【29】怒った人の話は長い
この状況下で出掛ける事など出来るはずもないので、私は諦めて屋敷の私室で大人しくしている事にした。ジェマから聞くに、義父は夫の執務室に入って何やら調べ物をしていたらしい。それから、ソラーズが酷く責められているらしい様子があったと。ソラーズは家令として夫の仕事を手伝っていた訳だから、もしかしたら夫の分の怒りが向けられているのかもしれない。そうは言ってもソラーズは雇い主である夫に従っただけなのだから、義父に怒られてしまうのは少し可哀想だ。
他にも使用人たちは本当にほぼ全て、義母によって聞き取り調査が行われているらしかった。ジェマは度々屋敷の様子を伝えてくれたのだけれど、私が直接会った事が無いだろう下の使用人たちにも話を聞いているらしく、義母はかなり本気でこの二年と数か月、この屋敷で何が起きていたかを調べているらしい。
昼食はお二人と食べる事になるかと思ったが、義父と義母、それぞれから簡単にメッセージカードが届いた。言葉こそ違ったが内容はどちらも、調べ事が終わらないため、一人で食事を取って欲しいというものだった。……示し合わせたようにカードを持ったギブソンとアーリーンが訪れたので、私はそっと遠くを見つめながら夫婦は似るのかな……と現実逃避をした。
そして夕方。
「若奥様、どうやら若旦那様……たちが屋敷に来られたようです」
「え」
動きが早い。
どうやら義父母が夫とエヴァ様を呼びつけたらしい。私にはどうしろという指示が今のところないため、恐る恐る玄関ホールの近くへと移動する。玄関ホールを見下ろすように階段の近くまで移動して様子を伺っていたのだが、ホールに義父母が揃っていて驚く。しかも義父は見るからに今から戦いますという雰囲気を漂わせている。
ドアが開き、外から夫と彼に肩を抱かれたエヴァ様が入ってきたが、二人は義父母の事を見た途端に顔色を悪くさせた。
「ち、父上、母上っ? どうしてここに――どういう事だ! 騙したのか!?」
夫はギブソンの方を見てそう叫んだので、どうやら義父母は自分たちの名前ではなくギブソンの名前を使って呼び出したらしいと知る。明らかに睨まれてもギブソンは全く気にしておらず、平然とした顔で立っていた。
「私がジェロームの名を使って呼んだのだ。理由は分かるな、我が息子よ」
その声に夫も押し黙ったが、それ以上にエヴァ様の顔色がとかく悪かった。夫が支えていなければ今にも倒れてしまいそうだ。
「エヴァ様、体調悪いのではないかしら。妊婦なのですし、別室に寝かせてさしあげた方が良いわよね……」
これから起こると想像がつく義父母と夫の争いを考えると、その渦中に妊婦を置いておくのは忍びない。そういう思いからだったのだが、私の言葉を聞いたジェマは少し呆れたような顔をしていた。
「若奥様。優しすぎます」
いや優しいというか……彼女に何かあれば大問題だ。今後私と夫の婚姻が……まあ無くなるのなら私には一切関係が無くなるが、もしそうでなければ。もし、私と夫と子作りが必須だと決定してしまったら、最悪だ。夫の子を産んで……本当に愛せるのか、全く自信がない。それならばエヴァ様が産んでくれた子供を形だけ養子縁組する方がずっと……ああいや、そうするかどうかを決めるのは義父母だから、私には決定権が無かった。いけないいけない。
私の意識が少し飛んでいる間に、義父母と夫とエヴァ様が階段を上がって二階へと移動してきていた。私は慌てて、まるで今まさにここに到着しました、という顔をして階段を上り切った所に立った。
階段を上がってきた彼らと目が合う。夫からの視線は鋭く、義父母を呼びつけたのは私だと思っていそうな雰囲気だった。いや、私もどうして義父母がここに来たかは知らないので無実だ。しかしそんな事、この場では言えない。とりあえず彼らと一緒に移動しようか――と思った所で、義父は対夫の時と比べれば随分と柔らかい声で私の名前を呼んだ。
「アナベル」
「は、はい」
「暫くは自室にいるように」
「……はい」
親子の会話なので邪魔をしないように。
そんな圧を感じ、私は頷いた。そしてそそくさと自室に戻ったので、ここからは使用人たちからの又聞き情報だ。
あの後、義父と夫はそれはそれはもう壮絶な言い争いをしたらしい。内容としては、これまでの私との仮面夫婦の状態や私の扱い、それから自分たちの許可もなく愛人と子供を作った上にその子供を将来的に養子縁組で侯爵家に入れようと画策していた事など……ともかく、私と結婚して以後のあれやこれ、大体全てについてだったそうだ。
予想は出来ていたが、途中でエヴァ様が気絶しかけ、義母もそこで妊婦には酷だろうからと別室に寝かせたらしい。……妊婦に酷だという予想は始まる前から出来ていたと思うのだけれど、もしかして意図的に争いを見せたとか……いやいやそんなまさか、はは。ははは……。
エヴァ様の退出後、親と子の争いは激化して、それはそれは酷かったそうだ。エヴァ様がどこの部屋に寝かされていたかは分からないが、隣の部屋に移動しただけだったなら、恐らく壁越しに怒鳴り合いがずっと聞こえていただろう。うーん同席したくない。義父に最初から追い出されていてむしろ良かったかもしれない。
結局一日で決着はつかず、夫とエヴァ様はこの屋敷に泊まり込んだ。……夫に関しては一応こちらの部屋が本来の家であるはずなので泊まると表現するのがおかしいのだけれど、屋敷の使用人たちは夫の世話を殆どしていない人ばかりなので、殆どお客様を相手しているようなものだったそうだ。
そして次の日の朝。朝食。ここは死後の監獄かというような不穏な空気が流れていた。普段の晴れやかな朝の食事の時間帯では全くない。
義父、義母、私が横に並び、その反対側に夫とエヴァ様が腰かけている。エヴァ様の顔色は最初から高級紙のように白かった。
最初こそ誰もしゃべらない無言の空間で居心地が最悪だったのだが、途中でエヴァ様が一つマナーを間違えた。私は「あ、間違えられたな」ぐらいだったのだが、それを見た瞬間に義母が顔を歪めて一言。
「まあ」
エヴァ様の顔色が、白を通り越して青黒くなったような気がした。人間の顔はあそこから更に悪い状況になれるのか、と他人事のように思ってしまった。
横に腰かけている夫はすぐそれに気が付き、義母に一言文句を言った。愛する女性がいじめられて許せなかったのだろう。だがその言い方が悪かった。義母を貶すような言い方だったために今度は義父の怒りに触れた。母親を貶すなんてと怒る義父に対して夫は愛する女性を貶されたのはこちらだと騒ぐ。男性同士の半ば怒鳴り合いの言葉での攻防にあてられてエヴァ様の顔色はもう駄目そうな状態になっている。それに対して義母は平然としている。見た目だけならばエヴァ様より義母の方がずっと儚げであるというのに、精神的な意味ではエヴァ様の方がずっと儚そうだ。ちなみに私は一応、見た目だけは取り繕えているとは思うけれど、正直これ以上この場にはいたくない。
そっと横の義母に、退出する旨を伝えると、義母は小さく頷いてお許しが出た。
「エヴァ様も退出させてもよろしいでしょうか」
私の言葉に、義母はほんの少し意外そうな顔になった……気がする。曖昧なのは、私にはそう見えただけで義母の気持ちを正しくくみ取れているかは分からないためだ。実際に彼女がどう思ったかは不明だが、エヴァ様を連れて退出する許可は一応下りた。
どうにも義父との言い争いに熱中している夫は、私がエヴァ様の横に移動しても気が付いていないのか、無視しているのか、反応がない。エヴァ様のすぐ横に立ち、彼女の耳元で「退出いたしましょう」と声をかけると、彼女は愛する男とその父の争いに震えながらも、私の手を借りてなんとか立ち上がった。
食堂の外まで出ると、エヴァ様は震えながらも私に対してお礼を言った。
「あ、あ、あり、がとう、ご、ざいます……」
彼女の人となりは殆ど分からないけれど、少なくとも私に対して好意的な対応は無かった。だからお礼を言われた事に少しだけ驚きつつ、私も答える。
「貴女にはしっかりと、夫の子供を産んで頂かないと困りますので」
勿論、この後の義父母の判断と夫がそれに従うかどうかによっては彼女が子供を産むことはむしろ許されない可能性も高い。だが私個人の考えとしては、彼女には無事に子を産み落として貰いたいと思っている。……夫の子供をというだけでなく、彼女のお腹に宿っている子供の命を奪う真似は、あまりしたくないとも思うのだ。
私の言葉を聞いたエヴァ様は、色は青ざめたまま、少し訝しむように私を見上げた。
「……どうして? 貴方からすれば、私は疎ましいはずでしょう」
私はエヴァ様の顔を見下ろした。彼女の目には怒りのような何か強い感情が宿っていた。
「私が産む子は、貴女の立場を脅かすのだから、生まれて欲しくないでしょう? 本当は自分がブライアンの子供を産みたかったのでしょう!?」
「落ち着いて欲しいのですけれど、年単位でまともに会話をしない、かつ、自分以外の女性を一途に愛していると公言している夫との間に子供、欲しいと思いますか? 冷静に考えてみて欲しいのですけれど」
彼女の言葉はあくまでも個人の感情としての言葉に感じた。その熱にあてられて、つい私も個人的な感情として、エヴァ様に言い返した。
私の言葉を聞いたエヴァ様だったが、納得していない風だ。それも仕方ないのだろう。私たちの間には大きな壁がある。それは私が正妻、彼女が愛人という客観的な立場だけでなく、私は夫に愛されず彼女は愛されている……そういう事を知っている事も関わっているのかもしれない。実のところ私とエヴァ様は協力だってできなくもない立場なのだと思う。それこそ私が表向きの妻としての役目を担い、後継者を作るという仕事や家での妻の役目はエヴァ様が担う――とか。一般的には成り立たない夫婦の形だけれど、私とエヴァ様が冷静にお互いの領分で満足して譲り合えれば、出来なくもない事だ。……まあ、義父母の今の様子からのお許しは出ないだろうから彼女にその話をしようなんて、思いもしないが。
だがどちらにせよ、彼女から夫を取り合う敵のように思われるのは、正直、良い気持ちがしなかったので私は言った。
「確かに最初は傷ついた事もありました。でも今は、どうでもいいのです」
「は? どうでも、いい?」
「はい。どうでもいいです」
私が強く言い切ると、エヴァ様は困惑した雰囲気になる。一つ、息をつく。なんだか、この会話の感じが、前にどこかの劇場で見た歌劇の流れに似ている気がしてならない。何故だろう。私は劇ではなく現実にいるはずなのだけれど。
「私は、元々社交があまり好きではありませんから、今のような状態で十分に幸せなんです。勿論これは私個人の我が儘であり、ライダー侯爵家としての判断に従いますが…………我が儘を言って許されるのであれば、今のまま夫と関わる事はなく、妻の役目として社交の中をくぐる事もなく、美術館に通ったり、演劇を観に行ったりしていたいのです。…………あの方はエヴァ様を愛しているのだからあり得ませんが、まかり間違ってあの方から今更愛しているとか言われても、鳥肌が立ちますわ」
「と、とりはだ……」
おっといけない。エヴァ様が相手だったからか、つい私の怠惰で愚かな気持ちが漏れ出てしまった。実際のところ、本当のところはそんな事は許されない。貴族には高貴なる義務という価値観が存在している。簡単に言えば、他者より恵まれた立場である貴族にはそれに伴う責任があるという話だ。……その事を考えると、本当に自分が醜くて仕方ない。
まあ現在の自由な生活のために夫と夫婦として再構築を……と言われたら、ちょっと、離縁を交渉するか迷ってしまうのだけれど。協力者としている分には問題ないが、流石に愛し合う夫婦としては私と夫は道が分かたれ過ぎてしまった。
「なんだそれは……」
エヴァ様ではない声に、驚いて振り返る。そこには夫、義母、義父が揃っていた。夫は目を見開いて口をはしたなく開けっぱなしにしている。義父は難しい顔で黙り込み、義母は無表情だ。その三人の様子から、今の会話を聞かれたのだと気が付く。流石に自分のあまりに醜い欲望全開の言葉を聞かれた事が恥ずかしく、顔が火照る。
「い、今のは、その……!」
ああああ、うまく誤魔化す言葉なんて浮かばない。頭が真っ白だ。
これまでの自分の行動は既に伝えられているだろう。だからどうせバレているだろうけれど、それでも……。
私に出来たのは、ただただ義父母に向かって頭を下げる事だけだった。
「………………申し訳、ございません、侯爵閣下、侯爵夫人…………」
最早私は、彼らを義父義母と呼ぶ事すら烏滸がましいだろう。
「今、お聞きになった通りでございます。は、始まりが彼の行動でも、私は最後にはそれを許容し、今の状態を望むように…………」
夫から最初から、周りにはバラすなと言われていた。けれど本当に頑張れば、最初から考えて動ければ、もっとこの事態は露呈させられていたのだ。その結果が私やブリンドル伯爵家にとって有利に働いたとは言えないが。……ただ、そう出来たのにしなかった時点で、私は消極的な夫の協力者となっていた。
「……申し訳ありません。申し訳ありません……! で、ですがどうか、どうかブリンドル伯爵家にはお咎めはなしに、していただけないでしょうか……?」
本当に、自分は馬鹿で愚かだなと思う。何もかもが今更。先を読んで行動なんて出来ない。行き当たりばったりで、その時のことばかり。結局のところ、やはりあの父の娘という事だろう。家族の事を大切と言いつつ、こうして、自分の失態で家族すら巻き込みかねないのだから……。
取り乱す私のすぐ傍までやってきた義母は、そっと私の両腕に触れた。
「落ち着きなさい、アナベル。……ブライアンの事は、もう、愛していないのね?」
義母の質問に、焦りと混乱を同時に起こしながらも答える。
「どうでもいいので……今更、歴とした夫婦になれと言われても……困ります」
「こ、こまる」
夫が義母の背後で片言言葉で復唱していたが、義母はそんな事気にしていないようだった。
「そうよね。そうに決まっているわ」
「申し訳ありません、社交もせず、ライダー侯爵家の名に泥ばかりを……」
「泥? そんな事はないわ。アナベル。貴女、流行の先端にいると言われているのを、知らないの?」
「……へ?」
突然の義母の発言に、私は本当に心当たり一つなく、目を点にして固まってしまった。流行の、先端? 何のことだ。私と対極にあるだろう言葉ではないだろうか。
夫も義母の言葉に驚いたような反応をしていて、エヴァ様も「嘘、何もしていないアナグマって……」と呟いていた。
義母は分かりやすく溜息をついた。
「クラックス。ネイザー。ガーデナー」
画家や彫刻家の名前だ。
「ドーラ・ゴスリング、グレンダ・サムウェル、エマニュエル・ソーンヒル」
今度は女優二人と、俳優一人。
彼らはどれも私が個人的に好きな芸術家たちだったので、義母も知っている事で場違いにも嬉しくなった。だがどうして義母が彼らの名前を出したのかが分からず、私は彼女の顔を見下ろしていた。義母は駄目な子供を見るような目で私を見上げている。
「アナベル。全て貴女が見出した芸術家たちでしょう?」
え?
「い、いえ。そのような事はありません」
「ではあの絵は?」
義母に示された方を見る。廊下に、小さな絵画が飾ってある。
「ガーデナーの絵です。私が購入したもので……ですが、それはただ好きで購入しただけで、見出したりは……」
画家ならば作品を買い取り。
女優・俳優であれば、少しの気持ちを含ませて、出演する作品があったら花を贈ったり。
確かにそれぐらいはしていたが、見出したなんて……むしろその言葉は、ブロック館長を始めとした他の人々に使われるべき言葉だろう。
「そうね。実際のところ、見出したという言葉は言い過ぎかもしれないわ。でも社交界の新しい物を好む人々からは、貴女には先見の明があると思われているのよ。社交界においては、優れた物を見抜く目というのは確かな力だわ。彼女たちから貴女は、先のある才能を見つけて支援してきたと見られているの」
誤解が! 誤解が甚だしい!
しかしそれを主張する間もなく、義母は話し続ける。
「それから……昨日この屋敷に帰ってきた時に、随分雰囲気が変わっていて驚いたわ。屋敷の中は分かりやすい目立つものは無かったけれど、穏やかで明るい、新しい空気が流れていた。私が管理していてはきっとこうはならなかったでしょう。アナベル。貴女が管理していたからよ」
「屋敷を管理していたのは、ギブソンですお義母様。私は何も……」
「貴女に自覚がないとしても、屋敷がどうなるかは屋敷で最も長い時間を過ごす令夫人の在り方一つで変わるのよ。夫人が本当に屋敷に頓着しない人であれば、屋敷は寂れていくわ。けれど屋敷に興味を持つ者が夫人となれば、使用人たちは夫人の機微からくみ取って屋敷を整えていくの。この廊下も、壁に飾られている絵や彫刻も、花瓶に生けられている花や庭の作りも、夫人によって全て変わってしまうの。まだ全てをじっくりと見る事は出来ていないけれど、屋敷はどこも綺麗に整えられていたわ。私たちが急に戻ったにも関わらずね。貴女が使用人たちの小さな変化を拾える人だからこそ、ここまで整っていたのでしょう。…………昨日、侍女を始めとした他の使用人たちからも聞き取りを行ったけれど、多くの者は社交をしていなくても、貴女を主として認めていたわ」
…………皆、私の事を主と思ってくれていたのね。
好きだと思っていても、家族のように思っていても、ほんの少し、ほんの少しだけ彼らを信じきれないでいた自分が何だか恥ずかしくて、けれど彼らから向けられていた信頼が嬉しくて……。そんな時ではないと思いながらも、何だか心が温かくなってしまう。
胸元でそっと手を握りしめた時、廊下の奥で遠目ながらも私たちを見守っている影が見えた。使用人の皆だ。廊下という、吹き抜けた環境で騒いでしまったせいで、声を聞きつけた使用人の皆が何事かと集まってきているらしい。その一番手前にはギブソンやアーリーンの姿も見えたし、ジェマや、ジェロームという特に共に過ごしてきた使用人の姿もあった。
「ブライアン。使用人たちから聞きましたが、お前のアナベルに対する態度は随分と酷かったようですね」
「そ、それは……」
「私が見ていたお前の淑女への対応は、その場しのぎだったという事でしょう。……悲しい事だわ。アナベル」
「は、はいっ」
「確かに貴女は社交をしていなかったわ。社交が好きではないというのも、貴女の本心でしょう。……ですが結婚後、当初から社交の一切をしないで過ごそうと思っていた訳ではないと思うのだけれど」
「そ、それは……はい、自分の力の限り頑張ろうとは……」
結婚までの日々は、盲目的に夫からの愛を信じ、彼の愛に応えようと必死だった。だからもし……今更過ぎる仮定でしかないが、初夜の後に夫から拒絶される事もなく夫婦として過ごしていれば、私なりに社交も頑張っていただろう。それが侯爵家として十分満足できるようなものになったかはさておき。
「そうよね。あの頃の貴女はライダー侯爵家に嫁ぐために、人一倍努力をしてくれていたわ」
義母は静かに目を閉じた。もしかすればその数秒の間に、何か昔に思いを馳せたりしていたのかもしれない。ただ、目を再び開いた時の義母の顔は据わっていて、恐らくその怒りの矛先が自分でないにもかかわらず私は上半身を反らして逃げようとしてしまった。
「アーリーンやジェマから聞きました。この前――お前が忌々しい女を連れてこの屋敷に来たと言う日の夜など、アナベルに暴力まで振るったと。本当に――どこまで私を失望させればよいのかしら」
「暴力? 何のことです。そんな事はしていません」
「お、お義母様? 特に思い当たらないのですが……」
「まあアナベル。あの子を庇う必要などないのよ。ジェマが薄く痕が残ってしまったと泣いていたわ。痛かったでしょう?」
あと? 痕――あっ! え、腕を掴まれた事?!
いやいやいや確かに強めに腕は掴まれていたけれど、そんな暴力だなんて過激な事ではなかった。そう思い、義母の名前に出てきたアーリーンとジェマを見たのだけれど、二人は本当に悔しそうな顔でこちらを見つめていて……えっ。私体のどこかを殴られていただろうかと混乱してしまった。
「痕――腕をつかんだ事ですか? ただ掴んだだけの事です! 暴力など大袈裟だ!」
「馬鹿者が……!」
正直夫と同意見だったのだが……夫がそう主張した瞬間、静かに話を聞いていた義父が夫の顔を殴った。本物の暴力沙汰に私とエヴァ様が揃って悲鳴を上げる。何故か義母は平然としていた。こ、これが侯爵の夫人という事なのだろうか。
床に転がった夫は受け身を取って床の上で一回転するとすぐに体勢を立て直し立ち上がり、口の中に溢れたらしい血を床に吐き出した。
「何を――」
「男と女の差すら分からないとは、騎士の風上にもおけん! お前のような鍛えた男が女性の腕を掴めば、簡単に痕になるという事すら分からんか!」
「嘆かわしい……」
義父と義母に畳みかけられた夫はその言葉で初めて気が付いた、という顔をして私を見た。見ないで欲しい。さっと視線を逸らす。……私も夫と同等ぐらいの認識でしかいなかったので、腕を掴まれた事について彼が責められているのを見ると遠回しに自分も責められている気がする。
生まれも上流階級だろう義母のような女性とは違い、幼少期の私は安定した遊び相手なんて弟位しかいなかった。だから外を駆け回って遊んでいたしその最中で怪我をするなんてよくあったので、ほんの少しの握られた出来た痕なんて怪我の範疇でなかったのだ。
……いやでも! た、確かにジェマたちが言うように多少痕にはなっていたと思うが、痛みは別になかったのだ。本当に、全く! …………だからジェマやアーリーンには気にしなくて良いと伝えたのだけれど、地位の高い女性は肌が灼ける事なども酷く嫌がる事を考えると……確かに許されざる事だった……のかもしれない。




