【17】現実逃避
「……いい歌だったわ」
音楽会が終わった後、私は小さく呟いた。
いつもの通り、他の人とは関わらなくてすむボックス席の中には、私と従者のジェロームの二人きりだ。通常、既婚にしろ未婚にしろ、貴族の女性が異性と二人きりで個室にいるというのは問題になる。なので基本的には外を出歩く時は従者や侍女を一人ずつつけたりするのが最善なのだが、ジェロームに対する信頼は厚いようで、彼は多くの場合で一人で私の外行き時の付き人を行っている。
音楽会の本日のプログラムが記された紙を見る。
目玉であった歌手の歌が良かったのは勿論だが、初めの方で歌っていた一人の歌手の歌が印象に残っていた。
「グレンダ・サムウェル……彼女の歌、どうにも聞いた覚えがあるのよ」
「調べておきましょうか」
「ええ、お願いしてもいいかしら」
「かしこまりました」
ジェロームは私の疑問を丁寧に拾ってくれた。
…………さて。
何故私が今日音楽会に来ていたかと言えば、まあ、簡単に言えば現実逃避という物だ。
屋敷に帰ってから一人で考えていたけれど、良い案は浮かばない。一応、王都中の画廊に、今販売できる絵画……出来るだけ価値のある絵画を教えてもらったりしたものの、やはり『小麦畑』のインパクトを超える物はそう簡単に取り扱われない。オークションにでも行けばあるかもしれないが、いくら多少お金が使えるとはいえ、ああいう読み合いが発生しそうな場に行く勇気もない。
そんな日々を数日過ごして、心が疲れてしまった。こういう時は何かに癒された方がいい。……と言い訳して、こうして音楽会に参加したのだった。
とはいえ目的はこれだけではない。
いつものように他のお客さんが殆ど出て行ったのを確認してから、私は音楽会が開催されていたホールを後にした。そして向かったのは『ドロシアーナ』である。
「いらっしゃいませ、ライダー夫人」
入室すると、一番近くにいた店員がそう私に声をかけてきた。
確かに私は何度かここに訪れているが、この店員とは会った事がない……と思う。それでも私の顔が把握されているのは……メラニアのせいだろう。多分。
まあそのあたりはおいておいて。
とりあえず今日の目的を伝えようと口を開き――けれど対応してくれている店員の後方に、この店のデザイナーが姿を見せたのを見て、ゆっくりと開いた口を閉じた。
「ライダー夫人。ようこそいらっしゃいました。本日はどのような御用向きでしょうか」
「わざわざ出てきて下さったの、ドロシア。そこまでする必要はありませんでしたのに」
「いいえ。ライダー夫人は、我らがオーナー夫人の大切なご友人でございますから」
ニコリと微笑んだドロシアに促されて、別室へと移動する。立たせたままというのは問題なのだろう。
「本日は、私の弟妹の服の仕立てをお願いしたくて参りましたの」
ジェロームに視線をやれば、彼はフレディたちの採寸情報を広げた。
あの後、フレディらには現在の採寸を、しっかりと図った物をくれと頼んでいた。それが送られてきた事もあり、こうして約束通り、弟妹たちに誕生日プレゼントを贈る準備を始めたという訳だ。
「あの子たちも年頃ですから、よろしければドロシアに仕立てて……ああ、見立てるでも問題ないのですが、一式、頭から靴までそろえて頂きたいと思いまして」
「なるほど……失礼ですが、ご兄弟の容姿について伺っても構いませんでしょうか。髪の色ですとか、目の色ですとか」
「皆、私とはあまり似ていませんの。弟と下の妹の髪は焦げ茶と言えばいいのかしら。上の妹は、弟たちほど濃い色ではない茶髪ですね。目の色は、私とは違い、皆綺麗なグリーンなのですよ」
「なるほど。ありがとうございます。体格はこちらの情報で大丈夫なんですが、ご兄弟の詳しい年齢もよろしいですか」
「弟が十八、上の妹が十四で、下の妹が今年十二になります」
時間が経つと、一セットなんて言わず、もっと沢山送りたくなってくる。ただ、これで複数送ってしまうとフレディたちとの約束を破る事になるし、何でもかんでも与えるのが良い事ではない。ジェイドたちがどんな所に嫁ぐ事になるかはまだ分からないけれど、お互いに嫁げば、姉妹とはいえあまり過剰な物のやり取りはよくない。……………………うん。そう自分に言い聞かせて自制する。
「畏まりました。お任せくださいませ」
「ありがとうドロシア」
出された紅茶で口の中を潤していると、書類を控えた後、ドロシアがこんな事を言い出す。
「……ライダー夫人、何かございましたか?」
私はゆっくり瞬いてから、彼の顔を見た。
「何かと言うと?」
「少し思い詰めたようなお顔をされておられるように見えましたので……」
そんな顔をしていただろうか。
そんな風に問いかけられてしまえば、脳内に実家の絵画問題が浮かんでくる。
この問題は暇さえあれば浮かんできて、どうしたらいいんだろう、でもどうしようもない、だがどうにかしないといけないと、ぐるぐると思考が同じ渦を回り続ける。
それでも他の事が目の前で行われていれば意識しないですんだりするし、少なくともドロシアーナに着いてからというもの、絵画の事を考えてはいなかったと思う。
それでも何か違うと感じさせる何かが私にあったのだろうかと考えながら、私は表情が出来るだけ相手に伝わらないようにと手持ちの扇を広げて顔の殆どを隠す。侯爵家に入ってから、身に沁みついた癖だった。
扇を広げるのは相手に感情がはっきりと伝わらないようにするためだが、それは相手も分かっているから、扇を広げられた時点で探られたくないというのは分かってしまう。そのせいだろう、ドロシアは私に向かって頭を下げた。
「申し訳ございません、出過ぎた事を申し上げました」
彼の対応に、むしろ私の方が慌ててしまう。不快だった訳ではなく、少し困ってしまっただけなのだ。
「顔を上げて、ドロシア。ただ恥じただけなのよ、自分の事をね」
ドロシアは顔を上げてくれたものの、なんとも雰囲気が重い。
その重さに耐えきれず、早々に帰る事にした。目的は頼み終わっているのでいつ帰っても別に問題はなかった。
馬車が店の前に回ってくるのを見ながら、私は斜め後ろに控える従者のジェロームに声をかけた。
「私、そんなおかしな顔をしていたかしら」
「いいえ、いつも通りだったかと」
ジェロームも不思議そうに首をかしげている。……そう、よね? 私別に、ドロシアーナで悩みを抱えているというオーラなんて、醸し出していないわよね、と自問自答しながら馬車に乗り込んだ。
ドロシアはわざわざ店の外まで出てきて、私の乗った馬車が去っていくのを見送ってくれた。あからさまな上客扱いに少し気恥ずかしさも感じてしまう。だが実際のところ、メラニアに連れられてドロシアーナに初めてやってきた日から贔屓にしているのだから、ドロシアーナの人々がああした対応を私にするのも当たり前の事なのかもしれない。商売というのは、人との縁を蔑ろにすればあっという間に潰れてしまうとメラニアが言っていた。一時のみ成功する事はあるかもしれないが、長くは続かないとも。
屋敷はもう目前、という時だった。突然、馬車が止まった。どうかしたのだろうかと不安を覚えていると、ドアがノックされてジェロームの声がした。
「若奥様。少し道がぬかるんでいたようです。調えますので、少しお待ちください」
「分かったわ」
数日前に少し雨が降っていたので、その跡だろうか。不思議に思いながら私は馬車の中で待った。
……暇だ。
こういう時、同性の傍付きの人がいれば車内に乗り込んでもくるので話し相手になるが、ジェロームは異性なので中には入ってこない。今度からやはり同性の使用人も誰か、外に出掛ける際に付いてきてもらった方がいいだろうか。でも今までジェロームだけで問題は起きていないし……と一人で考えていると、ドアがノックされた。
「出発いたします」
その声の後すぐに、馬に出発の合図を送る鞭の音がして、馬たちの足音が鳴り響き、馬車が動き始める。そのまま数十メートル、屋敷の石壁の横をまっすぐに進んだ馬車は、敷地内に入るべく曲がった。
何の気なしに窓の外を見ていた私は、つい先ほど自分たちが通ってきた道に視線が向いていた。水たまり一つない道は乾ききっていた。
馬車を下りて屋敷に戻り、私は着替えるべく屋敷の中を歩いた。廊下を歩いていた時、ふと、何かが足りないと気が付く。立ち止まり何が足りないと感じたのか考えた。私が答えに気が付くよりも先に、侍女頭のアーリーンがこちらに駆け寄ってきた。アーリーンの後ろには泣きそうな顔をした年若い侍女がいる。
「申し訳ございません、若奥様。こちらの台座に置いていた花瓶なのですが」
そう言われて、この廊下に置かれていた花瓶が無くなっているのだと理解した。
「ガナーシュの花瓶……何かあったの?」
ガナーシュは陶芸家の名前だ。色々な陶芸品を作っており、グレボー美術館で開かれる展示会に度々作品を出展している。陶芸の柄が特徴的で、小さな野菜が沢山描いてあるものや、一見別の物に見えるが、よく見ると魚に見えるようになっている花瓶など、不思議な柄で人気を得ている。
確か、ここにおいてあったのは一見花が描かれている普通の絵柄だが、よくよく見ると花の茎が花瓶の底に繋がっていて、底には何故か林檎が描かれていた。どうしてそうなったのかは分からないが、分からないのが面白くて買ってきたのだった。
てっきり、掃除中に落としてしまい、割れたのかと思った。それなら後ろにいる若い侍女が泣きそうになっているのも理由が付くからだ。怒っていないと伝えるためにも、私はアーリーンに落ち着いたトーンで話しかけたのだが、彼女の返事に言葉を失ってしまった。
「実は……先ほどまで若旦那様が戻ってきておられたのですが、その際にこちらの花瓶を気に入られてしまい、持っていかれてしまったのです」
ヒュッと喉が鳴る。
若旦那――私の、夫。
もうだいぶ長い事顔を合わせていない、屋敷に来る事も滅多になかった人が今さっきまで来ていた……。
そして花瓶も持って行った……。
「申し訳ございません、若奥様! そちらの花瓶は、わ、若奥様が購入された物だとご、ご説明したのですが、若旦那様はお聞きになられず……つ、妻の物ならば自分の物だと……!」
若い侍女が必死な声色で弁解した。
どうやら夫がガナーシュの花瓶を手に取った時、対応した侍女が彼女だったようだ。
アーリーンが前に出て謝罪しようとした彼女を抑え、頭を深く下げた。
「若奥様の私物を、若旦那様とはいえ、無断でお渡ししました。最終的に許可を出したのはわたくしでございます。どうか処罰はわたくしに」
「そんな! 違うんです、わ、私が、私がわ、若旦那様にご説明できなくて!」
アーリーンは落ち着いて、頭を下げ続けている。その横で若い侍女が狼狽えて涙をこぼしていた。
その二人がうまく視界に入らない。頭が動きたくないと言っている。だが私がこのまま立ち止まり何の指示も出さなければ、困るのは二人だ。
ゆっくりと呼吸をして、私は優しい声色を心掛けながらアーリーンに頭を上げるように命令した。
「アーリーンをどうして処罰するの? 若旦那様が花瓶をご希望されていたのでしょう。お渡しするのは当然だわ。貴女も、そんな風に泣いては駄目よ。これがお客様がいる所なら、侯爵家の使用人は……と言われてしまうかもしれないわ。アーリーン、ガナーシュの花瓶は他にもあったわよね。それをここに置いてくれる?」
「かしこまりました」
「あ、ありがとうございます、ありがとうございますっ」
私はアーリーンたちと別れて自室に帰り、ジェマに手伝われて外出用の服から、室内着に着替えた。そのまま部屋に置かれている横長のソファに倒れこんだ私に、ジェマが慌てて近づいてくる。
「大丈夫ですか、若奥様!」
「……ごめんなさい、ジェマ。驚かせてしまって……。大丈夫よ、少し足が疲れてしまっただけだから……」
「では足のケアの準備をしてまいります」
「いいえ。大丈夫。いらないわ」
「ですが」
「少し……少しだけ、一人にしてもらってもいいかしら?」
「……かしこまりました。何かありましたら、すぐお呼びください」
ジェマが出て行った後、私は侯爵夫人に相応しくない体勢でソファに倒れたまま、そっと顔をクッションに押し付けた。




