【27】何かがすれ違っている気がする夫婦の会話
執事のギブソン曰く、あの後少ししてから夫とエヴァ様は帰っていったという。
そして、夫が愛人との間に子供を作ったという事は、使用人たちの間にも一瞬で広まった。直接話しかけてくる人はいないが、広まっているのは分かる。何せみんな、痛々しいものを見る目でわたしを見るからだ。
「みんな、気にしなくていいのよ」
本当に。本当の本当に。
そんな思いを込めたが、あまり伝わってなさそうである。
いや本当に、傷付くべきなのかもしれない私はたいして引きずってもおらず、むしろ外に家を作って暮らすなら別にどうぞお好きにという所。同じ屋敷で暮らされたら堪らないが、別なら本当にどうでもいい。傍にいないほうが気楽だ、あんな面倒そうな男女。
何より、彼女が子供を産んでくれて養子縁組さえちゃんとすれば、私は夫の子供を産む必要はないのだ。彼に感謝している面もあるが(実家への援助とか普段の生活費とか)、だからといって彼との間に子供を作って愛せるかと言われれば……という話である。
仮にも侯爵家の若夫人にも関わらず、侯爵家の事を何一つ考えていない私だが、そもそも何もするなと言ったのも、夫。いくらお金の為とは言え、事前にちゃんと条件を話し合った訳でもなく騙し討ちのようにして私にお飾りの妻の座を押しつけたのは彼だ。それぐらい、彼本人に何とかして貰おうと思う私はおかしいだろうか?
そんな風に威勢よく考える私であったが、出来れば一度、エヴァ様抜きで夫と話をしなくてはならないとも思っていた。何故エヴァ様抜きかと言えば、彼女が居ると落ち着いて話が出来なそうだったからだ。それに今日の様子からして、彼女は貴族のルールにはあまり詳しくなさそうだ。私とて貴族としては半端な育ちをしているとは思うけれど、侯爵家に嫁ぐにあたり基礎的な知識位は入ってきているので分かっている。
とりあえず夫と二人で……いや、その場にはギブソンたちにも居てもらうつもりなので完全な二人きりではないけれど、ともかく私と夫とでしっかりと一度、今後の在り方を決めたいという事を夫に伝えて欲しいとギブソンに言うと、彼はだいぶ複雑そうな顔をしていた。そんな苦虫を噛み潰したような顔をしなくても……と思うのは、私だけだろうか。
――そんな私の考えに合わせたかのように、その日の夜遅くに夫が屋敷に戻ってきたという連絡が私のところまで届いた。
既に寝間着に着替えてしまっていた時間帯だ。眠ってはいなかったものの、この時間帯に訪ねてくるのは失礼だろうと思う。……いや、そもそも同じ屋敷に暮らしているはずの夫婦だから、失礼も何もないのか。
そんな事を思いつつ、夫を待たせていた執務室に向かう。寝間着から着替えなくてはならないので夜遅くだというのにジェマを始めとした侍女たちには迷惑をかけた。
嫁いでからこの執務室に入った事は一度も無かったのに、今日の間に二回も入るなんて不思議な話である。
「お待たせいたしました」
「遅いぞ」
一応謝罪したものの、ハッキリ文句を言われるとは思わず、私もついピクリと頬が揺れる。
「着替えるのに時間が必要でしたので。事前に来られるとご連絡下されば、お待たせもしませんでした」
もう寝ようと思っていたのだ、こちらは。そう思っていたら、つい口が滑った。夫は驚いたように目を丸くしている。それを無視して私は彼の目の前に腰かけた。
執務室の中にいるのは、夫と私だけだ。
最初はギブソンたちも入ろうとしてきていたのだが、夫が追い出した。襲われたら(性的な意味ではなく物理的な意味である)ひとたまりもない状況だが、流石にそんな事はしないと思う。そう思いつつ、私は夫が何の話をするつもりなのか待った。
「昼間の事だが」
「はい」
「……私とエヴァの間に生まれた子供を、養子縁組で正式な子供とする」
「その言葉で安心いたしました」
「どういう意味だ」
「昼間の貴方の言動では、非嫡出子のまま跡継ぎにすると言っているようなものでしたが」
「私が法を守らぬと言うのかッ!」
「え。でもそういう言動をされていましたよね」
つい、心の底から疑問で私は首を傾げた。
昼間の言動を思い出す。まずエヴァ様が、お腹の子を取られまいとして、目の前の夫は母子を引き離すのかと怒っていたと記憶している。私はただ、貴族の常識的に考えて養子縁組するのだとは思いますがそうですよね? という確認を尋ねただけだったのに、なんだか私がエヴァ様から子供を取り上げようとしている風に受け取ったのは彼らだ。
夫もそれに思い当たったのか、咳払いをいくつかした。
「書類上、私の妻はお前だが、私の愛はお前にはない」
「はい」
「……これから先も、お前を妻として連れ歩くつもりは、ない」
「はい」
この問答、必要だろうか。そんな当たり前の事、何度も言わなくても分かっているのだけれど……。
夫が眉を寄せて、次に何を言うか考えている様子だったのでこちらから提案をする事にする。
「可能であれば、お互いのためにどのような関係とするかを書類に残しませんか」
「……何を企んでいる」
「企んでいませんよ。ですが安心したいと思いませんか。相手が言葉で守ると言った約束を、本当に守るのかと」
実のところ書面にしたところで裏切られる時は裏切られるのだが、少なくとも口頭だけの言った言っていないの世界よりは安心できると思うのだ。この場には正式な書類にするための道具がないことも無かった。何せほとんど使われていないとしても夫の執務室だから。
夫は眉を寄せたまま固まっていた。
「私は、自分の今の状態を自分から他人に話した事はありません。外で話した事のある人にも、家族にもです。今後も話すつもりはありません」
実のところ、相手が勝手に察している可能性は割とあるのだが、そのあたりは横においておく。
「貴方は私に、大人しく暮らしていろと仰いましたね。最初は屋敷でのみ。その後、どのような心変わりかは分かりませんが外出も許してくださいました。お金の使用も許されました。私は、貴方のお望み通り、本命である女性の隠れ蓑として役立っていると思います」
これからも今のような生活を維持してくれているのならば、私はまっとうな貴族夫人としての役目を全て取り上げられたって別に構いやしないのだ。私がまっとうに育てられたまっとうな家のまっとうな貴族令嬢でなくて、本当に良かった。
「少なくとも――実家への援助については、私が指示に従っている間は絶対に続けると言う事は、書類に残して頂きたいのです」
「……ハッ。なるほどな。いいだろう」
彼はその場で書類を用意し、サラサラと文章を書き記した。ライダー侯爵家が武門の家系であるため、勿論彼も軍部の人な訳だが、彼の文字はそういう背景よりも絵本に出てくるような王子らしい見た目に似合う文字だなと改めて思った。不思議だが、彼の顔を見た時はこんな顔だっただろうかと思ったのに、彼の文字を見た時は懐かしいと思った。
「これでどうだ」
その場で軽く書かれた物は、効力としてはそこまで強くないかもしれない。それでもあるのとないのとでは全く違うというものだ。
内容としては難しくない。
私はこれからも、夫の妻という立場を強く主張しない事。夫の寵愛を求めない事。夫の最愛である女性にどんな形でも害を成さない事。現在自分が置かれている状況を誰にも話さない事。
それらを守る限り、夫は私の実家の生活の支援を辞めないし、家族に手を出す事もない。ついでに、私の生活も今のまま、保証される。
すごいあっさりと、私も望んでいる事を書いてくれた。もっと難航するかと思っていたが、元々私たちは別に敵対していなかったのだから苦労するはずもなかったなと気が付く。
だって夫の望みを私は害する心算が無い。そして害さなければ、夫は今の状態を守ってくれると事前に言ってくれていたのだから。
「不足ありませんわ」
「言っておくが、エヴァに手を出すような事をした場合、この契約はすぐに無効だ」
「勿論です。あ、その旨も記載しておきましょう」
一番下には私と夫がサインする部分がある。その上に、お互いの条件を守らなかった場合、この契約は無効になると書き足す。
それから私は一番下に自分の名前を書いた。
「どうぞ。サインをお願いします」
そう言って差し出すと、夫はそれを無言で見つめていた。
「どうかしましたか」
夫は何も答えない。そのまま、暫くの間無言で紙を見つめ続けていた。
まさか今更この契約を明文化するのが嫌だとでも思ったのだろうか。だとすると、私のサインしかないとはいえこの書類は自分で持っていた方が良いのでは? いやでも夫のサインが無い時点で持っていた所で意味がないような……とつい癖で考えだしてしまった私の手から、するりと紙が抜き取られる。夫は立ち上がり、私へと背を向けた。
どういう事だ。彼の事が、更に分からなくなった。
「どういうおつもりですか。この契約は無効という事でしょうか?」
「……サインは、後でする。もう用はない、帰れ」
「いいえ。サインを先にして下さいませ。契約は、お互いにしっかりとサインをしなければ――キャッ!」
流石にここまで書かせておいて、私の目の前でサインをしないなんて酷過ぎる。そう思いながら夫へと近づくと、夫は突如私の腕をつかんで無理矢理廊下へと引き摺りだした。廊下に待機してくれていたジェマやアーリーンが驚いた顔をしている。
「若奥様っ?」
アーリーンたちの声がするが、私の意識は目の前でとじられてしまったドアに集中していた。
「サインを! サインをして頂けなければ困ります! 本当にサインをしてくださるのですか?!」
焦りから、夜という事も忘れて声が出てしまう。
中からの返事は、少しくぐもっていた。
「サインはする。国にこそ出さないが、これは正式な契約だ。夜分に騒ぐな」
夫はそれきり、執務室の中から何も言わなくなってしまった。
「わ、訳が分からないわ」
仮にも夫という人間なのに、私は彼の事がちっとも分からない。一体何がしたいのだ、何なのだ、あの人は!
ついでに彼の名前も未だに思い出せないのだが。サインをしてくれれば思い出せると思ったのに!
■
夫から、なんとしてでもサインを貰わなくてはと焦ってまともに眠れぬ夜を過ごした私だったが、次の日の朝食の後に家令のソラーズと執事のギブソンが揃って私の元を訪れて、昨夜私と夫が交わした契約書は夫の執務室にある金庫に保管されている事が伝えられた。
「さ、サインは、夫のサインはありましたか?」
「ええ。勿論ございましたが……?」
ソラーズは酷く困惑した様子で頷いていた。様子からして、どうしてサインの有無の確認に異様な熱意を出す私が訳が分からなかったのだろう。
横のギブソンにも視線をやると、彼も頷いた。という事は昨夜の契約書(手書き)に、夫はしっかりとサインをしてくれたという事だ。サインを普通にしてくれるのならば、昨夜してくれても良かったじゃないかとは思うのだが、何か彼が気に入らない事でもあったのかもしれない。それが何なのか、今でもサッパリ分からないのだが。
まあ、サインがしっかりされているのならそれでいい。とりあえず、目先の不安は一つ解消されたという事だ。
今までの感じからして、これから暫くは夫と会う事もないだろう。




