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【書籍化】お飾り妻アナベルの趣味三昧な日常 ~初夜の前に愛することはないって言われた? “前”なだけマシじゃない!~  作者: 重原水鳥
第一章 ライダー夫人アナベルの日常

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【32】結局他人の腹の内など分からない(ジェローム・ギブソン・Jr.視点)

「親父。これ」


 父に対して自分の決意が込められた紙を渡すと、父は静かにそれを見下ろして……小さく息をついた。


「お前もか」

「……お前も? 他には誰が」

「若奥様――いや、アナベル様が離縁し、子爵位を得る事になったと聞いた途端、ジェマがこれと同じ内容の物を持ってきたとアーリーンが言っていた」

「はははっ! 彼女らしい!」


 アナベル様の中の生活を守り支え続けていたあの少女らしい決断だった。きっと今後の自分の進退なんて殆ど考えずに出したのだろう。だが気持ちは分かる。俺とて、多少進退について意識はしたものの、結局そう悩まずに決断したのだから。


「親父やお袋やおじい様おばあ様……侯爵様たちには悪いがな。止められても行くつもりだよ」

「止めはせん」


 てっきり止められると思っていたから、あっさりそう返されたのは少し意外だった。片眉を上げながら父の言葉の続きを待つ。


「アナベル様は良い主人だ。あの方の下で、働きたいと思う者がいる事に不思議はない。……ただし、貴族の当主としては別だ。あの御性格では苦労もなさるだろう。それを支えていく覚悟はあるのだろうな」

「勿論」


 俺が頷けば、父はならばもう言う事はないと俺が手渡した書類を受け取った。



 ■



 アナベル様とブライアン坊ちゃんは、初めから歪な夫婦だった。その原因は、ブライアン坊ちゃんだ。


 付き合いとしてはブライアン坊ちゃんの方が長い。ギブソン家は代々ライダー侯爵家に仕えていたから、俺も産まれた時からライダー侯爵家に仕えるべく育てられた。幼い頃はブライアン坊ちゃんの遊び相手として弟たちと共に彼と遊んでいた事だってあった。

 とはいっても祖父が侯爵に、そして父が侯爵の跡を継ぐブライアン坊ちゃんに仕えるので、俺が本格的にライダー侯爵家に仕えるのはきっと坊ちゃんの子世代になるだろう。そう思っていたのだが……。


 子世代なんて、考えられる状態ではなかった。


 最初は、釣り上げた魚に餌をやらない、同性とは言え嫌なタイプの男だったのかと坊ちゃんに対して軽く失望していたが、それだけだった。……思うしか出来なかったともいえる。

 幼い頃ならばいざ知らず、侯爵家の嫡男となった坊ちゃんに物申せるのは父……いや、父でも少し力不足かもしれない。祖父母ぐらいでなければ物申せないだろうし、聞き入れても貰えないだろうから、俺は何も言えなかったのだ。

 だが月日が経つ程に、坊ちゃんはどんどん屋敷に帰らなくなっていく。

 使用人仲間たちは何かおかしいと皆感じていた。


「な、なあジュニア。若様は、若奥様に一目惚れされて結婚したんだよな……?」

「……その、筈なんだがな」


 侯爵夫妻がブライアン坊ちゃんにお試しで仕事を任せて領地に行く際、坊ちゃんは格下であるブリンドル伯爵家から嫁いで来られたアナベル様が馴染みやすいようにと殆どの使用人を入れ替えた。だから昔からこの屋敷にいた使用人は現在殆どいない訳だが……彼らもブライアン坊ちゃんが結婚するまでの流れは噂で耳にしていて、だからこそ噂と現実の差に困惑しているらしかった。

 俺自身、何が起きているのか分からないでいた。――分かりたくないと思っていた。

 結婚後、一度も出掛けもしないアナベル様。帰ってこないブライアン坊ちゃん。新婚とは思えないほど冷めきった関係性に誰もが困惑していただろう。


 それも、アナベル様が出掛けるようになった事で少し変わる。魂が体にないのかというほどアナベル様の様子は酷かったけれど、彼女が外に出掛けたいというのだからそれに従うのが俺たちの仕事だ。専属侍女のジェマや他の侍女たちは可能な限りアナベル様の体を手入れした。用意出来る服が若い彼女に合わないものしかないのは……購入していただかない事にはどうしようもないから、化粧や体を手入れする事が侍女の限界だった。

 外に出掛けたアナベル様に妙な人間が近づかないようにと見張るのが俺の仕事だった。俺自身、外まで付いて回れる身分になったのは最近だったから、侯爵家の使用人としては不足もあっただろう。そこはアナベル様に申し訳なかったと思うけれど、外に出るようになった最初のころのアナベル様は何もかもを諦めたようだったから気が付かなかったかもしれない。


 それも次第に変わっていく。何より一番の変化は、アナベル様がデビュタントの頃からの知り合いであるというメラニア・アボット様と会うようになった事だ。アボット商会が貴族向けに新しく展開したというブランド『ドロシアーナ』で、アナベル様は新しい、お似合いの服を買われた。その服を持って帰ってジェマたちに渡した時の侍女たちの喜びようは凄かった。

 アナベル様は女性としてかなり高身長の方だ。他の夫人ではあまり着こなせないだろうと思うような絶妙なデザインの服も、その長身もありアナベル様が着ると似合ってしまう。このあたりは服をデザインした『ドロシアーナ』のドロシア殿と、アナベル様の身支度を手伝っていた侍女たちの成果かもしれない。

 新しい服を着て雰囲気が明るくなられたのは良かったが、それにより以前とは違う意味で視線が集まる事が多くなった。アナベル様がどこの家の人間かは分からないが縁を持ってみたいと考えるらしい人間が近寄ってくる事もあり、それを追い払っていたうちに……特によく出かけていたカンクーウッド美術館などでは、美術館の人間たちも余計な人間が近づかないようにと取り計ってくれるようになったのは有難かった。

 ブリンドル伯爵家に問題が起きた時もアナベル様に付いて行った。ああ、確かこの時彼女が初めて俺の事を名前で呼んでくれた。名前をしっかり覚えておられた事に少し驚いたのだった。それから……昔から俺はジュニアと呼ばれる事が多かったから、ただジェロームと呼ばれるのが新鮮だった。ライダー侯爵家においてジェロームという呼び名であらわされるのは殆ど父だったから。


 そうやって俺を始めとした使用人たちがアナベル様と関係を深くしていく間も、坊ちゃんは帰ってこない。社交界の噂は他所で働く兄弟たちから多少聞けていたけれど、その内容が坊ちゃんがアナベル様を溺愛する故に閉じ込めている……なんて物だった時は鼻で笑ってしまった。何が溺愛だ。流石にこの頃に至ってまで、坊ちゃんが本当にアナベル様を愛して結婚した――なんて事を信じている使用人はいなかった。

 良い年齢になってから、坊ちゃんは侯爵様たちからあれやこれと縁談話をもたらされていた。それも仕方ない。中身はお父上に似た……よく言えば武闘派、悪く言えば男所帯育ちの男だが、その容姿は女性が喜ぶ王子様そのものだ。そしてライダー侯爵家という名高い家の嫡男でもある。上からも下からも嫁になりたい、嫁が無理でも愛人になりたいという女性が後を絶たない。

 それを煩わしいと言っていたのは、知っていた。だからこそ彼自身が望んで結婚したという時は、昔から屋敷にいた者たちは皆喜んだが……恐らく、あまりにもたらされる縁談話を誤魔化すために結婚したのだろう。

 これでアナベル様もそれを承知で結婚したなら俺たちも何も言えなかったが、どう見たって結婚当初のアナベル様の様子は、裏切りに絶望していた。


「騙すのは良くないだろ、騙すのは……」


 坊ちゃんについては、ともかく父とアーリーンがなんとかすると言うので任せた。逆に俺は父から、アナベル様を守るようにと厳命されていた訳だが……その事を伝える時、父が言った言葉に眉を寄せてしまったのは仕方がないと思う。


「家令のソラーズを始め、幾人かの使用人はブライアン様に屋敷内部の情報を流している可能性がある。あまり妙な動きはしないように」

「……了解」


 屋敷内部はアナベル様に同情的な雰囲気に満ちていて、最初こそ誰がブライアン坊ちゃんに味方しているのか分からなかった。なのでその話以降は特に、誰が裏切者――こう表現するのはなんだかおかしな話なのだが――なのか炙り出す事を意識しながら過ごす事にもなった。大方そうだろうという人間が絞れた後は、それとなく彼らに流す情報を少なくしたりした。あれだけ若奥様お可哀想に、若様は酷い人だと言いながら、アナベル様が坊ちゃんにとって邪魔な事をしたと思えば報告していた訳だから……個人的に、腹も立つというものだ。

 別にアナベル様に対して好意的に見れないのは良いのだ。それを仕事に出さなければ、人間なんだから合う合わないはある。今の屋敷の中にだって、アナベル様の事を夫に何一つ物申す事が出来ない弱い夫人だと厳しい言葉を言う人間もいる。確かに侯爵家の夫人ともなれば、時には夫にも意見しなければならない。だからそういう人間の意見も分かる。

 でもなぁ……表と裏で違う事を言う二枚舌は、貴族や貴族に仕える者の必要技量とはいえ、されて気分の良い物ではない。


 そうこうしている内に日々は過ぎる。ブリンドル伯爵家の問題は解決し、アナベル様は坊ちゃんの指示で外出を控え、季節が廻り新しい年が来て……。


 そして、ブライアン坊ちゃんは本当に愛する女性だと言って一人の平民の女を連れてきた。


 平民とは言いつつ、元々の家系は貴族だったのだという。そこから落ちぶれて平民となり、少なくともこのエヴァという女の祖父母の代からは完全に平民として生きてきたと。

 確かに見た目は貴族にいてもおかしくない程度に整っている。

 だが容姿だけで貴族の妻は務まらない。廊下を歩く、椅子に座る。カップを手に取る。物を口に入れる。そうした所作の一つ一つが、侯爵家の位の高さを思えば見苦しいとしか言えないものだった。


 そんな女が、妊娠しているとブライアン坊ちゃんは言うのだ。そして生まれた子供を自分の跡継ぎにすると。


 恐らくそれを聞いた瞬間、父は堪忍袋の緒が切れたのだと思う。表情は変わらないのに、スッと父から漂う雰囲気が冷えたから。


 伝えられたらきっと酷く狼狽えると思われていたアナベル様の方が、よっぽど心広くそれを受け入れられていた。そしてアナベル様のそのサッパリした態度に、ブライアン坊ちゃんも平民の女も、怪訝そうな雰囲気があった。アナベル様はそれに気が付いていなそうだったが。

 いやぁこれは……坊ちゃんの気持ちも分からんでもない。坊ちゃんは殆ど屋敷に帰ってこないのだから、結婚当初やその前の、恐らく坊ちゃんを素直に慕っていたアナベル様の印象が強いのだろう。だからもっと反対や抵抗をされると思っていたのに……実際は違ったから困惑してるのだ。

 だがな、母親が離れていても子供を心配し愛するのとは話が違うだろうよ坊ちゃん。男の俺ですら、あれだけの事をされて流石に、未だに坊ちゃんを愛し続けるなんて()()と分かるぞ。過去愛した女がいつまでも自分を愛するなんて、幻想にも程があるだろう。求められる事ばかりの坊ちゃんにはその辺が分からなかったんだろうなぁ…………。


 すごい温度差で話が進んだ訳だが、どうにもその日の夜には二人は改めて、あの女なしでこれからの事を話し合ったとジェマから聞いた。……聞いたんだが、その時にジェマが怒りながら、「アナベル様の腕に痕が、痕が!」というもんだから、頭を抱えてしまった。坊ちゃん……男所帯ではそのぐらいの強引さは問題にならないだろうが、女にやるな女に……。

 おかしいな、紳士教育も問題なかった筈では? いや、アナベル様にこれだけ自分の都合だけを押し付けている時点で紳士の欠片もないがな。恋は盲目というやつか。完全に目が曇っている。本来はもっと優秀な人の筈なんだが……?

 女で身を落とす男は少なくない。悲しい事に坊ちゃんもその一人だったという事だろう。


 こうして坊ちゃんの天下がもう少し続くかと思われたが――まあ、流石にこれ以上が許されるはずもなく、ついに旦那様と奥様が帰ってこられて、あっさりと坊ちゃんの企みは全てが潰され、あっという間に坊ちゃんとアナベル様は離縁する事となった。



 ■



 もう話は終わりだと部屋から出ていこうとした俺を、親父が引き止める。


「ジュニア。お前がアナベル様に付いて行く事を決めた理由は、旦那様方の行動か?」


 俺はどう答えたものか少しだけ迷ったが、嘘をつく理由もないと頷いた。


「ああ。侯爵家に仕える者としては失格だが……アナベル様がこれまで受けてきた扱いを思うと、どうにも不満が残る」


 今回の立ち回りにおいて、侯爵家は上手く周囲の非難をブライアン坊ちゃんとあの愛人に向けて、かつ、アナベル様を悲劇の女性として立てる事で、侯爵家そのものの評判を絶妙に回復させていた。勿論、アナベル様が辛い立場にあったのは事実なので悲劇の女性として扱われるのは間違いではない。……人の好い顔をしてアナベル様に寄り添うように見せて、旦那様と奥様の考えの中心は、どこまでも侯爵家だ。勿論、侯爵家を守るついででアナベル様によく動いてはいるのだが……それは、今の状況故であり、これが将来的にずっとそれが続くとは限らない。

 アナベル様やブリンドル伯爵家に手を出す事が無いようにという契約も結んだと聞くが、何もライダー侯爵家が直接手を出さずとも彼女たちを害する事は出来るのだから、あの契約書だって安心出来る訳でもないのだ。

 こういう考え方をした時点で、俺はもう侯爵家には仕える事が出来ないと思った。


「当主としての伝手も知恵もないアナベル様を助けるためという名目で、奥様が使用人も選ぶと聞いた。……今すぐ分かるようなやり方はされないだろうが、将来的にアナベル様より奥様を優先する者たちもいるかもしれないだろう?」


 アナベル様の事だ。奥様がわざわざ選んでくださったのだから、と簡単に信用しそうだ。あの方は心の壁が高いのか低いのか、分からない時がある。

 ある程度は侯爵家のやり方に精通している俺がいれば、酷い横やりが入る事は少なくなるのではないかと考えている。勿論大きな抑止力になるかどうかは分からないが、無いよりはましになるだろう。


 俺の意見を聞いた親父は、否定するでもなく「そうだな」と小さく頷いた。まさか肯定されるとは思わず、少し驚く。


「旦那様と奥様が最も守るべきものはこの家や国であり、アナベル様ではない。もし家や国とアナベル様を天秤にかけるのであれば、お二人は即座にアナベル様を捨てるだろう。そういう決断をする方だ。だが、お二人なりに、アナベル様に詫びをしようという気持ちがあったのは、事実だよ」

「そりゃあ、全てが完全に嘘なんて思ってはいないが……」

「アナベル様が当主になるとして、よりよい条件の爵位は他にもあった。その中でラングストン子爵が選ばれたのが何故か分かるか?」

「…………良い具合に、力を持ち過ぎないから?」


 今のアナベル様からは考えられないが、下につく人間によっては領地が成長していく可能性も否めない。そういう事を考えて、侯爵家がどうとでも対応出来る領地を与えたと考えるのが普通だ。


「それではないさ。……子爵領から最も近い国は、我が国と長年友好関係にある。余程の事が無ければ、子爵領が戦火に巻き込まれる事はない。奥様はその事を考えられて領地を選ばれた筈だ」

「は――? 待ってくれ。また戦争が起きるのか? そんな話は聞いてないぞ」

「そうだろうな。王都には殆ど話が回ってないようだからな」


 その時、旦那様と奥様がブライアン坊ちゃんに沙汰を下したあの廊下の騒ぎを思い出した。確かあの騒ぎの中で、奥様は隣国に気を取られた、みたいな事を仰っていた。


「いつもの小競り合いではなく、大掛かりなものなのか?」

「小競り合いという事になるだろう。表向きに、今はな。だが、将来的な事は分からない」

「……ブライアン坊ちゃんも、出征されるのか」

「そうだろう」


 世間での罪の印象を払拭するには、それを上回る功績が無ければならない。功績を上げた人間には人は強く言えない事が殆どだから、家名を貶めた分を戦功で償えと……そういう話になっているのだろう。代々武功を上げてきた家門らしい考え方だ。戦場やそれを支える土地ならば、色々な人間に使いようがある。旦那様の怒り具合によっては、ブライアン坊ちゃんやあの愛人は、今まで考えた事もない扱いを受ける事になるだろう。愛人はともかくとして、それで坊ちゃんの目が覚める……或いは、過去を顧みるようになってくれたらと思ってしまうのは、なんだかんだと幼い頃遊んでいた時の記憶があるせいだろうな。


 まあ、こうして立てる予想も全て、俺が知っている限りの旦那様方の人となりから想像したものに過ぎない。親父が語っている事だってそうだ。本当はそこまで意識されていないかもしれないし、本当に気にかけていたのかもしれない。……人はどうしたって、自分が気に入っている人間に少しでも良いように事を想像してしまうのだ。


「アナベル様には話すなよ」

「……話すわけがない。あの方の性格を考えたら、必要もないのに気にしそうだ」

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