づいてきている。
今、私はライダー侯爵家の屋敷でもなく、ブリンドル伯爵家の屋敷でもない、新しい屋敷で暮らしていた。表向きは私が侯爵家から頂いた慰謝料で購入した家だが、家の選定などは殆ど侯爵夫人やギブソンたちがしてくださった事だ。ライダー侯爵家よりも圧倒的に狭いが、ブリンドル伯爵家を思えばかなり広いという丁度中間ぐらいの広さの屋敷は、私一人が暮らす事を思えば丁度良い。普段過ごす事を想定されている部屋からは屋敷の一番広い庭を見る事が出来るし、使っていない部屋は絵画などを飾ったり保管するように改造されている。
様々な作業があったけれど、有能な使用人の皆の助力もあり、なんとか無事に書類上での爵位の授与も終わった。目下の悩みは国王陛下の元に赴いて爵位を受ける儀式をこなす事と、貴族社会に向けてラングストン女子爵として自分をお披露目する事である。
書類上における処理は終わっているが、対外的な処理が終わっていないという事だ。
だが対外的な処理は、それこそ私の都合一つでどうにか出来る事でもない。私は全く新しい爵位を得るのではなく既に存在している爵位を譲られる訳だが、中身としては今までの爵位保有者と全く違う人間が子爵として立つ事になる。なので国王陛下に直接対面して爵位授与の儀式をしなければならないとの事。こちらはまず、国王陛下のご都合があるのですぐに行う事は不可能。現在、王宮で日時の調整をしているのでいつ行われるかは未定だ。それに伴い、貴族社会に向けてのお披露目も後回しという事になっている。国王陛下にお目通りもしていないのに大声で「新しく子爵となりました」と言って回るのは、常識知らずとみられる可能性が高い。逆に言えば陛下にお目通りするまでは他の家からの社交の誘いも遠回しに断る事が出来るので、現在は数少ない準備期間ともいえる。
……とはいえ。少しの休息は必要だろう。
ライダー侯爵家からラングストンへと付いてきてくれたジェロームの助言もあり、私は酷く久しぶりに大切な友人と時間を過ごす事にした。
「アナベル! 会いたかったわ」
「メラニア! 私も会いたかったわ」
久しぶりにカンクーウッド美術館に赴いた私は、馬車を下りた所で今日を共に過ごそうと約束していたメラニアと抱き合った。久しぶりに見た友人の顔を見たら、なんだか込み上げてくるものがあった。
カンクーウッド美術館を見上げると、それがより強くなる。一時はここに来る事は二度と出来ないかもしれないと思っていたが、今、私はここに来る自由を得ている。本当に、信じられないほど私に都合が良くて、夢なのではと思ってしまう。
「ふふ、それじゃあ、久しぶりに回りましょうかラングストン女子爵?」
「もうメラニア。まだ国王陛下に謁見も出来ていないのだからやめて頂戴。それに、爵位を得たとしても貴女に改まった言い方をされるのは……何だか変な気分になってしまうわ」
「そうはいかないでしょう。今の私はアボット商会長の妻で、元貴族令嬢に過ぎないわ。アナベルはしっかりとした子爵になるのでしょう? 大丈夫よ。呼び方一つで私たちの関係性が変わる事なんてないもの」
「……そうね」
笑うメラニアに、私も釣られて笑う。
カンクーウッドに入る前に、二人で少しだけ立ち話をする。やはりメラニアが把握している範囲でも、私とブライアンの夫婦関係の解消は話題になっているようだ。特に注目されているのが、男性側有責となったその離縁の主導を、男性側親族が率先して行っていた事だろう。その上、離縁する私に対して過剰なほど、親切な対応をしている事も話題に上がっていたそうだ。
簡単に言ってしまえば今回の離縁の原因は、不倫だ。確かに不倫は良くない事と言われるが、実際のところ不倫が原因の際に男性側有責で離縁する事は殆どないだろう。大概の場合では女性の方が外から嫁いできている事が多く、離縁するとしても夫側に有利な理由にされがちだ。ゼロではないが、不倫が原因での離縁の内、殆どが女性側に何かしら問題があったとして離縁されている。悔しいが、それが今の現実だった。よほど女性側の後ろ盾が強くなければ、男性優位になってしまうのだ。だからこそ夫をやり込めるような物語がここまで長く支持されていたのかもしれない。
そのような世の中で、ライダー侯爵家という大きな家が、息子の不倫から始まる様々な事を理由とし、息子を有責にして夫婦を離縁させた。更に一人息子を後継者から外すと公表もした。
「男性の中には、たかが一度の不倫で……なんて言う方もいるみたいだけれど、女性は大方、アナベルに同情的だわ」
不倫だけならば同性からも我慢しろだとから夫に尽くせだとか意見が沢山出てきていたかもしれない。だが侯爵と夫人は息子が悪いとハッキリ社交界でも発言したのだという。その際、ブライアンが始まりから計画して私と結婚した事も広めたらしい。つまり、最初からお飾りの妻にするために自分より弱い立場の女性を口説き、しかも白い結婚を持ち出されないために初夜を済ませてから放置したという事も。
さらっと私の恥部も晒されている気がしないでもないが、侯爵夫人の言い方が上手いのか、或いは一時流行りまくっていた演劇の筋書きにそっくりなせいか、社交界の女性の殆どは私の味方についた。いや、私の味方というか、ブライアンの事を完全に女の敵として見たのだ。
特にあの時期デビュタントを済ませていた貴族令嬢は、もしかすれば自分がブライアンに見初められて仮初の妻にされていたかもしれないと震え上がったらしい。女性だけではなく、愛妻家の男性等を中心に、男性陣からもブライアンの行動は非難されたのだ。とはいえ既にブライアンは侯爵によって遠い地方に飛ばされている。いつまでも騒ぎが続く事もないだろう。
「手紙でも書いてはいたけれど、今日は直接聞かせて頂戴ね。それから、ラングストン子爵邸にはもう人が訪ねても大丈夫かしら? ドロシアが挨拶に行きたがっていたわ」
「そうよね。……本格的な社交が始まる前に、新しくそれ用のドレスも仕立てないとよね。はぁ」
私が今までのような生活を送るだけならば、今持っている服だけで問題なく暮らしていける。ただ、社交界に出ることになると思うと……ああ、国王陛下に謁見する時の服も考えないといけないわよね。
「もし金銭面の不安があるのなら遠慮なく言って頂戴。ドロシアに無理を言わないように言っておくから」
「いえ、大丈夫よ。確かに今までほどお金が使える訳では無いけれど……」
今までまともに侯爵夫人として振る舞ってすらいない女が、突如貴族の家の当主になれるはずがない。そんな事は侯爵夫妻もよく分かっておいでで、屋敷に雇い入れる使用人たちや部下となる家令らも選んで下さった。中には、長らく侯爵家で働いていた使用人の何人かは、そのままそっくり私が暮らす新居に付いてきてくれた。
侍女だったジェマや、ジェロームなどもそうだ。私は私が思っていたよりは、良い主人と思われていたらしかった。
彼らの助力により、私はこれまでと殆ど同じ生活を送っている。
だがそのままではいけないだろう。当主になってしまったのだし。…………自由だけ与えられて責任から逃れるなんて事は無理だけど、それでも、意外と厭とは感じていないのだ。まだ厭だと思う場面に直面していないからそう考えるのかもしれないが。
話す事は尽きない。いつまでも美術館の前にいる訳にも行かないので、私たちは美術館へと足を踏み入れた。現在は何か特別なイベントが行われている訳ではないので、中はあまり人気がない。
中の絵画を二人で眺め始めてすぐに、後ろをついてきていたジェロームが何かに気が付いた。
「アナベル様、メラニア様」
私が顔を上げて名前を呼ばれた理由を問うよりも早く、メラニアはジェロームの視線の先から理由を理解した。
「アナベル、ブロック館長だわ」
「あら本当。……最近はまともに訪れなかったから、謝らないと」
「まあ。アナベルが大変だった事を王都で知らない人はいないわよ? 大丈夫よ。ブロック館長はそんな事気にする方ではないでしょう。……それにしても、ブロック館長の後ろにいらっしゃる方はどなたかしら」
メラニアの言葉につられ、館長の後ろを見る。こちらに近づいてくる館長の後ろに、精悍とした顔立ちの男性がいた。なんとなくだが、休日の軍人という感じがする。元義父に受けた印象に近い。だが義父よりずっと若い。年齢だけで言えば、恐らく元夫のブライアンとそう変わらないだろう。
「ラングストン女子爵、本日は当館にお越しいただき、誠にありがとうございます」
「まあ館長。館長にそう呼ばれると、なんだか不思議な心地がいたしますわ」
「ねえブロック館長。後ろにいる方はどなた?」
興味津々という風にメラニアが問いかけると、館長は口ひげを撫でながら紹介してくれた。
「たまたま作品を届けてくださっていたのですが、ラングストン女子爵が来ていると聞きまして、是非挨拶とお礼を伝えたいと」
「お礼?」
私とメラニアの声が被る。
正直国王陛下の元で行われる儀式まではあまりラングストン女子爵と名乗りたくないので、あまり挨拶はしたくない。だがブロック館長の手前、一人ぐらいの挨拶であれこれは言えないと思ったのだが、お礼は分からない。心当たりがない。初対面のはずだ。そんな相手に何故お礼を言われるのか?
そう思っている私に対して、男性はそっと礼をした。貴族女性に対する、綺麗な礼だ。育ちの良さが一瞬で理解できた。
「お会いできて光栄です、ラングストン女子爵。私はウェルボーン子爵ジェレマイア・コーニッシュ。或いは……貴女には、『ガーデナー』という名前の方が伝わりやすいかもしれませんが」
「えっ!?」
私もメラニアも、ついそんな声を上げてしまった。
ジェレマイア・コーニッシュ。つまり、コーニッシュ公爵家の人……数代に一度王族が嫁ぐ事もある、名門中の名門だ! この国の貴族でコーニッシュの名前を知らない人はおそらくいない。実家のブリンドル伯爵家は勿論の事、元婚家のライダー侯爵家から見ても格上の家名である。
それだけでも驚きなのに、彼はなんと『ガーデナー』……私がずっと気に入って追っていた画家だと名乗ったのだ。
見た目からは全く想像がつかない。彼が、画家? 見た目からは軍人だと思っていた位だ。驚かない方が無理がある!
「が、ガーデナー、本当に?」
「間違いありませんぞ。私が身分を保証しましょう」
ブロック館長がニコニコ笑いながら言った。
「貴女にずっとお礼を言いたくて、館長に無理を言ってしまいました」
ウェルボーン子爵はそう前置きして、簡単に、お礼の内容を告げた。
「私は幼い頃から絵を描いていたのですが、お家柄、趣味としてする分には構わないけれど仕事にするなどあり得ないと親から反対されていまして」
確かに、芸術の類は趣味として極める貴族は多いけれど、それを仕事とする人は殆どいない。私の周りにはいなかったけれど、芸術家たちの地位が今より悪かった時の印象が強い人などは明らかに見下したりしているとも聞く。
コーニッシュ公爵家ほどの名家ともなれば周りの目を考えて許さないのもありえるかもしれない。
「それでも私はずっと、画家として生きたかったのです。知り合いだったブロック館長に無理を言い、私が描いた絵を何度も展示会においてもらいました。しかし…………ハッキリ言って見向きもされない日々が続き、自分には才能がないのだと。親の言う通り、大人しく私も軍に入るなり、働くべきだったのかと何度も悩んだのです。…………筆を折ろうか真剣に考えていた時、貴女が私の絵を買ってくれた」
私が最初に買ったガーデナーの絵?
「『デイジー』の絵だわ」
「覚えていてくださったのですか……?」
「勿論ですわ。今も私の部屋に飾ってありますから」
毎日見ているけれど、未だに見飽きない。今だって、見つめていれば話しかけてくれる……私の事を見ていてくれるような気がするのだ。
「あの絵は……私の中で特別な絵なんですの。私の悩みを聞いてくれる、大切な友のような」
私の言葉にウェルボーン子爵は感激したように目を輝かせた。顔は男らしいのに、その目がまるで少年のようだと思った。とくんと、胸のあたりが温かくなる。
「おかげで私はギリギリで筆を折らず、絵を描き続けられた。その後も貴女は何度も私の絵を買ってくださった。そのうち、他の方にも手に取ってもらえるようになったのです。両親も、私の名が王都で売れるにつれ、仕方ないと画家になる事を許してくれました。ラングストン女子爵。全て貴女のお陰なのです。本当に……本当に、ありがとうございます」
ウェルボーン子爵はすっと私の手を取ったかと思えば、私の手の甲にキスをした。その上で片膝を床につけて、私の手をそっと握ったまま熱い目で私を見上げてくる。そんな事、元夫が猫を被っていた時ですらしてくれた事はない。顔が沸騰するかと思った。
「ぇっ、ぁ、ぁっ」
「ラングストン女子爵。貴女への感謝は、言葉だけでは到底足りません。どうか形として、行動としてもお礼をすることをお許しいただけませんか……?」
「へっ?」
「貴女が嫌でなければ貴女の絵を描かせてほしいのです。それから、貴女が芸術に通じているのは存じていますが、あまり料理店には行かれていないと聞きました。今度、コーニッシュ家行きつけのお店を貴女に紹介させてください」
「えっ、あっ、え??」
何? 何を言われているの? え? お店? どういう事?
「ウェルボーン子爵、立ってくださいませ。突然膝をつかれても、困ってしまいますわ」
人間の言葉が紡げないでいた私を見かねて、メラニアがそう言ってくれた。ウェルボーン子爵は「申し訳ありません」と言い、私の手を放して立ち上がる。
私は震える手でなんとか扇を取り出して、赤い顔を隠すので精一杯だ。
目の前の出来事が受け入れられない。私は慌てて首を振った。駄目よ駄目。私は女子爵になったのだから。冷静に、落ち着いて、まだ子爵位をもらったばかりで忙しいので、またいつかと婉曲にお断りを。
「大変失礼ですが……」
顔を上げた瞬間、扇越しにウェルボーン子爵と目が合った。縋るような目に、大変失礼ながらフレディを重ねて見てしまった。相手は年上なのだからそんなこと失礼だと思うのに、その目を見た途端、また何も考えられなくなる。
「あ、いえ、よ、喜んで」
どうしてーーー!!!!
混乱したら焦って口が動くのは私の悪癖だわ、いの一番に直さなくてはならないわよ!!!!
内心頭を抱える私に対して、ウェルボーン子爵は顔を輝かせた。い、今更口が滑ったなんて言えない! どちらにせよ公爵令息に訂正する勇気が私にはないのだけれど!
「ありがとうございます。また後日、必ず、こちらから連絡いたします」
本当に嬉しげに、ウェルボーン子爵は笑顔を浮かべた。それに対して私は扇の下で汗を流しながら引き攣った笑みを浮かべることしか出来なかった。
……。
気が付いた時、呆然とする私を横からメラニアがゆすっていた。
「アナベル、アナベルしっかりなさい。帰ってきて頂戴!」
「はっ…………。…………夢? 嫌だわメラニア、私ったら、白昼夢なんて見てしまって……」
きっと久しぶりに美術館に来て、嬉しくなって変な夢を見てしまったのだろう。そう結論づけようとした私に、とても冷静なメラニアが口を挟む。
「夢じゃないわよ。ウェルボーン子爵にお会いして、彼はガーデナーで、貴女に絵描きデートと食事のデートの約束を取り付けて帰っていったわ!」
「デッ!?」
「んもう、アナベルったら隅にも置けないわ。再婚はそう遠くないわね!」
私は慌ててメラニアの口を扇で塞いで黙らせる。近くには未だに留まっているブロック館長と私たちしかいない。メラニアの言葉は他の人には聞かれていないだろう。それを確認してから、メラニアに顔を近づける。
「メラニア、滅多な事言わないで。再婚なんて、話が飛躍し過ぎよ。ウェルボーン子爵に御迷惑だわ」
「まあどうして」
「だって、その、私は一度離縁されている女だもの」
「夫有責の離縁だわ。貴女は悪くないじゃない」
「そうだけど、清い体ではないし」
「気にしない人にとっては些細な事よ」
「ウェルボーン子爵はそのお礼が本当にしたいだけでしょうし! 異性だからと失礼よ!」
「お礼は絵で返すだけにするか、お金や物を贈って返せば済む話でしょう。それに加えて料理を食べるのに誘うのが、お礼の範疇な訳ないでしょう。絶対貴女に気があるわよ」
「そ、そんなことないわよ…………だって私よ!」
確かに血筋は、歴史だけ見れば悪くもない。
ただ一度結婚してうまくいっていない身だし、お陰で年齢だけ重ねた。正直、デビュタントした頃ならば若さの補正があっただろうが、今はそんな補正もないだろう。社交だって遠のいていて、もう自信がない。侯爵夫人は流行の先端にいるなんて言葉でフォローしてくださったが、服装はメラニアのお陰だし、芸術にしろ演劇にしろ音楽にしろ、ただ私が気に入ったものに当時余っていたお金をつぎ込んでいただけの話だ。見る目があるとは思えない。
確かに、確かにウェルボーン子爵の顔を思い出すと顔が赤くなってしまうが、あれだけ精悍な、紳士的な人だ。家柄もいいし、画家として働いているとはいっても、いい出会いはいくらでもある。ただ、長年の夢であった画家という仕事を、私がたまたま手助けした事に強く強く感謝しているというだけに過ぎない。そうに決まっている。だって私相手にそんな事するような人がいる訳がない。
――そうやってぶつぶつ呟いていた私には、呆れた顔をしたメラニアとブロック館長とジェロームが横でどんな会話をしていたかなんて、記憶に留める余裕はなかった。
「館長。徒に関わるつもりなら私も止めますが、本気ならば、強めに押した方が良いとお伝えくださいな」
「そのようですなぁ」
「ブライアン坊ちゃんの罪が深くなった気がします」
これにて1章完結です。短編を少し加筆するだけと思っていたの随分長くなりましたが……2章以降はもう少し恋愛要素が強くなるかと思います。




