【26】最早いつぶりかも分からない夫
ギブソンの言葉に私は首をかしげる。
夫が、私を待っている?
どうしてそんな状況が起こったのかさっぱり分からない。ここ最近、彼の不機嫌スイッチを押すような事は何もしていない筈だ。家族とのやり取りも……一時と比べれば頻繁ではなくなっているし、外への外出では前と同じように殆ど一人で行動している。メラニアと行動している時以外は、建物の管理をしている人々以外とは話していない。
というか、彼に呼び出されるというのは結婚してから初めての事かもしれない。
結婚後、私の方から彼と関わろうとして拒絶された事はあっても、彼の方から私に直接何かを言った事は殆どない。たまたま顔を合わせて文句のような事を告げられた事はあったけれど……。
ギブソンから急かされて、私はとりあえず夫が待つという部屋に、外行きの恰好のまま向かう事にした。本当は屋内用の服に着替えたかったのだけれど……ギブソンや周りの使用人たちの様子から、どうやら夫は随分と長く私を待っていたらしい。私が怒鳴られるのは良いけれど、私の行動のせいで使用人たちへと怒りが向かうのは嫌だ。今の私にとって、使用人の皆は友達のような、家族のような存在だったから。
ギブソンの案内で向かったのは、夫の執務室だ。ここは殆ど家令のソラーズか執事のギブソンだけが出入りしている部屋だった。何せ夫は殆ど帰ってこないので……実際には沢山帰ってきていたかもしれないが、少なくとも私はめったに出会っていないから、もう帰ってきていないも同然だった。
久方ぶりに会った夫を見た時、最初に思った事は……「…………この人が夫、だよね?」という疑問だった。
自分でも驚いてしまった。確かに私は夫と最後に顔を合わせたのがいつだったかな……? という感じであった。最近では殆ど指示や命令があるとしても文字でのものだったから、夫婦でありながら会うのはとても久しぶりだ。そのせい……だとしても、結婚するまでは毎日彼の顔を思い浮かべていたし、性行為だって一度だけとはいえしている。なのに初めて顔を合わせたかと錯覚するほど、夫の顔に覚えが無かったのだ。更に。
(…………名前、なんだっけ)
いざ名前で相手を呼ぼうとしたら、思い出せなかった。喉に空気だけがつっかかる。なんだっけ、名前。夫の名前すら思い出せない妻……いやでもこれは私だけが悪い訳ではないと思うのだ! 使用人の皆は夫の事を若旦那様や若様と呼ぶ。ちなみに若が付かない旦那様は義父を、奥様は義母を指す。そして私は、若奥様と呼ばれている。そんな環境なので、夫の名前を使わなくても彼の事を話す事は問題なく出来ていた。顔も会わせない、名前も聞かない、そんな環境だから、こう、つい。ついね。忘れてしまった。うん。つい。本当に。ちょっと今思い出せないだけで、たぶん何か切欠があれば思い出せるはずだ。確か多分、び、ば、ばび、ばびぶべぼ、ベッベッ? 名前の始まりが、そのあたりの音だった気がする。いや濁音から始まっていただけだったか。ダ、ダ? ダヂヅデド? ガ……行ではないな。……駄目だ、思い出せない。
入室した後も挨拶もせず固まっている私に、夫は変な顔を向けてきた。私はぎこちない下手な笑顔を浮かべて誤魔化して、席に着いた。
夫の横にいる美しい女性のことは一旦無視だ。
「彼女はエヴァ。私の愛する女性だ」
無視させて貰えなかった。
いや分かっていた。夫が連れてきたのだから、恐らく愛人――夫にとっては彼女こそが本命だが、書類上はどうしても彼女の方が愛人という事になってしまう――だろうという事は分かっていた。ただ、こう、夫の名前が気になってしまって後回しにしていただけで。
それにしても、これが初めての本妻と愛人の出会いか。美しい女性で、成程、容姿だけでも夫が惚れ込むのが分かるなぁという感じである。
私は微笑だけ浮かべ、そっと会釈をする。
「アナベル・ライダーと申します」
エヴァ様は少し憂いや不安を乗せた表情で私を見つめたが、名乗る事も会釈もしないでそっと夫に寄り添った。せめて挨拶してほしかった。夫が紹介してきたとしても。こちらからは挨拶したのだから……。そう思ってしまう私は、狭量な人間だろうか。
少しのもやもやを抱える私に、夫がこの呼び出しの本題を早速口にした。
「彼女が私の子供を授かった。故にこの子が生まれたら、男児にせよ女児にせよ、正式なライダー侯爵家の子として育てる」
「お待ちください若旦那様!」
室内に控えていたギブソンが、顔色を変えて夫に声をかける。動いたのはギブソンだけだったが、流れで室内に入ってきていたジェロームや、私たちに出す紅茶を持ってきていたアーリーンなども明らかに固まって、顔色が悪くなっている。ソラーズは気まずそうな顔でその場でもじもじしていた。
そういえば周りに使用人がいるけれど、良いのだろうか。もう愛人の事を隠す事は止めたのか?
夫は口を挟もうとしてきたギブソンを軽く睨んだ。主人の言葉を邪魔した使用人に対する怒りが見えた。
「黙れギブソン。これは決定事項だ。お前に口出しする権利などない。勿論だがアナベル、君にだってそんな権利はない」
「ようございます」
私がそう答えると、腕を組んで威圧感を出していた夫が目を丸くする。横にいたエヴァ様もだ。それだけでなく、ギブソンや室内にたまたまいた他の人々も、え、とばかりに私を見る。
なんだその反応。私が怒り散らすとでも思ったのだろうか。分からないけれど、とりあえず私は夫の方を見ながら彼と喋る事にする。
自分で言うのもなんだけれど、驚くほど冷静だった。それまでは夫に再び会ったら怯えるかもとか、怖さを感じるかもとか、色々思っていたものだった。だがこうして夫と顔を合わせて、気が付いたことがある。
私にとって夫が持つ権力はさておき、夫本人はそこまで怖くもなんともないという事だ。
顔や声を聞いても、別に心が揺れる事はない。……思い返せば実家のゴタゴタの時に暫く屋敷から出掛けるなとお叱りの手紙を貰った時も、あーあ、みたいな軽い感情しか浮かんでいなかったような気がする。大分前の事だから、記憶もあいまいだけれど。
まあ、私の中の心情の変化は、どうでもいい。
正式な……という事は、エヴァ様が産んだ子供を書類上は私と夫の子供とするという事だろう。恐らく、それについて私に一応許可を取らなくてはならないから彼らは私の元に来たのだとは思うが……もしこの屋敷で暮らす事になったら嫌だなぁと思いながら、確認のために尋ねる。
「無事、ライダー侯爵家の後を継ぐ正当な子供が出来たのは喜ばしいことでございましょう。それで、わざわざエヴァ様をこちらにお連れしましたのは、妊娠された彼女をこちらの屋敷で生活させるからでしょうか?」
「……いいや! 彼女と私には、屋敷が別にある。こちらに彼女を引っ越させる事などしない!」
「畏まりました」
「……私も妻と子を守るために、今まで以上に尽力する。こちらの屋敷には滅多な事では戻らない」
「そうでございますか」
「…………両親がなんと言おうとも、私はエヴァの子を私の跡取りとするつもりだ」
「はい」
「………………君を! これからも愛する事はないし、君との間に子をこさえる事もしない! 君に妻としての仕事をさせるつもりもない!」
「つまり、これからも今と変わらないという事で間違いありませんか?」
やたらと念を押されるので、もしや私に毎月宛がわれているお小遣いが減らされるのか不安になって確認したが、何故か顔を赤くした夫に「そうだ!」と怒鳴られてしまった。彼の怒っている理由はさっぱり分からないが、私は今と同じ生活が続くのなら異論はない。
むしろ、ありがたいまである。
「今の生活が続くのでしたら問題ありません。ちなみに、不躾ではありますが、エヴァ様がお産みになったお子様を形式上は私たちの養子にする予定で間違いありませんね? 書類はお持ちになっておりますか?」
養子縁組の書類には直筆のサインが必要だ。これを捏造した事が発覚した場合、最悪家が取り潰される可能性もある。何度も彼らと会って会話をしたくもないので、この場で終わらせられたら良いなぁと思いながら尋ねたのだが、私の言葉を聞いたエヴァ様は自分のお腹を守るようにして叫んだ。
「なんてひどい事を!」
声まで美しいなんてすごいなあと思った私と、冷静にいや何が酷いの? と疑問に思う私がいた。
しかしそれを口にするより前に、彼女の横にいた夫はエヴァ様を抱きしめて、私をすごい顔で睨みつけてくる。
「母親から子供を取り上げようというのか!? なんて女だ!」
怒りの意味が分からない。
この国の法律上、いくら夫が愛人に産ませた子供を「自分の子供だ」といっても、遺産として譲れるものはない。親の死後その遺産を引き継ぐ正当な権利を持つのは正当な夫妻の間の嫡出子だけ。なので愛人が産んだ非嫡出子を貴族の子として胸を張って育てたいのならば、正妻である夫人を説得して、当主夫妻の養子としなくてはならない。養子縁組された非嫡出子は特例として、嫡出子と同等の権利を得ることが出来るのだ。
今の夫の説明の中では、私と離婚する話はなかった。けれどエヴァ様の産んだ子供を跡取りにする、つまり侯爵家の正当な子供として育てる。という事は実際のところはさておき、書類上は私と夫の養子にするという事でしょう?
なのにどうして、私が彼女たちの子供を取り上げて自分で育てる……なんて話になるのだ。意味が分からない。
……もしや、私が蔑ろにされている事への当てつけとして、彼女から子供を取り上げようとしているとでも思っているのだろうか。
「妙な勘ぐりをしないでください」
少し苛立って、とげのある声が出た。
「私はただ、万が一外で妙な探りを入れようとする人と会う事があった時に、どうお答えすればいいのかを確認したかっただけです。知らないで曖昧な事を言って矛盾を後々問い詰められるのが嫌なだけですわ。一言でも、お二人から子供を取り上げるなんて申し上げましたか? …………そもそも子供のいない私がエヴァ様の子供を引き取ってどうするのです?」
書類上夫というだけの男の子供になんて、愛着なんてある訳がない。反対に、恨みがある……とかもない。むしろ母子共にこちらの屋敷にいられたら邪魔だ。
もしかしたら、エヴァ様は養子縁組の事を知らないのかもしれないが、彼女に細かく説明しなくてはならない責任を持っているのは夫なので、ここで深堀りする必要はないだろう。彼らから悪者みたいに扱われて、気分も悪い。
「ともかく、お話は分かりました。エヴァ様が夫の子を産み、ライダー侯爵家を次代に繋げて下さる。ありがたい事です。私はこちらの屋敷で今まで通り一人暮らし、大人しくしておりますのでどうぞお気遣いなく」
大人しくという言葉は……好きに外出して買い物をしている私には当てはまらないだろうと少し遅れてから思って、心の中でつい笑う。
もう話す事はないだろう。夫の許可等得ていないが、これ以上どうでも良い男女の面倒ごとに巻き込まれたくはない。この前、遠い異国の諺を劇で見た。男女の恋路を邪魔するものは、馬に蹴られてしんでしまえという言葉があるそうだ。私は、馬に蹴られる気は全くない。なのでさっさとその場から立ち去った。
私を追いかけるように、ジェロームも部屋に出てくる。ギブソンとアーリーンがいれば後はどうとでもしてくれるだろう。ああ、ソラーズもあの場にいたか。家令のソラーズとは、ギブソンたちと比べると関わる事が少なかったので、あまり彼の事はよく分からないのだ。まあ、跡継ぎの話となれば家令も無関係ではないのであの場に連れ出されていたのかもしれない。
そんな事を思いながら廊下を歩いていると、すぐ後ろを歩いていたジェロームが、複雑そうな声で言った。
「若奥様……」
振り返って彼の顔を見る。私に対して、何と声をかけたら良いか分からないという顔をしていて、つい笑ってしまった。
「どうしたの? 変な顔ね」
私の言葉が予想外だったようで、ジェロームはぱちぱちと瞬いている。
変に気を遣われても嫌なので、私はハッキリと言った。
「彼らに関する事は、あまり気にしなくて大丈夫よ。彼らはこの屋敷では暮らさないみたいだし、今までと生活は変わる事はないわ」
そうは言いつつ、ああでもと思う。侯爵家ともなれば屋敷の中で働いている使用人の殆どは、代々貴族に仕えているか、他の貴族階級の家に生まれたかという出身の者たちばかりで、当然のこと彼らにもプライドがある。
そうなると、跡継ぎも産まず、社交もせず、ただ好きに怠惰に生きているだけの私みたいなお飾りに仕えるのは彼らのプライドに反するかもしれない。
「私みたいな、偽物に仕えるのが嫌になったなら、ギブソンたちに相談して頂戴ね」
無理に仕えさせる気はない。とはいえ、もしかしたら中の様子をある程度知ってしまっている使用人は今更外に追い出す事も出来ないかもしれないが……と思っていたのだが、私の言葉を聞いたジェロームは少し前のめりになりながら言った。
「この家の若奥様は、アナベル様だけです! 貴女は偽物ではありません!」
ジェロームのあまりの勢いに驚いてしまう。彼は大きな声を上げてしまってから我に返ったようで、少し恥ずかしげにしていた。
「ありがとうジェローム。貴方の気持ちは嬉しいわ」




