【31】押しに弱い
あれから…………本当にあれから、随分と忙しかった。
私は基本的にはただ義父母の……侯爵夫妻の決定に従っただけだけれど、様々な決定、それに伴う書類上の処理、それによる実生活の整理…………やる事は酷く多かった。こなせたのは侯爵家の使用人の皆が、優秀だったからに過ぎない。
夫……ブライアンが部屋での謹慎を言い渡された数日後には義父母に付き添って領地に移動していた使用人たちが戻ってきた事で、屋敷の雰囲気は一気に変化していった。いや、元々は今のような雰囲気だったのだろう。使用人たちの中には、ブライアンの指示で追い出されたような状態の人もいたそうで、彼らの幾人かはわざわざ侯爵家に戻ってきたというのだから、前の侯爵家が働きやすい家だったという事が窺える。
使用人たちが戻ってきて気が付いたが、私にとっては多すぎるぐらいいてくれた使用人の皆は、侯爵家の大きな屋敷を維持するには少なすぎたのかもしれないという事だった。あれだけ使用人が増えたら人が溢れるのではないかと思ったのに、そんな事はなく問題なく仕事も回っている。むしろ、処理しなくてはならない仕事が多いからか皆忙しそうだった。
ギブソンの父という、本来の執事長も戻ってきたが、そろそろ後継に継がせたいと思っていてもおかしくないと思う程のお年に見えた。けれどハキハキしていて、息子のギブソンと孫息子のジェロームにあれこれと指示を出して仕事をこなしていた。アーリーンも本来の侍女頭と話をしながら侍女の皆に仕事を割り振っていた。ちなみに侍女頭さんは人の良さそうな女性だったのだが、ギブソンの母だという。つまりギブソンはご両親がどちらも侯爵家に仕えている、まさに侯爵家お抱えの使用人一家の生まれだったという事だ。そういう人々が侯爵家には沢山存在しているのだろう。ブリンドル伯爵家では考えられない事である。
そんな中……これまで屋敷で働いてくれていた中の幾人かの使用人は、その場でクビを言い渡された。私はその場には居合わせず終わった後に侯爵夫人から結果だけ聞かされた形だ。
その中には、家令のソラーズもいたのには驚いた。私は知らなかったが、何人かの使用人は完全に夫の手ごまのように働いていて、ブライアンなりの偽装工作に携わっていたらしかった。ソラーズは特に普段から屋敷に滞在しながら、ブライアンの指示で屋敷を出入りする手紙類の偽装工作に強くかかわっていたそうだ。
勿論、ソラーズたちだけで偽装が済むわけはない。ブライアンは屋敷に出入りする業者――私が個人的な付き合いで縁を紡いだドロシアーナの人々とかではなく、日常的に出入りしている業者の方だ――にも手を伸ばしていて、特に手紙のやり取りに関わっていた人々はライダー侯爵家の屋敷に来る手紙や屋敷から出ていく手紙を全て回収し、ブライアンにとって問題となりかねない手紙を処理したり偽物を用意したりしていたらしい。何かしら手を伸ばされている事はギブソンからも聞いていて知っていたけれど、それほど多くの人を使っていたとは知らなかった。正式に犯罪にかかわる事をしていた者も多く、そういう意味でクビとなってしまった者も少なくなかっただろう。ブライアンの行動の影響は、私が思っていたよりずっと大きかった。
「あの子は傲慢すぎたわ」
後処理に振り回されている間に侯爵夫人と話している時に……彼女はぽつりと、そう漏らした。
それ以上の説明は無かったけれど……その後、結婚前から結婚後までのブライアンの行動が分かるごとに、侯爵夫人の言葉の意味が少し分かった気がした。
彼は、私を始めとして下の立場の人間が自分に反抗する事を殆ど想定していなかったのだろう。考えもしなかったという事は流石にないだろうが……幼い頃から名門侯爵家の跡取りとして育てられていたのだから、周りが自分に合わせるのは当然という事も多かったのだと思う。今回の、どこか中途半端な、けれどそこまで手を回す? という部分も持ち合わせている計画のちぐはぐさは、彼の傲慢故の油断から生まれたものであったようだ。
彼にも人を大切にする感情はあっただろう。だがそれを自分より目下の者に誰にでも与えるという価値観はないし、言葉を選ばなければ周りを見下していた。私に自由を与えたのは、自分の命令に従う私を見て……私という人間はブライアンには歯向かわないと認識したから……或いは、私如き、いつでもつぶせる故の油断だったのかもしれない。
アボット商会もそうだ。私が関わっていたのが最初の時点で多くの貴族と懇意にしていた商会関係者であれば、きっと彼は関わる事を許さなかっただろう。だがアボット商会はそれなりに歴史があっても、今までは殆ど平民に関係していた商会。何かあれば侯爵家の力でどうとでも出来ると思っていたから、目こぼしされていたのだろう。
こうした油断はブライアンだからというより、高位貴族として生まれ高位貴族の人としか殆ど接さずに過ごしてきた人の大半が無意識のうちにそういう価値観を持ってしまうのだと思う。勿論持っていても隙がない計画を練る人もいるのだろうから、ブライアンが甘い考えでいた事には変わりはないだろうが……。
平民の命を何とも思わない貴族は少なからずいる。同じ貴族同士でも地位が下であれば相手の事など一切顧みない人もいる。ブライアンにとって私は顧みる相手ではなかったし、ソラーズを始め命令を下していた使用人たちもまた、その程度の存在だったのだろう。
あの一件の後にブライアンと直接話はしていないので、彼が実際にどう思っていたかは分からない。
これらはすべて、ブライアンがしていた事実の報告を見ながら私が勝手に妄想したに過ぎない。だから合っているかは分からないけれど……でも大きく外れてもいない気がする。
首謀者たるブライアンは、最終的に私との間に結ばれていた書類上の婚姻関係を解消した後、侯爵の部下たちによって王都から連れ出されていった。何も言わず抵抗もせず、連れ出されていったとだけ聞いた。
王都から連れ出された後は少なからず楽ではない日々を送る事になると侯爵が言っていた。侯爵はブライアンに対してかなり怒っていて、ブライアンが連れだされる日までかなり物理的に扱いたと耳には入っている。ここまで苛烈な男性は私の傍には今までいなかったから、正直苦手で、二人きりにはなりたくない。幸い、王都に戻って以降の侯爵は日々忙しそうにしていて私に個人で会いに来るなんて事はなかった。
もう一人の主要人物であるエヴァ様もブライアンと同じように王都から連れ出されていったらしいが、彼女は王都を離れる事を酷く嫌がっていたのだという。地方の田舎に行くなんて嫌、と騒いでいたとか。一応、王都を離れないですむ方法はあるにはあった。侯爵家が提示した額の金額を払うという形で。その慰謝料を本人ないしエヴァ様の家族が支払えば、肩身は狭くなるだろうが王都に残る事は出来ただろう。……だがエヴァ様の家族は、容赦なく彼女の身柄を侯爵家に差し出したときく。
侯爵は、エヴァ様の家族に、“二度と王都の地を踏ませずエヴァ様のみを侯爵家に身を任せて罪を償わせる事”と、“家族そろって罪を償う事”のどちらが良いかと言ったらしい。罪を償うという事がどんな事かと言えば、分かりやすい形でお金であらわされたという事だが……その額は平民であるエヴァ様の家族には到底支払えない額だった。
彼らがエヴァ様とブライアンの関係を知っていた事で、エヴァ様を止めなかった家族にも一定の罪があるという認識になったためのようだ。……具体的にどういう事か聞いてみると、どうやらエヴァ様が貴族の愛人という立場になっていた事に家族は気が付いていて(羽振りは良かっただろうし当然気が付くだろう)、加えて、貴族の愛人となった娘を伝手にその旨みを存分に吸っていたらしい。エヴァ様の兄弟はブライアンの働きかけで普通より良い職に就き、家族はより良い暮らしをしていた。
……その生活を全て捨ててエヴァ様を含めた家族でお金を払っていくという道と、エヴァ様を切り捨てて今の生活を守る道。どちらを取るのか。
……この選択を聞いた時、侯爵は私が思っていたよりもずっと、エヴァ様に怒りを抱いていたのだと感じた。
侯爵はきっと、エヴァ様を苦しめるためにそんな二択を彼女の家族に出したのだ。自分が貴族の愛人になったお陰で良い生活が出来るようになったにも関わらず、手のひら返しで自分に罪を擦り付けて逃げようとする家族を見て……エヴァ様は一体どんな気持ちを抱いたのだろう。それまで仲良くしていた家族に裏切られるような状況は……。
あまり、考えたくない。
それから……私の事に特筆する事があるとするのなら……。ああそうだ、侯爵家と私の間で行われた契約の時は色々と驚かされる事になった。
私は離縁の書類にサインをする前から、侯爵夫妻からは慰謝料を渡すという事は伝えられていた。それから、ブリンドル伯爵家には可能な限り便宜を取り計うとも約束してくれた。正直それだけでも嬉しかったのだけれど、侯爵たちはそれを正式に取りまとめる契約書を用意すると仰った。余談であるが私とブライアンが勝手に結んだ契約書は当然破棄された。ブライアンが嫡男でなくなり、私やブリンドル伯爵家に与えられる利点を提供できないという理由での破棄らしい。
話は戻って、慰謝料の件を侯爵から伝えられた次の日に、王宮から役人がライダー侯爵家の屋敷にやってきた。
「内務大臣補佐のシルヴェスター・スケルディングと申します。此度はライダー侯爵からの申し入れにのっとり、立会人として王宮より参りました」
内務大臣補佐。内務大臣というのは確か、王宮において国王陛下の一番の部下として国の政治を取りまとめている立場だった……と、私は記憶している。その補佐という事は、恐らく王宮でも地位はかなり高い筈。それにしては見た目が若々しい。ああでも大臣本人ではなく補佐だから、若くてもあり得るのか。
具体的にどれほどの高さか分からないが、少なくとも低い地位の人ではないはずだ。何せ、大臣の補佐なのだから。そんな地位の高い人を昨日の今日で呼び出せるという事は、それだけライダー侯爵家の力が強いという事なのだろう。
スケルディング大臣補佐を迎え入れた侯爵は、やや渋い顔をしていた。
「……わざわざ内務大臣補佐殿がお越しになるとは。有難い事だ」
侯爵の言葉にスケルディング大臣補佐はニコリと微笑む。
「ライダー侯爵家の申し入れの内容は、下の者では安心して任せきれないと大臣はお考えだっただけの事でございます。何せ……いえ、私から申し上げる事ではありませんね」
こうしてスケルディング大臣補佐が間に立ち、正式な契約書を用意した上で、ライダー侯爵家から私への慰謝料と、その後の関係を決める契約が取りまとめられる事となった。
事前に聞いていた通り、今回の離縁は元夫ブライアンの方に大きく問題がある故のものであり、婚姻関係が継続できない点において私には非が殆どない――という結論になるのだ。それを改めて文字に起こして、かつ、どちらがより悪いかを表すために慰謝料を支払うのだが――。
「では事前に申請がありました通り、ラングストン子爵位と子爵領をアナベル様に譲渡するという事で宜しいでしょうか、ライダー侯爵」
「えっ?」
「問題ない」
スケルディング大臣補佐が差し出した三枚の書類に、侯爵はあっさりとサインをした。補佐はその書類を私の方へと差し出す。
「ではこの内容で不服がなければ、サインを」
「お、お待ちください。お義父様――ら、ライダー侯爵。今、子爵位という御言葉が聞こえたのですが……?」
慰謝料の言葉通り、お金の支払いではないのか。そう困惑する私に答えてくれたのは侯爵夫人だった。
「そうですよ。慰謝料を渡すと伝えてあったでしょう?」
「確かにその事は聞いておりましたが、しゃ、爵位なんて……」
ライダー侯爵家ともなれば、名乗っているライダー侯爵位以外にも爵位を持っていておかしくない。それは分かる。分かるが、どうしてそれが私に慰謝料として渡す事になるのか……流石に身分不相応過ぎて、とてもではないが受け取れない。
「恐れ多いです。ただでさえ、これまで私が手に入れた資産の持ち出しまでお許しを頂いておりますのに……」
これまで私が毎月与えられていたお金で買っていた芸術品に洋服などの身の回りの物。侯爵夫妻は心が広く、それらを全て持ちだす事を許してくださっていた。それだけでもどれだけ有難い事なのか、大きな声で言わなければならない程なのに。
そう狼狽える私に、夫人は優しく微笑みかけた。
「言ったでしょう。アナベル。侯爵家として出来る限り、取り計うと」
「ですが……」
「どうか受け取って。ブライアンの行為は酷いものだった……それでも離縁した今、貴女にある事ない事を呟く者は少なからずいるわ。アーリーンが言っていたわよ。どこかの修道院に身を寄せようかと呟いていたと。望んで神の道に入るのならば私たちが口をはさむ事ではないけれど……そうではないでしょう?」
……確かに今後の身の振り方を考えている時に、その事をちらりと考えたりもした。だがそうすると決めた訳でもなかったし、何より……それこそ離縁したのだからそこまで気を遣う必要もないというのに。どうしてそこまで。
混乱する私だったが、その後も夫人にどうか受け取って欲しいと頭まで下げられてしまっては、もう受け取るしか出来なかった。
それからも、侯爵家が今回の事を理由にブリンドル伯爵家に不利になる事はしないなども取りまとめていく。
流石に現在行われている支援を全く同じ条件でずっと続けていく事は出来ないが、今すぐ支援がなくなる訳ではないという事を侯爵から伝えられた。少なくとも、ブリンドル伯爵家が立ち直るまでの猶予は与えてくれるという事だ。それ以外の細かい内容についてはブリンドル伯爵夫妻と話すという事だが、私が望めばその契約を結ぶ場にも呼んでくれるという。私は何度も侯爵夫妻に感謝した。
ライダー侯爵家がそれらの事を私に保証する代わりに、必要以上にライダー侯爵家の悪評を騒ぎ立てないという一文も契約書にあったが、ここまでよくしてもらっていて侯爵家に盾突こうなんて思う訳がない。というか、考えもしなかった。
慰謝料の取り決め。ブリンドル伯爵家を不遇にしないという約束。それらをまとめた契約書が、私用、侯爵家用、そして王宮に保管する用の三枚用意される。王宮の人が立会人である事で、この契約書を守らなかった場合、王宮……つまり国からも責められる事になるので、普通の契約書よりもより強く守らなければならないという。
普通であればサインするのに戸惑いぐらいあるのかもしれないが、この内容に文句がある訳もないし侯爵家の名誉をもっと落とそうとも思っていない。
まず、侯爵夫妻が二人そろってサインをした。次に私が三度、同じ内容が書かれている三枚の紙にサインしていく。最後に立会人としてスケルディング大臣補佐がサインをした。
――こうして正式に、私はライダー夫人と呼ばれる事は無くなったのだ。




