【24】求めるは平穏
思い返せば、結婚してからの私の日常というのはこの屋敷の中に閉じ籠もるものだった。いつからか外出が認められて色々な所に出掛けるようになったけれども、この屋敷の中にただ閉じこもってふさぎ込んでいた時期はかなり長い。はじめはそれが酷く辛かった。実家にいたころもお金がないのでそこまで積極的に出掛けたりはしていなかったけれど、それでも家には家族がいたから貧しかろうと悲しい辛いと思った事は無かったのだ。
……今となってはライダー侯爵家の王都の屋敷に籠もっていても、様々な楽しみがある。
今まで購入してきた芸術品は私の心を癒してくれる。
庭は庭師がいつも工夫を凝らして素敵な花壇や庭を作ってくれている。
料理人たちはいつも私を楽しませるように様々な料理を作ってくれる。
出掛ける事がなくても、ドロシアーナで色々購入したお陰で、毎日違う服を着て使用人たちのお陰で違う髪型にも出来る。
家族はいないけれど、使用人の皆とも随分と打ち解けた。彼らの雇い主は間違いなく夫であるという点でいつか知らず裏切られてしまうのではないかという不安が皆無になった訳ではないけれど、夫は基本的に屋敷には帰ってこないので、普段から屋敷にいる女主人の私に優しくしてくれるのだ。長い歴史のある侯爵家の屋敷だが、思い返してみると働いている使用人たちは私と年が近い人が多いので、意外と話しやすいのもあっただろう。
今の私は、屋敷に閉じ籠もっていたころの私が知ったら驚いてしまいそうなほど満ち足りている。
勿論叶うならばまた出掛けて美術館や劇場に足を運んで演劇を観賞したいけれど……。それが出来ないからと酷く嘆いて感傷的になるほどでは、ない。ブロック館長が送ってくださる色々な展示に顔を出せない事が申し訳ないと思うぐらいだ。
そんな風に生活をしている内に、秋も終わり、冬が来た。
冬はある意味で、この王都が最も静かになる時期だ。花などが咲きにくいからとかの意味ではなく、領地を持つ貴族は、王都で役割を持たない限り領地に帰ってしまうから。
その兆候は、秋から既にみられている。この国の社交は大体春から夏にかけて行われるので、夏が終わった当たりからだんだんと人が減っていく。それでも夏から秋にかけて、社交の最盛期が収まったころを狙って音楽会や新しい演目の劇などが多数行われるので、それを見るために残る人も少なくない。ただ、冬になると多くの貴族は王都の屋敷から領地の屋敷へと移ってしまう。
王都が静かになったのは、私の元に多少届いていた新作の演目などが減った事で分かった。これまであししげく通っていた事で、劇場側から案内がやたらと届いていたのだ。誘いの物ではなく、ただ新しく行われる劇について紹介しているだけのもので本当によかった。誘いの手紙だと、断りを入れたりしなくてはならない。沢山の演劇を結局直接見れなかったのがとても多かったのは残念だけれど……夫の怒りをこれ以上買う事と比べてしまったら、これで良かったと思うしかないだろう。
家族とのやり取りは、あのパーティーでバタバタしていた時に比べれば少ないが、無くなってはいない。一度復活したものを取りやめるのは難しかったのもある。とはいえ相変わらず手紙のやり取りが少し遅いなぁと感じる事も多いのだけれど……。
うーん、それにしても遅すぎるのでは? どうしてこんなに遅いのだろう。それこそ、領地にいらっしゃる義父母とのやり取りならこれぐらい遅くても全く違和感ないし、この速度ならばむしろ早すぎるぐらいのやり取りなのだけど……。
私とブリンドル伯爵家は同じ王都にいるのだ。勿論王都は広いが、ここまでやり取り遅いのは流石におかしいのでは? と思いギブソンに相談をした。
「こんな事を言うとライダー侯爵家に失礼かもしれないのだけれど……侯爵家を担当している配達員、怠けているという事はない……かしら?」
物の配達を生業にしている人々もいるけれど、侯爵家ほどになると独自に手紙や物の配達を請け負う人々がいる。なので私の手紙も彼らにお願いしているのだけれど、これほど遅いのなら彼らが仕事を怠けている……としか思えなかった。私の言葉にギブソンは眉を寄せて難しい顔をしている。
「実は……私も気になっておりました。ブリンドル家は王都の旧貴族地区、侯爵家は新貴族地区に屋敷を構えている違いはあるとはいえ、貴族地区同士のやり取りは基本的にどこかを経由する事なく行われるはずです。それにもかかわらずこれほどの日数がかかるとは……」
ギブソンは周りに聞こえないように、そう呟いた。
どうやらギブソン的にも、手紙のやり取りが異様に遅い事は気になっていたようだ。
ギブソンは少し俯いていたが、顔を上げると真剣な面持ちでこう言った。
「若奥様。少し私共にお時間を頂けないでしょうか」
「勿論よ」
拒否する理由もなくすぐに頷くと、ギブソンは少しの間出て行った。暫くして彼は侍女頭のアーリーンを連れて戻ってきた。どうやら私が今いる部屋の外にはジェロームがいるらしく、大事な話をするので近づくものがいたら遠ざけるようにと指示を出しているのが辛うじて聞こえた。
アーリーンは移動中にギブソンから話を聞いていたのか、特に困惑した様子もなく私の前に立っている。私は話が長くなるような予感がして、二人に椅子をすすめた。
「どうぞ座って、二人とも」
「いえ。このままで大丈夫でございます」
「私が気になってしまうの。お願い」
そう言うと、ギブソンとアーリーンは少しの間だけ目を合わせて、それから私の目の前に座った。
話を始めようとギブソンに視線を向けると、彼は頭を下げた。
「まずはじめに……若様のこれまでの御無礼な態度をお止め出来ず、申し訳ありませんでした」
まさかの言葉に私は目を見開いて固まってしまった。頭を下げたのはギブソンだけでなく、横のアーリーンもだ。若様――私の夫の無礼な態度――二人が言いたい事は理解できる。それを謝罪されるなんて思ってもいなかったし、話題に出されるとも思っていなかったので、本当に驚いてしまったのだ。
「頭、を、上げてちょうだい」
大分混乱して、今から行われる話の中で二人に対してどんな態度を取ればいいのか迷いながら、私はそう言葉をひねり出した。ギブソンとアーリーンは私の言葉を受けて、渋々という風に頭を上げた。
「無礼だなんて、何のことだか…………」
私がお飾りの妻でしかない事が下手な噂にでもなったら、夫からの指示に反する。そう思って咄嗟にそう言い繕ったが、アーリーンはまっすぐにこちらを見ながら言った。
「若様が若奥様にしている無礼については、屋敷で働いている者の殆どが把握しております」
それはそうだろうなと私は遠い目になった。何せ元々溺愛している体で結婚して妻にしたのに、結婚した途端一切屋敷には近寄らなくなっている。外向けには屋敷に帰っていると偽ったとしても、中で働いている人々は、義父母夫妻がいない以上代理で屋敷の主人となっている夫が帰ってきていないと知っている。そうなれば、夫婦関係が悪いのではないかという話になるのは当然だ。そんな中で、結婚して当初の私と夫のやり取りを見ている使用人たちが「そういえば……」と話をすれば、自然と、「私と夫が不仲である」という仮説は立てられるだろう。何故不仲なのかを予想できなくとも、そこはあれこれ妄想で補えるので大して重要ではない。
「私やアーリーンは若様が幼い頃から存じ上げていますが……それが良くないのでしょう。私たちの言葉には殆ど耳を貸しては頂けませんでした」
「せめてライダー侯爵家の正式な執事であるギブソンの父や家令や侍女頭がいればよかったのですが……皆、旦那様や奥様と共に領地に行ってしまっておりまして……」
ギブソンとアーリーンが申し訳なさげにそういったのだが、私はうん? と首をかしげてしまった。
「……この家の執事はギブソンで、侍女頭はアーリーンで、家令はソラーズよね?」
私の質問を聞いた二人は、少しだけ驚いたような顔をした。え。
「……申し訳ありません。そのご説明がまだでしたか。勿論、現在我々はその役目を任されております。ですが正確な事を申し上げますと、違うのです。我々は現ライダー侯爵様が引退なされた後、若様を支えるために前々から想定されていた執事と侍女頭でして…………若様がご結婚される際、数年は王都でのライダー侯爵家の立ち回りを若様にお任せになるという話になり、旦那様方が領地に移動するという事で、試験的に仕事を引き継いだのです。ですので私もアーリーンも、正しく申し上げれば代理という呼称を使わねばならないでしょう」
「今の状況を考えるに、若様はこの状態を想定して使用人を総入れ替えしたとしか思えませんね……。若奥様が屋敷に来られる前の事ですから、ご存じなかったと思うのですが、実は今現在、侯爵夫妻様が住んでおられた頃から務めている使用人は私とギブソン以外、数えるほどしかいないのです。そして彼らを雇い入れたのは若様でして……皆、若様に不満を抱いたとしても物申せる状態ではないのです」
次々に新情報が出てくる。
言われてみればおかしい話だ。ライダー侯爵家は歴史も力もある名家だというのに、使用人たちが若すぎる。普通ならもっと、長年仕えていますという風な人が出てきそうなものなのに。
この屋敷に来たばかりの頃の私はそんな事気にも留めなかったし、夫から私の役目がお飾り妻と告げられた後から今までも、たいして意識していなかった。
それでも、屋敷の使用人の大半を入れ替えるなんて、滅多に聞かない。代替わりに合わせて要職の人が変わる事は度々あるが、そこと関係のない普通の使用人まで変えたなんて……そんな大変な事……。
いや、するな。あの夫ならする。何せ本当に愛している女性と結婚できないからと、お飾りの妻として私を娶るなんてことをしたぐらいだ。しかも周りからの自分の評価を気にしているのか分からないが、私がお飾りな事を出来る限り誤魔化そうとまで仕組んでいる人だ。それぐらい、していてもおかしくない。結婚して初夜を終えるまで私は、夫から本当に愛されていると信じていたぐらいだ。多分だが、私だけではなく全方位……特に近しい人間に対しては、より、真に迫った演技をしていたのだろう。
一旦落ち着こう。情報を整理した方がいい。
つまり、今この屋敷にいる人たちは、夫が簡単に命令出来て、夫に中々頭が上がらないような人だけになるように、夫が入れ替えていたという事で……。ギブソンとアーリーンはその枠組みとは少し違うけれど、昔からの関係があるせいで逆に夫から舐められている……という言い方をすると二人には失礼過ぎるけれど、夫からどうにか言いくるめられると思われていると……いう事か。
……うん? そういえばそもそもこの話になったのは、元々……。
「もしかして手紙のやり取りが遅いのも関係している……の……?」
「はい。恐らく」
私の疑問にギブソンが頷いた。
「私もすべてを把握している訳ではないのですが、元々若奥様宛の手紙の管理は若様がしております。ですので、若奥様宛の手紙は殆ど、若様が一度目を通しているのでしょう。手紙のやり取りが遅くなったのは、やり取りが頻発したために発覚しただけで、前々から本来出したのよりも遅く届いていた可能性もございます」
今となっては過去の事は調べようもないけれど……。
「……恐らくですがこの屋敷の出入りに関しては、若奥様と関係ない部分でも若様の目や手が入っていると思ったほうがよろしいと思います」
「……私と、関係ない、というと?」
「…………私もアーリーンも、若様の行動に何度か苦言を呈して来ました。そして耳を貸していただけなかったので、領地におられる旦那様や奥様にも何度かご報告を上げているのです。ですが、返事の手紙はハッキリとしない物が多く……」
ギブソンの言葉で私はハッとした。……これまでは夫が一人で勝手にしたのだと思っていた。……だってお義父様やお義母様にも言うなと、バレるなと念押しをしていたから。……でもそれが、違ったら? 実はあの方たちも関係して力を貸していたとしたら?
結婚してすぐの頃は知らなくても仕方ないが、もう二年目だ。そろそろ噂の一つや二つ、領地にも届いていてもおかしくない頃だろう。それでも義父母は動いていない。
後から知ったとしても、この状態を許容している可能性は別にゼロではないのだと気が付いた時、アーリーンが少しだけ身を乗り出した。
「若奥様。どうか侯爵様と奥様を信じてくださいませ。あのお二人はこのような事を許すような方々ではありません。奥様は若奥様が義理の娘となられる事をとても喜んでおられました。本当ならこの屋敷で共に暮らし、義理とはいえ母娘として過ごしたいと言っておられたのです」
「……私やアーリーンが送った手紙は、領地の人間には届いていないか、或いは一部が握りつぶされて届けられていると我々は考えています。思い返せば旦那様方に手紙を何度も送るようになってから、若様の当たりが強くなった所もありますから……ただ、そのような可能性は思いつきましても、流石に私たちの一存だけで王都と領地の間のどこで手紙がすり替えられているのかなどを調べるのは難しく、これまでは若様の機嫌を損ねず、若奥様をお助けする事しか出来ませんでした。……ですが」
ギブソンの声に力がこもったように感じた。
「此度の出来事で、アボット商会には若様の手が伸びていない事が分かりました。ですのでアボット商会のお力を借りれば、領地の旦那様方にこの状態をお伝えする事が出来ます。そうすればこのような事を旦那様がお認めになるはずはございません。すぐにこの、失礼極まりない状況を打破出来ます」
確かに、アボット商会の人が直接届けてくれた手紙とか……それからフレディが直接駆け込んできた時とかは、手紙や情報のやり取りが早かった。つまりあれは夫の監視をかいくぐれるという事だ。
ギブソンもアーリーンも、その目には強い光がともっている。その光は怒りだ。ただ他人へ不愉快さを解消するためにぶつける怒りではなく、それは義憤と表現するに相応しいものだっただろう。
確かにアボット商会を通じて領地にいる義両親に連絡すれば、夫の私への冷遇は解消される事になるかもしれない。まあ、義両親が夫の肩を持つ可能性も別に皆無ではないが、それはアーリーンたちの前でわざわざ言う必要もないだろう。
だが……だがそれは。
「ギブソン。アーリーン。きっとこの事は貴方たちにとって不愉快極まりないと思うのだけれど……義両親には、まだこの状況を報告しないでくれないかしら」
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
ギブソンは少しも感情的にならず、私の言葉に冷静な言葉を返してくる。疑問は当然だろう。
「ええ。私ね。――今の生活、悪くないと思っているの」
全く恥ずかしい事極まりないだろうが、それはもう、どうしようもないほど私の本音だった。
「確かに私は女主人として、夫から冷たい扱いを受けていると思うわ。愛し合っていない夫婦はいくらでもいるでしょうけれど、それでもこのような形で放置されている人はそう多くもないと思うの。……でもね、もうあまり気にしていないのよ」
私の中には沢山の思い出がある。夫の事で心を満たして、悲しくなるのは嫌だと最近は思うようになってきた。
「私、正直な所あまり社交も得意ではないの。だから夫が私を連れ回さない事に、感謝もしているわ」
夫に熱烈なアタックを受け、侯爵家に嫁ぐ事になって……相応しくなろうと頑張って社交の練習も取り組んだけれど、私は笑顔の下で色々な事を考えながら会話をするという事があまり好きではなかった。
「今は出来ないけれど……少し前までは、出来る限り人と関わらないようにすれば、外にも出掛けられたもの」
元々は芸術を眺めるのはただの現実逃避でしかなかった。夫の事を考えないで良い時間が少しでも欲しいだけだった。
だが今はどうだろう。全く知らない絵を見て、その世界を考えてそこに足を踏み入れて時間をただ過ごすのが好きだ。沢山の人が力を合わせて一つの物語や音楽を作り上げている奇跡の瞬間を見る事が好きだ。メラニアを始めとした知り合った人々と会う時間が、話をする時間が好きだ。この屋敷で過ごす日々が、好きだ。
「夫に貴族の妻として外に出る仕事を求められる事もなく、ただ好きな事に時間を費やす生活が……正直な所、私には手放し難いのよ。……それに、私の実家は、まだ独り立ちには程遠いわ」
現在進行形で支援を受けて立っている事が出来る状態だ。今ここで夫の行動を明らかにして相手の有責とはいえ離縁する事になったら? いくらお金があっても、それだけで貴族社会を渡っていくのは難しい。少なくとも、出戻りの私は仕方ないとして、妹たちの嫁ぎ先を探すのに苦労する事になるのは間違いなかった。
「あの方は、私に対してはひどい事をなさったとは思うわ。けれど最初に約束した通り、不足のない生活はさせてくれているし、実家の援助も続けて下さっている。……私はまだ、この状態を保ちたいの」
ギブソンとアーリーンの希望とは反対の事を私は言った。きっとライダー侯爵家として考えた時、私の願いは迷惑でしかない。それを分かった上で、私はそっと頭を下げた。
「お願い。どうか、義両親にこの事は、伝えないで」
暫くの間、ギブソンもアーリーンも動かなかった。彼らがこの願いを受け入れてくれるかは分からなかったけれど、私に出来るのは己のちっぽけなプライドを投げ捨てて彼らに請う事だけだから。
「……若奥様。頭をお上げください。我々にそのように、頭を下げてはなりません」
ギブソンが、穏やかな声で私を呼んだ。
私よりずっと年上の執事頭は、隣の侍女頭と目線で会話をしているようだった。しかしそれを私が見たのはほんの一瞬で、私と目が合うと彼はこう言った。
「この屋敷の管理者は、女主人たる若奥様です。若奥様がそれを許容するというのであれば、我々は余計な事は申しません。お約束いたします」
「主人の身と心を守り支えるのが侍女の務めです。若奥様」
ギブソン。アーリーン。
二人の立場は――なんて、今更考えるのはもうやめよう。確かに彼らの雇い主はライダー侯爵家で私ではない。だが少なくとも、直接の雇い主は夫ではないし、夫の行動を肯定した訳ではない。
何より、これまで共に過ごしてきた時間から、私は彼らを信頼できる人々だと思っている。
ぐちぐちと信頼出来ない信用出来ないと言うのは、もうやめよう。……決意しても後々、何かの折にまたそう思ってしまうかもしれないが、少なくとも、今だけは、二人を信じようと強く思っている。それは嘘ではない。
私は感謝を述べて、二人の手を握った。こんな自分の欲ばかりの私の存在を、今だけだとしても認めてくれた二人に心から感謝した。
こうして外にこの事を伝える事はないまま、私は屋敷に籠もって穏やかに冬を過ごした。




