【28】義両親の帰還
夫からの子供が出来た宣言、初めて会った愛人のエヴァ様、その後のお互いについてを記した契約書など、私的には怒涛の勢いで問題が目の前に現れて解決されて去っていったという感じがある。
とりあえず、私の生活は特に変わらない。夫たちの事もすっかり頭の中から忘れて、いつも通り王都で芸術巡りに精を出していた。
「ご機嫌でございますね、若奥様」
「ふふ、今日観に行く新作はドーラが主役をやるの」
ジェマの言葉に私は笑顔で答えた。
ドーラ・ゴスリングは私が個人的に応援している女優の一人だ。長らく脇役の一人を演じている事が多かったが、前回行われていた劇で出番が多い役を貰っており、今回が初めての主役となる。所属している劇団が小規模のものなのであまり有名ではないかもしれないが、そういう事は関係なく、彼女の演技や声が好きなのだ。
新作の劇は昔の時代に生きた女性の生きざまを描いたものらしい。どんな話なのだろうか。ドーラはどんな歌をどんな風に歌うのだろうか。楽しみだ。
――そんないつも通りの日常は、簡単に崩れ去った。脆い平穏だった。
「わ、若奥様っ! 旦那様と奥様がお帰りでございます!」
「なんて?」
走り込んできた年若い侍女の言葉に硬直してしまった私とジェマたちだったが、数秒遅れで部屋に入ってきたアーリーンは冷静に侍女たちに指示を飛ばす。
「貴女たち。あと少ししたらライダー侯爵夫妻がお帰りになります。若奥様の身支度を急ぎなさい」そこで一度言葉を切り、私へと視線を向ける。「若奥様。突然の事ではございますが、旦那様方がご帰宅されます。申し訳ありませんが、本日の外出の予定は……」
「キャ、キャンセルします。しますが、どうしてこんな、急に――」
あ、と口を開けたまま固まる。
最近あった問題と言えば、思い当たるのは一つだ。
夫の愛人に、子供が出来たという話。
アーリーン曰く、つい先ほど侯爵夫妻の帰宅を知らせる早馬が飛んできたらしい。しかもその先行も、ほんの数時間で侯爵たちが到着する、というものだったという事で、屋敷内は侯爵夫妻のためにと大慌てで準備を行っているという。
「夫に子供が出来たから帰ってくるというのは分かるけれど、どうしてこれほど急に?」
子供はそんなにすぐに生まれるものではないのだから、事前に連絡をしてから落ち着いてこちらの屋敷に戻ってくれば良い話だ。けれど義両親はそうしていない。どうして?
私はジェマたちに身支度を整えられながら私は困っていた。
義両親がどのような動きをするのか、全く予測が出来ない。どうしよう。もし、私に何かこう、困る話だったなら……。
……せめて、せめて私はともかく、実家に不利な事にはならないようにしないと……。しっかりと義両親と話をしなくては。大丈夫、夫とも話せたのだからきっと出来る。
そんな風に自分を鼓舞していた私だったが、帰宅された義父の怒声に、その決意はどこかに吹っ飛んでしまった。
「ジェローム! ブライアンはどこにいる!」
義父は帰って来て玄関ホールに足を踏み入れるや否や、ギブソンを見てそう大声を張り上げた。現在は第一線は退いているものの、軍人でありかなり上の地位にいたという義父の剣幕は私を萎縮させるには十分すぎるほどだった。精神を落ち着けるために、「そうか。私にとっては執事のジェローム・ギブソンがギブソンで、息子であるジェローム・ギブソン・ジュニアがジェロームだけれど、お義父様にとってはギブソンの方がジェロームと呼ぶべき相手なのね……」とこの場とは全く関係ない事に意識を飛ばさなくてはならなかった。
挨拶の体勢のまま固まる私を庇うように、ギブソンが前に出る。
「若旦那様は、愛人様と暮らすお屋敷におります。こちらには普段帰ってきておりません」
「ブライアン、あいつ……! 侯爵家を継ぐ者という自覚がないのか!?」
お義父様の怒っている顔は、夫とは全然似ていない。お義父様は軍人らしい分厚い体に骨太な骨格をされている。見るからに、軍人、という雰囲気の方だ。絵本の王子様のような夫とは、髪の色位しか共通点がない。夫は、義父の横で静かに立っている義母似なのだ。
それにしても、義父の今の言葉のお陰で夫の名前を思い出せた! そうそう、ブライアンだった。頭文字がBな気はしていたのだ、ずっと。この前の時も。嘘ではない、本当に。夫の名前が分かり、大満足である。今更誰かに夫の名前はなんだっただろうかなんて、聞けないし。
「普段、こちらのお屋敷で暮らしておられるのは若奥様のみでございます。屋敷の事については、若奥様が取り仕切っておられました」
ギブソンの言葉で驚いて彼を見つめてしまった。何を言っているのだろう。取り仕切った? 誰が? 私が? いいや、そんな事はしていない。
屋敷を支えたのは執事であるギブソンや使用人たちであるし、屋敷の維持に関する書類があったとしたら、それを処理していたのは家令だろう。私は名ばかり女主人で、それらしい仕事なんて何もしていないのに。
そう主張したかったが、義父の横にいた義母が涙ぐみながら私の傍にやってきて、その手を握った事で主張を声に出す事が出来なくなった。
「アナベル、貴女になんと謝れば良いのか……! 本当にごめんなさい。貴女に酷く長く、辛い思いをさせてしまったわ……!」
「え、いえ、あの」
「ジェローム。あの子はこちらに帰っていないと言いましたが、どの程度帰っていないのですか」
「最初の数か月は多少帰ってきておりましたが、一年も経つと月に数度になり、二年目には半年に数回になり、今ではごくごく稀に帰ってくる程度でございます。どうやら仕事についてはソラーズが対応できる事はソラーズが行い、若旦那様がしなくてはならない事は、ソラーズが若旦那様の元へと届けていたようです」
「ソラーズというのはブライアンが連れてきた新しい家令ね。……そう。そうなの」
義母はそっと目を伏せる。……なんだか、この、義母と義父の雰囲気を見るに……あれっ? いいやでもまさかそんな。そんな訳。でもこれほど怒っている様子から見るに…………。
もしかして――夫、養子縁組の話は義両親に許可を取っていなかったのだろうか。
その事に思い至り、そんな馬鹿なと私は唖然としてしまった。
だって私はこの前夫が来て宣言した事も、既に子供が出来た事も養子縁組をする事も義両親に許可を取っていた上で私の元に来たと思い込んでいたのだ……。だってだって。最初に私から許可を取った所で意味がないのだから、そう思って当然だろう。
養子縁組自体は夫の独断で出来たとしても、跡継ぎとして立てるには現当主である義父の許可が必要不可欠だ。
これが例えば、私が義両親からとても重要な立場として認識されている存在ならば、私からの許可を最初に取る理由になるだろう。だが実際はそうではない。極論を言えば私からの許可なんてなくても、義父から許しが貰えれば無理矢理養子縁組を結ぶことも出来るのだ。
だからてっきり、そういう話し合いは既にすんでいたのだろうと思っていた、の、だけれど。
「お、お義母様、あの、本日は、ブ、ブライアン様にお子様が出来た話で来られたのでは……?」
「あんな女の子など認めん!」
義父がかんかんに怒って言った。
……夫、私から許可を取るより先にするべき事がもっとあったと思いますが!?
絶対これ、義両親からの許可を得られていませんよね? でも私の扱いはさておき、跡継ぎ問題なんて重要な事、義父の許可なしで、どうして自分の望み通りに成しえると思えたのですかね!?
私みたいな貧乏貴族生まれの令嬢でも、やる順番がおかしいと分かりますよ!
「ジェローム。これまでの事を全て報告しろ。詳細にだ」
「畏まりました」
義父がギブソンにそう指示している横で、私は義母に手を取られたままでいた。
「アナベル。貴女からも聞かせてちょうだい。貴女とブライアンが、結婚してからこれまでどう過ごしていたのかを」
「は、はい……」
ギブソンたちが義父と共に奥の方に移動していくのとは別に、私は義母に連れられて気が付けば応接間の一つに移動していた。
結婚してからのこれまで――なんて、話せば話すほど恥ずかしい限りの、ただただ芸術美術を観賞するだけの怠惰な日常しかない。口が上手ければこう、誤魔化したりしながら話せたかもしれないが……それが通じるのは相手がこちらの話を聞き出す気がない時だけだ。思い切り聞き出そうという状態にある人相手に誤魔化し続けられるほど私は口が上手くない。
そうして私はボロボロと、貴族夫人失格の烙印しかもらえ無さそうな自分の生活について赤裸々に義母に説明する事となったのだ。義母は何故か終始、私に対して哀れみのような視線を向けてきていたけれど、その視線が少しも変わらない当たりが余計に恐ろしい。だって、普通なら話を聞きながら感情が変わったりするだろう。それが少しもないのだ。私がもっと阿呆であったならば義母は自分の味方なんだと思って好きに語れたのだけれど、流石にそこまで楽観的に物事は考えられず……ずっと、崖の際に立たされたまま話をさせられているような心地で私はこれまでを語り続けたのだった。
夫と殆ど顔を合わせる事もなかった丸二年と数か月の結婚生活の事を話し終え、つい先日の夫が子供が出来たと伝えてきた、という所まで話した所で、義母からストップがかかった。
「ありがとう。よく分かったわ。……アナベル。どうか部屋でゆっくりしていてちょうだい。大丈夫、貴女に悪いようにはしないわ」
「…………はい……」
義母は私を見ながらそう微笑んだけれど、私にはとてもではないが言葉通りには聞こえない。つまりは余計な事はせず部屋で大人しくしていてくれ、という事だろう。
部屋の隅に控えていたジェマと共に部屋に戻ろうと立ち上がると、義母はアーリーンとジェマの方を見て口を開いた。
「侍女の皆からも話を聞きます。一人ずつ、呼んできて頂戴、アーリーン」
「畏まりました」
は、はは。特に隠さずに語った心算ではいたけれど、第三者視点からも私の怠惰な日常が明らかにされる事が確定してしまった。ははは。
最早燃え尽きてしまいそうな気持のまま部屋へと歩いて行った私は、まっすぐ寝室へと向かい、ベッドの上に倒れ込んだ。
「わ、若奥様!」
「……ごめんなさいジェマ。今はもう、起き上がれないわ……」
義父母が了承していなかったのなら、私と夫が結んだ契約は何の意味もない。てっきり形だけの妻についても、正式に許可を取ったのだろうと思っていたのに……。
最早私の立場は何の安心も出来ない、本当のお飾りになってしまった。
……ちょっと待って。あの契約書、より私の立場が不利になるのでは? なんとかしないといけないのでは?
私、先ほど義母に契約を結んだ所まで説明できていないわ。つまり、義母はまだ私と夫が勝手に結んだ契約については何も知らない。
その事に気が付いて体を起こすが、そこから動くこともなく私の体はまたベッドに沈む。ジェマが困惑していて申し訳ないと思いつつ、そちらに意識を払う余裕は今の私にはなかった。
契約書の存在は不利に決まっているが、義父母が到着する前に回収するならいざ知らず、今行動を起こせば全て義父母に筒抜けになるに決まっている。
何より、私には夫の執務室の金庫を開ける方法などない。夫以外に開ける事が出来る人といえばソラーズかギブソンが当てはまるだろうが、恐らく今義父の相手をしているだろう彼らと話をする事が出来るはずもない。
それに加えて、ギブソンやソラーズは契約書そのものについて既に目撃しているのだから、とっくに義父に伝えているだろう。
「……無駄な足掻きよね」
私に出来るのは、せめて家族には罰が下らないようにと嘆願する事だけだ。……今まで夫人として使った沢山のお金、服を始めとした物を売り払ったら賄えるだろうか? もし返還を求められたら、なんとか高く買い取ってくれる所を探さないといけない……メラニアに、助けを求めるしかないだろう。
そんな風に考えて暫くベッドに倒れ込んでいた私だったけれど、胸の不安は増大するばかり。
随分悩んで考えて、それから些細な覚悟を決めて体を起こし、ベッド脇にあるベルを鳴らした。暫くは一人にしておこうと気を遣ってくれたジェマを呼ぶためだ。
「お呼びになりましたか」
「……ジェマ。申し訳ないのだけれど、お義母様にもう一つ、お話したい事があるので時間を用意していただきたいと伝えてくれる?」
「かしこまりました」
すぐさまジェマが去っていき、私は立ち上がると他の使用人を数人呼んで服を直す。……皺になってしまうだろうな。申し訳ない。衣服の管理を担当している人に申し訳なく思いつつ、乱れた髪も直してもらう。
ジェマは思っていたよりも早くに戻ってきた。
「奥様が、若奥様が、来たいときに来るようにと」
「では今行きましょう」
時間を置くと、私の覚悟は簡単に揺らいでしまうだろう。そう思い少し急ぎ足でつい先ほどまで義母と話していた部屋に戻る。
「話したい事とは何かしら、アナベル」
「はい。私と夫が交わした契約についてです」
そう切り出す。義母は返事はせず私の言葉を待っていた。
私はあの夜、夫と二人で作った契約書について伝えた。契約書には私と夫のサインがされているはずで(なお、私は夫がサインした場を見ていないが)、夫の執務室にあるという事も。
義母は話を聞いても取り乱したりする事は一切なく、ゆったりと頷く。
「分かりました。契約書については旦那様にお話ししておきますね。……ですがアナベル。一つだけ言わせて頂戴」
「はい」
「契約を交わすときに、相手がサインをしたかどうかも確認していないのは宜しくありません。後からギブソンたちがサインをしてあったと確認したとしても、それはあくまで他人の目から見てです。もしギブソンたちが相手の味方であったら? 貴女の味方であったとしてもギブソンたちが見たのがそもそも偽物であったら? 貴女の名前でサインをするのならば、契約が結ばれた事は最後まで必ず確認しなさい。今回のような事は、二度としないように」
「……申し訳ありません……」
正論です。言葉もありません。




