【30】怒れる侯爵夫人に触るべからず
「それから」
「まっ、まだあるのですか……?」
義母の言葉に夫が掠れた声で尋ねたが、義母は一人息子の言葉を無視して私を見た。
「アボット商会の夫人と親しいそうね」
「え、あ、はい。彼女はデビュタントがたまたま同じ会場でして、今も親しくしております」
メラニアの事を言われ、私は頷いた。言ってから、これでメラニアに問題が飛び火したらとんでもないと気が付き青ざめてしまった。わ、私は本当にどうして、こう……!
「ブライアン。アボット商会は、今特に勢いのある商会の一つです」
「……確かに調子が良いというのは聞いていますが……」
夫は私がアボット商会……というよりも、その夫人である古い友人であるメラニアと関わっているという事は把握している。だから義母の言葉は本当に今更という感じで受け止めている風だった。かくいう私もアボット商会を説明するとそんな風になるのだな、位にしか思っていなかった。
ただ義母は、夫の返答に少し落胆したようだった。
「ブライアン。アナベルの服装を見て、何も思わないのかしら」
「服装?」
夫は私の体を上から下まで見た。その視線には所謂性的な感情が一切ないので、まじまじと見られても意外と嫌悪感はない。あくまで性的な意味での嫌悪感で、あまり好ましくない相手に見られているという意味での嫌な感触はあるが。
「……いえ、とくには」
夫の反応に義母はあからさまに溜息をついて義父を見る。
「旦那様。やはり男児とはいえ、もう少しは剣以外を握らせるべきでしたわ」
「…………」
侯爵夫妻の会話の意味が分からず、私、夫、エヴァ様はぽかんとしている。
義母は夫を見ながら、もう一度言った。
「アナベル。貴女の着ている服は、『ドロシアーナ』で仕立てた物でなくて?」
「はい。その通りです」
「は、は!?」
よくご存じでと思いながら頷いたのだが、夫とエヴァ様からほぼ同時に驚きの声が上がった。
私からすると近くのエヴァ様の声が大きく聞こえてしまったので、彼女の方を振り返る。彼女はぷるぷると震えて私の姿を上から下まで見つめていた。
「ど、『ドロシアーナ』の? ドレス? ドレスが?」
「ドレスが……と言いますか、私が今持っている服は全て『ドロシアーナ』の物です」
「は、はあ!? 嘘よ! 『ドロシアーナ』は今、三年以上待たなくちゃいけないのよ! 既製品の量産されているタイプの服ですら、売り出されたら即完売するのに、そんな事出来る訳ないわ!」
「若奥様は嘘など仰っていません!」
状況を見ていた使用人の中から、ジェマが進み出てきてそう声を張り上げた。ジェマは義父母に向かって一礼する。
「若奥様の身の回りのお世話を任されているジェマ・ダウソンでございます。説明させていただいてもよろしいでしょうか」
「許可します、ジェマ」
義母がそう言うとジェマはエヴァの方を見ながら説明した。
「若奥様の身の回りの物……お召し物小物に至るまで、全て『ドロシアーナ』のデザイナーであるドロシアが手にかけたものでございます。勿論、全て世に一つしかありませんオーダーメイドの一品でございます」
ジェマは言いたいことはそれで終わりだったのか、一礼してまた使用人たちがいる場まで下がっていく。
「オーダーメイド?」
エヴァ様が私を見上げながらそう呟くので、困惑しつつ、私は頷いた。
「ジェマの言う通り、今私が持っている服はドロシアーナで仕立てたオーダーメイドのものです」
元々平民向けに商品展開していたアボット商会が運営しているドロシアーナは、貴族の夫人たちが好むオーダーメイドの一点物以外に、それよりも格が落ちるとされているものの、シーズン毎に量産された服も用意している。オーダーメイドを気軽に注文できないけれど平民よりはずっと高級な物を好む富裕層に人気だとは、ドロシアから聞いた事があった。
私はどうせ社交もしないのだから量産の服でも構いやしないのだけれど、メラニアや……ドロシアが熱烈に、私にピッタリな服を作らせて欲しいと言うので結局オーダーメイドにしていたのだ。まあ確かに私は一般的な女性より背丈があるので、既製品では合わせにくいというのがあったのかもしれない。多少割高にはなるけれど、今までの私には使いきれないほどの予算があったし(今後はなくなる可能性が高いが)、メラニアは大切な友人。彼女の嫁ぎ先に貢献を少しでも出来ればと思ってオーダーメイドにしていたのだが……。
エヴァ様はふらふらと後退したかと思えば、その場でしゃがみ込んでしまった。
「えっ、エヴァ様!? 大丈夫ですか?」
私の声に返事はせず、エヴァ様は今にも泣きだしそうな声で言った。
「ブライアンに、何度ドロシアーナの服が着たいと頼んでも、無理だったのに……なんでよ、なんでこの女は着れて、私は着れないのよっ」
エヴァ様の言葉にまたまた、え、と声が漏れながら夫の顔を見る。夫は眉間に皺を寄せて少し苛立っているように見えた。
「品が入荷したら伝えて欲しいと言っても、あまりに人気でしてと他の貴族の名前を匂わされては中々…………アナベルがそこまで懇意にしているのなら、私にも売るべきだろう……!」
「……はあ」
夫の言葉を聞いた義母は、もう一度、大きなため息を吐いた。
「ブライアン。貴方はここまでの話を聞いて、気が付きもしないのですか。それとも全く知ろうともしていなくて、思いもよらないのですか。どちらです」
「何が、ですか、母上……」
「『ドロシアーナ』を運営しているのは、アボット商会です」
夫はその言葉に明らかに驚いているようだった。
そして義父母は、そんな夫の反応に呆れたように溜息をつく。もう彼らが何度溜息をついたか分からない。
「ブライアン。貴方の事ですからブランドの名は知っていても、誰がどう運営に携わっているか等気にも留めなかったのでしょう。騎士の中で育ってきた貴方が多少このような物に疎くなるのは仕方がないかもしれません。ですが『ドロシアーナ』は屋敷にも出入りしていたというのに、全く気が付きもしなかったなんて……。旦那様。やはり、もう少し剣以外も持たせるべきでしたわ」
「そ、そんな、そんな事……ソラーズ! どういう事だ! 俺は報告を受けていない!」
夫が声を張り上げ、使用人の山の方角を見た。その瞬間、空気を読んだように人の塊が左右に割れて、人込みに紛れていた家令のソラーズが丸見えになった。ソラーズは名前を呼ばれて悲鳴を上げた。
誰かがソラーズの背中を突き飛ばした。彼はたたらを踏みながら前方に移動して、数歩先でこてんと床に転んでしまった。あ、と私は声が漏れるが、距離もあって声をかけられなかった。ソラーズは倒れた後、恐る恐る顔を上げる。彼の横に立っていたのはギブソンで、ギブソンは酷く……何故か酷く冷たい視線をソラーズに注いでいた。結局ソラーズは何も言葉を発さず、その場で頭を抱えてしまった。
「あまり家臣のせいにするのは感心しません。もしあの家令が貴方の望みの情報を報告していたとしても、貴方が興味も無ければ聞き逃した可能性もあるでしょうから」
「ドロシアーナは、アボット商会は、俺への当てつけで……」
「それもあるでしょうね。やり手の商人の妻である女性が、アナベルと親しくしていてお前との夫婦仲が上手くいっていない事に気が付かないはずがありませんもの。ですがそれだけでもないでしょう。商会としても、お前とは関わりたくないという判断が働いたのでしょう」
「何故。俺っ、私は侯爵家の跡取りなのに……!」
「お前の身近な社交の場でどう聞いているかは知りませんが……お前とアナベルの事は、王都の社交界でそれなりに噂になっているわ。それに伴い、ライダー侯爵家についての良くない噂も広まっています」
「そんな筈は!」
「ブライアン」
夫を一度殴って以降、義母の独壇場に黙り込んでいた義父が口をはさんだ。
「男と女の社交の世界は別物だ。男の社会では広がっていなくとも、女の社会では既に広まり終わっている事など、よくある話だ。……今のお前には、夫人たちの噂を教えてくれる友人はいなかったようだが」
夫は何度も口を開閉していたが、何も言えなくなっていた。義父に殴られたよりも衝撃を受けているように思えた。
しかし義母はそこで攻撃の手……攻撃の手? を止めなかった。
「アナベルが様々な美術館や劇場に熱心に通っている事は、早々と有名になっていたようですよ。それもそうでしょう。顔が広く知られていなくとも、アナベルは普段から侯爵家の馬車を使い、侯爵家の使用人を連れ歩いているのだから。それまでアナベルから取り上げなかった事だけはお前を評価しても良いわ。……ブライアン。夜会にも茶会にも参加せず開く事もない貴族の夫人が連日外出して時間を潰していて、周りがどう思うか、考えもしなかったのかしら。……剣ばかり振るっていたとしても、それぐらいは分かると、母として願いたかったわ」
「それは……でも、特に……」
「アナベルの行動は矛盾しているわ。おかしいと思わない事が、貴族としてはおかしい程に。……ブライアン。私の友人たちからアナベルへの茶会の誘いも、全てお前が断りを入れていたそうね。何かおかしいと皆、お前とアナベルを心配し、様子を窺ってくれていたのよ」
夫が回収しているのだろうとは思っていたが、やはりそうだったか。彼は自分の行動を母に語られ、顔を俯かせている。
「いいですか。ブライアン。アナベルの状態はあまりにもおかしかった。お前の周りの友人たちが仮に令服のブランドに一切興味が無かったとしても、女性たちの噂話を知らなかったとしても……お前はアナベルを一切社交に出さないという選択をした時点で、パートナーが社交をしない分をカバーしなければならなかった。けれど結婚後は前とは異なり若い女性からの関わりを、自ら断っていたようね。…………エヴァに操を立てていたつもりだったのかしら? くだらないわね」
あまりの両断に、最早、誰も口をはさめなくなっていた。誰よりも小柄なのに、誰にも負けない圧があった。
「私の耳に囀ってくる者もいたわ。…………それでもね。私は……ブライアン、お前の事を母として信じていたのよ」
義母の声が、先ほどまでの強さが失せて、震え出した。ハッとして夫も顔を上げて、自分の母を見つめていた。
「お前を、母親として信じたかったわ。お前が私たちに見せた、アナベルへの思いが全て嘘だなんて演技だったなんて、思いたくなかった。王都から届く手紙はどれもこれも問題が無い物ばかりであったからライダー侯爵家に嫁いできたアナベルへの当てつけで生まれた噂とも思っていたのよ。そんな時に隣国のせいでお前たちに気を配る余裕が失せて……けれど私と旦那様の息子なら、そしてそんな息子が選んだ女性なら、不足はあっても立派に仕事を成してくれていると思っていた。…………分かりますか、ブライアン。やっと余裕が出来た時に、執事長から、お前が、自分で是非妻にと無理を言って望んだ女性を! アナベルを虐げていたと! 迎え入れる前から関係にあったとかいう女とずっと続いていて! しかもその女を孕ませ、その子供を跡継ぎにするために養子縁組しようとしていると、聞いた、私の、私たちの気持ちが!」
義母がここまで感情全てを表に見せたのは、初めてだった。それは付き合いの短い私だけでなく、夫にとってもそうだったのだろう。自分より二回りぐらい小さいだろう義母の怒りに夫は縮こまり、エヴァ様はひいと悲鳴を上げてその場で蹲ってしまった。
私はもう、どうしたらいいか分からないで固まっていた。
義母は乱れた呼吸を整えてから、私の両手を握った。夫に対して見せた激情は少しもない、侯爵夫人としての落ち着いたいつもの義母だった。しいて言えば、そこに私に対する申し訳なさが少し乗っている。
「アナベル。本当にごめんなさい。もっと早くに……最初に私の耳に噂が届いた時に動けば、少なくとも二年以上貴女が蔑ろにされる事などなかったのに……本当にごめんなさいね。これだけ貴女を虚仮にした男の子を生んでくれなどと、悍ましい事は、頼めません」
夫はかすれた声で「おぞましい……」と復唱していた。衝撃を受けると復唱し始める人なのかもしれない。
ゆっくりと、義父が夫の傍に近寄る。
「ブライアン」
低い声に名前を呼ばれて、夫は僅かに肩を揺らした。また義父が夫を殴るかと私も緊張してしまったが、そんな事はなかった。
「今のお前に侯爵家を任せる事など出来はしない。後継者の立場からお前を外す。本当であれば斬り捨ててやりたいが……ふん。戦離れしている王都の者らから反感を買うだろうな。どちらにせよ、堕ちた侯爵家の名誉を回復するのに、お前がこのまま王都にいたところで何の役にも立たん。正式な沙汰は追って伝える。部屋で大人しくしておれ」
夫は答えなかった。ただただ俯いて、微かに体を震わせているようだった。
「エヴァ、と言ったかしら」
義母の声にエヴァ様が体を震わせる。
「あの子が結婚する前ならばいざ知らず……結婚してなお関係を築いていたのだもの。正妻からその立場を害される事は勿論、想定済みでしょうね。お前を選んだブライアンの方が遥かに罪は大きいでしょうが、その立場に甘んじたお前に罪がないという意味ではありません。どのような形で我が家に償ってもらうか……さてどうしましょう。アナベル。貴女の希望はある?」
「え。えっ。いえ、あの……」
エヴァ様に対しての義母と、私に対しての義母の雰囲気が違い過ぎて顔が引きつりそうになる。床に転がっているエヴァ様は庇護欲を誘う姿で、目を大きく見開いて私に縋るような視線を向けてきていた。もしここで私が厳罰を望んだら、重い罪を与えられるのだろうか。そう思ったものの、正直、ここ数日の間で初めて会っただけのエヴァ様に対して特に恨みも怒りもないのだ。逆に重すぎる罪を背負ったと聞くと、こちらが気まずい。
「いえ。私は……侯爵家のご判断に従います。……ですが、そうですね……その、妊婦ですので、あまり重いものは……」
「そう。分かりました。何より被害者であるのは貴女だもの。貴女の望みを出来るだけ叶えると誓うわ」
「ありがとうございます」
義父が使用人たちの方に向かって手を動かす。男性使用人たちが夫を、侍女たちがエヴァをそれぞれ連れていく。無言で去る夫と泣いて助けを求めるエヴァ様の背中を私は見送った。
……終わった、のか?
一つ分かるのは夫は侯爵家の後継者ではなくなった事。エヴァ様を本当の妻としてその地位に納まり続ける事など出来なかったという事。
残ったのは、その夫の行動に迎合したにも関わらず何の沙汰も下ろされていない私と、いつでも罰を与える事が出来る義父母だけ。
「アナベル」
義母の声に、つい肩が震えた。
私より低いところにある義母の顔を、見下ろす。義母は私を上目遣いで見上げながら、もう一度私の両手を包んだ。温かい手だった。
「これ以上貴女を苦しめる事がないよう、侯爵家が出来る限り取り計うわ。信じて下さるかしら」
横になんて振れるはずもない。
私が首を縦に振ると、義母は夫に似た美しい顔でありがとうと呟いた。




