【16】これはただの自己満足 (メラニア視点)
少し過去との矛盾が出たため、一部過去の話を訂正しています。
「もう、もうもうっ! あの子ってば、本当に、もうっ!」
「なんだメラニア。不機嫌だな」
家に帰って地団駄を踏んでいると、聞きなれた夫の声がした。
振り返ると、上着を脱ぎながら歩いてくる夫のショーン・アボットの姿が目に入った。
「ショーン! 帰っていたの?」
「ああ。ただいま、メラニア」
「おかえりなさい、ショーン」
ショーンは上着を使用人に渡し、私の肩を抱き寄せるとそっと頬に口付けを落とす。私もお返しと、髭がこすれるのをくすぐったく思いながら夫の頬に口付けた。
「それで。俺の奥さんは、どうしてそんなに不機嫌なんだ? 今日は大好きなアナベル様に会いに行ったはずだったろう。出掛ける時はあんなにご機嫌だったじゃないか、“アナベルが誘ってくれたのよ”って。喧嘩でもしたのか?」
「してないわよ! 喧嘩でもしてたほうが良かったわ! ねえショーン。この話は他言無用よ、絶対よ。お義母様にだって言ったら駄目なんだからね。言ったら貴男の髭を全部引き抜いてやるんだから」
「おいおい随分過激だな」
ショーンは私の腰に腕を回すと、軽く抱き上げながら、くるりと回転させてソファへと移動した。
「俺の髭に誓って、誰にも話さないさ。さ、教えてくれ、何があったんだ」
私はショーンの肩に頬を乗せた。
やはり私個人で出来る事は多くない。事を解決するには、少なくとも夫に相談する事は必要だ。
商売人は口が軽いとよく言われるが、確かにショーンはよく喋る。それでも彼が、秘密にすると言った事を外に喋った事は一度も無い。だからこそ私は彼を信頼し、話した。
「アナベルのお父さんが騙されて、偽物の絵をつかまされてしまったのよ」
「それは災難だ」
「アナベルは……なんとか家族を助けようとしてるの。事情があって、買った事を秘密に出来ないから、せめて、偽物を買った事がどうでもいいような話題を作れないか話し合ってたのだけれど、二人ではいい案が浮かばなくって。それで、カンクーウッドのブロック館長様の所へ行ったのよ」
「あの方の所にか。会えたのか?」
「ええ勿論。言ったでしょう、ブロック館長は、アナベルを気に入ってるって。王族を通すような貴賓と対話する部屋に通されたのよ、私たち」
「それは随分だな」
「それで相談していたのだけれど、ブロック館長が個人的な伝手に頼るって言ってくださったのに、アナベルったらそれを断ったの! 迷惑をかけられない、申し訳ないって!」
「…………頼りたくても頼れない館長の伝手を断ったかぁ…………」
「ね、ありえないでしょ。あの子ったら! 自分一人で抱えてどうにも出来ないから私に相談したんじゃないの、二人でもどうにも出来ないからブロック館長を頼ったんでしょ! それなのに断るなんて、もう! もうっ!!」
「どうどう。落ち着け私の小さな天使。……でも、むかつくが、助けるんだろう、彼女の事を」
ショーンは全部分かってるんだぞ、という顔をして私を見下ろした。
私は夫の胸に頬を押し付けた。
「だって、友達なのよ、初めての友達なの…………」
■
私……メラニア・エディソン・アボットは、エディソン伯爵家の令嬢として育った。けれど今の私を見て人々が想像する幼少期とは、かなり違った育ち方と性格をしていた。
幼い頃、私には兄が一人いた。
兄と私は一歳しか年が違わず、よく遊んだものだった。
私たちは仲の良い兄妹だった。お互いが唯一の遊び相手だったのも影響していたかもしれないが、それでも仲が良かったと記憶している。
私たちの母は異国の人で、言葉は少し不自由していたが、父との夫婦仲は悪くなかった。いや、良かった。祖父母も仲の良い夫婦で、私は、我が家は幸せな家庭そのものだと思っていた。
その幸せを壊す原因となった一つが、母と祖母の嫁姑関係が悪かった事だ。
――幼い頃は理解出来なかったが、大きくなった後に聞いた話では、父は社交で知り合った人に母を紹介されて結婚に至ったそうだ。当主の祖父はそれを認めたが、祖母は前々から父を別の女性と結婚させようと考えていたらしく、その願いが叶えられなくなった苛立ちを母にぶつけていたのだ。
うまく祖父や父、私たちに隠れて母に嫌がらせをしていた祖母に対して、母はただひたすらに耐えていた。他国にきて信頼できる人が少なかったせいもあるかもしれないが、元来の母の性格が大きかっただろうと娘の私は確信している。母は控えめで、自分より他人が幸せを感じて喜ぶ人だった。自分の事を理由に頼るのが極端に苦手な人だった。
そんな嫁姑関係も、母が最初に兄を――父によく似た嫡男を産んだ事で、いったんは収まりを見せたそうだ。
だが、兄が六歳、私が五歳の時、私たちが揃って熱病にかかり、兄は亡くなった。私は生き残ったが、虚弱体質になってしまった。
この事で我が家はめちゃくちゃになってしまった。
嫡男を失った事を祖母は、「母親の胎が悪く体が弱い子供が生まれた」と母を責め立てた。時には寝込む私の看病をしていた母の所まで来て罵った時もあった。
それまでは祖母は気難しいながらも普通の祖母だと思っていたから、母に向かって化け物のような顔で唾を飛ばす祖母の姿に、ベッドの上で私は随分恐怖を抱いた。
祖母の圧力や現実的な問題も考えて、母と父は新たな嫡男を求めて、何度も努力を重ねたらしい。だがうまくいかず、そのうち母まで体調を崩しがちになった。
その頃には父も祖父も、祖母の嫁いびりに気付いていて、なんとか防ごうとしたもののうまくいかなかった。
結局、祖父が責任をもって祖母を地方の領地で面倒見ると決まり、祖父母は王都を去っていった。
残ったのは父母と私だったが、母は精神的に疲弊して、寝込みがちになった。それに加え、長らく祖母から子供について罵られたせいで、私を見ても精神のバランスを崩すようになってしまい、私とも会えなくなった。
突然兄を失い、自身も少しの事で体調を崩すようになった私は、母を求めたが、どれだけ騒いでも母とは会わせてもらえなかった。
「ごめんなメラニア。お母様は、私たちが不甲斐なかったから、おばあ様にいじめられて、疲れてしまったんだ。暫くの間、一人で休養しなくてはならないんだよ」
父はベッドの上で泣く私の手を握って、そう言った。
兄を失い、母とも会えず、父は忙しくて中々来れない。そんな中で私は成長していった。
ベッドの上で、いつも誰かが来るのを待っていた。使用人たちは病弱な私に丁寧に接してくれていたけれど、どこかよそよそしく、私が欲しかったものではなかった。寝込みがちになってすぐの頃、ベッドの脇に座って私の手を握り子守唄を歌ってくれたお母様。熱で魘される私の額の布を替えてくれたお父様。二人に会いたかった。傍にいて欲しかった。でもそれを口にして、二人を困らせたくはなかった。
起きているよりも、寝ている方が好きだったかもしれない。体が弱い事は嫌だったけれど、寝ている間の私は元気でどれだけ走り回っても熱を出さず、お兄様もお母様もお父様も傍にいてくれたから……。
――結局父と母の間に新たな子供は出来なかった。父は愛人を囲って子供を産ませたりする事を好まず、兄を亡くした今、次の後継者として考えられたのは私だった。数は少ないが、この国では女性が爵位を継承する事も許されているからだ。
……ただ、私は当主として相応しくなかった。女だとかの以前に何よりも、すぐに体調を崩し寝込む病弱な人間に、次代を繋げるのか? と疑われたからだ。
結局、私が十二歳を迎えても体調が安定しない事を理由に、父は自分の従兄の子の一人を養子としてもらい受ける事にした。父は一人息子で、父の従兄まで範囲を広げないと家を継げる人間がいなかったのだ。
新しく出来た義兄は、私から見れば、私の祖父と義兄の祖父が兄弟という関係に当たる。また従兄妹というのだったか。少し距離はあるものの、父系での血の繋がりがあるので、彼が養子として我が家に来てエディソン家を継ぐのに問題はなかった。
「これから兄妹としてよろしく、メラニア」
そう挨拶をした義兄の声は平坦なものだった。それに少し、尻ごみした。彼は悪い人ではないのだけれど、同時に何か冷たく感じられていたのだ。
後にその冷たさは、ただ義兄が貴族らしい人だっただけだと分かるのだけれど、五歳の頃からずっとベッドで生活していた私にはすぐには分からなかった。
だが彼が養子として家に来た事によって、エディソン家には変化が訪れた。私自身も彼の在り方に強い衝撃を受けた。
それまで私は父のやり方に強く反論などした事がなかった。
父に歯向かうなど考えた事もなかった。
ずっとベッドの上で、母に会いたい、父にもっと会いに来て欲しいと心の中で思うだけだった。父はこの家の最高権力者であり、誰もが彼の決定に従った。
義兄は違った。彼の考えにのっとり、納得できない事についても何度も質問を繰り返した。間違っていると思った事にはすぐ反論した。その行動の良し悪しはさておき、堂々と臆する事なく父に訴える義兄を見て、思ったのだ。
私はもっと自分の思いを伝えても良かったのではないか。
父と本当の親子でない義兄が、父と正面から対等に会話をしている。最終的な着地点は父の決定通りになったり、義兄の訴えが通ったりしているが、どちらにせよ二人は話し合って、ちゃんと答えを出している。結果ではなく、過程のあり方が、義兄と私では全く違った。
私は…………今の私は、昔の母と同じだったと思った。きっと。
自分が我慢すればいいのだと誰にも助けを求めず、そのくせ誰も助けてくれないと思い、そして自分が耐えきれない所まできて自滅する……。
義兄との様子を見ていて思ったのだ。父は確かに、母のほんの少しの変化から嫁姑関係が悪い事を察する事は出来ない人だった。でも話せば、母が早い段階からきっちりと話していれば、相談していたら、ちゃんと対応してくれていたのではないかと。
ただ思いに多少の変化が出ても、私の体は弱いまま。調子のよい日は屋敷を多少歩くことが出来たが、そこではしゃげば次の日には熱が出てベッドに逆戻りだ。
少しずつベッドの上でも本を読んだりするようにはなったが、それだけ。変わりたい・変わろうという思いと、どうせ無理だと言う思いがずっと心の中で渦巻き続けていた。
このまま一生をエディソン家で過ごすのだろうか? と悩んでいた私だったが、十三歳を迎えた頃に転機が訪れた。それを持ってきたのも、義兄だった。
彼は医療の進んだ他国から薬を取り寄せたのだ。
我が国では浸透していない薬のため、父は最初飲ませる事に反対していた。もし薬のせいで私が死んでしまったら……という思いがあったのだろう。
だが私は元気になれるのなら、元気になりたかった。昔みたいに外を駆け回れるようになりたかった。そのチャンスをふいにしたくなかった。
二人がかりで父を説得し、私は義兄が取り寄せた薬を飲んだ。
薬は緩やかながら効果を発揮して、十四歳を迎える頃には私は健康な体を手にしていた。長年私を見ていた医者も、薬の効果を認めざるを得なかった。二年前からは考えられないほど私は健康で、走り回っても、はしゃいでも、熱を出して寝込むなんて事はなくなった。
私が健康になった事で、母と私の関係も進んだ。長年互いに触れないようにしていたけれど、もう逃げたくないと思ったのだ。私は父の反対を押し切り母に会いに行った。
「お母様。メラニアです」
「……メラニア……? どう、してここに。また熱が出てしまうわ、早く部屋に帰りなさい」
私の顔を見ても母は取り乱さなかった。だが視線はまともに合わず、さっと視線をそらされる。私は母の言葉を無視して、ベッドに座っている彼女の横に腰かけた。
「お母様、私もう元気になったのです。熱なんて、もう二週間も出していないのですよ」
その言葉に母はやっと私の顔を見た。私は不思議な気持ちで母の顔を見つめる。
酷くやつれた顔だった。記憶の中の母は頬がふっくらしていて、いつも柔らかく微笑んでいたのに。それから、あんなに大きかった手のひらも、体も、こんなに小さかっただろうかと考えた。
「お義兄様が薬を用意してくださったのです。お父様から聞いていませんか? お陰でこんなに元気になりました!」
「…………そう、彼が」
「ええ」
言葉が上手く続かない。ともかく今日は、お互いに取り乱す事もなかっただけでいいだろうと考えて立ち上がる。
「……お母様。私、これから毎日会いに来ますね」
「そんな事、する必要がないわ……私になんて…………」
「どうしてそう決めるの? 私がお母様に会いたいの。ベッドにずっと寝ていると、辛いじゃないですか。誰かに会いに来て欲しいじゃないですか。誰かとお話したいじゃないですか。私はそうだったわ。だから私、お母様と沢山話したい……ううん、話すって決めたの」
母から強い拒否がなかったから、私はそれから毎日母に会いに行った。長く部屋に居座る日もあれば、短い日もあったけれど、時間を過ごし、少しずつお互いに口を開いていく内に、母との間にあった溝が埋まっていくようだった。
――それと並行し、私には、今まであまり出来なかった令嬢教育を施される事になった。十六歳のデビュタントに間に合わせるためだ。初潮も迎え、医者からも子供を作る事は問題なく出来るだろうと言われた。私にあった問題点は解決された。
今まで迷惑をかけた分恩返しをするのだと私は努力し、家庭教師たちからも合格を貰った。
そうして迎えたデビュタントの日。
私は初めて見た人込みに臆して、部屋の端に立ち尽くしていた。
殆ど出来ていなかった淑女教育に集中した結果、このデビュタントが殆ど初めての外出になってしまったのは、悪手だったと後悔するも、時すでに遅し。家族や教師以外の人とまともに話した事のない私は、誰に話しかけたら良いか分からない。話す内容も浮かばない。誰かと話をしなくては、エディソン家の令嬢として恥ずかしくない振る舞いをしなくては――そう思えば思う程、動けなかった。
あの頃の私はまだ、臆病だった。
「人が一杯で、目移りしますわね」
そんな私に声をかけてきたのがアナベルだった。
横を見れば、ひと昔前の古いドレスを着た自分より背の高い令嬢が、私を見下ろしてニコリと微笑んでいた。軽く男性よりも背の高い女性を見たのは初めてでびっくりしたが、令嬢はなんて事ないように言う。
「デビュタントは華やかになると聞いていましたけれど、ここまでとは思いませんでしたわ……ああごめんなさい。名乗っていませんでしたわね。アナベル・ブリンドルと申しますわ。お見知りおきを」
「め、メラニア・エディソンですわ。よろしくお願いいたします」
アナベルはあれこれ喋る事もなく、そのあとはなんとなく私の横に立っていた。
私も行くところがなく移動もせず立っていたのだが、ふと、少し離れた所の令嬢たちがクスクス笑っていた。その視線が明らかに私を見ていたような気がして、つい、耳をすませた。
「まあ、見てくださいませ。あちらのご令嬢、ご存知?」
「いいえ存じ上げませんわ。初めて見る顔ですわね」
「知らなくても仕方はありませんわ、彼女はあれだそうですわ。病弱なエディソン伯爵家のご令嬢様!」
「ああ、あの! 体が弱いのに無理をしてデビュタントとは、家族も酷い事をなされますわ」
「仕方ありませんわよ。デビュタントをしていなければ結婚も出来ませんでしょう?」
「まあ! 病弱なのに結婚など出来ますの? 子供など産めませんでしょうし、産めても体が弱くては、ねえ」
「でもエディソン伯爵家は、養子に入られた方が継ぐのでしょう。その方にとったら、血の繋がりの薄い病弱な娘など、残った方が邪魔ではありませんか。追い出したく思うのは当然ですわ」
カッと頭に血が上った。
確かに私は体が弱かった。でももう健康になったし、医者は子供も問題なく作れるだろうと言ってくれている。
義兄の行動の中にはそういう意図もあるかもしれないが、元気になりたいというのも務めを果たしたいと思ったのも、私の希望だ。何も知らないくせに……!
明らかな侮辱の言葉に震える私だったが、彼女たちに文句を言いに行く勇気もなく、けれど移動しては逃げたようになるだろうからと、立ち尽くしていた。
その時、私の横にいたアナベルが動いた。彼女の体は細かったが、デビュタントを行う令嬢たち特有の際立った丸みのあるスカート部分のお陰で、噂話をする令嬢たちから私の姿はスッポリ隠れてしまった。
「あちらで飲み物が頂けるそうですわ。エディソン様、よろしければ共に貰いに行きませんか?」
「は、はい」
なぜか勢いで頷いてしまったが、そのまま私とアナベルは噂話の令嬢たちから離れて行った。去る直前に後ろに耳を傾けると、彼女たちの噂話は私からアナベルに映っていた。
「まああの古臭いドレス! あのご令嬢はどちらの家のご令嬢でしょうか」
「さあどこだったかしら。名前は忘れてしまいましたが、あれでしょう。借金だらけの貧しい貴族の令嬢でしょう」
クスクス、アハハ。
そんな意地の悪い笑い声を振り払うように、私はアナベルについていった。そっと横を歩く彼女の顔を見上げたが、アナベルは普通の顔だった。後半になるにつれて彼女たちは声を潜めていなかったので、最後の方はアナベルにも十分聞こえたと思うのだが、彼女の態度は「聞こえていません」という態度だった。
ドレスは古そうなイメージなのに、凛とした態度に、私は感銘を受けた。きっと貴族とはこういうものなのだろうと、そう思ったのだ。
それから私とアナベルはよくパーティで会った。
過度の病弱というレッテルのついた私と、実家が貧乏故に妻の家からは援助も望めないだろうと考えられたアナベル。私たちにも招待状が来るようなパーティは傾向が似ていたのだ。
義兄は私がアナベルと仲良くするのには否定的だった。関わった所で益など無かったから、貴族的な考えで言えば義兄は正しい。でも私はアナベルが好きだった。
図太いかと思えば、家への悪口に頭を悩ませたり。
他人を想って本当の真心で行動したり。
貧しい生活でも、家族を大切に思っていたり。
あと、お金がないから、私の誕生日に花冠と押し花を送ってくれたり。
そういう一つ一つが大切な思い出だった。
私は、アナベルが好きだ。――結婚し、二人とも立場が変わり、沢山の人とも知り合った今でも、大事な友達だと思っている。
理由なんて、極論、どうだっていいのだ。
ただ彼女の人柄に惹かれて、友人でいたいと。彼女の傍にいたいと……そう思っただけだったのだから。
最終的に義兄も私の友人関係には口を出さなくなり、好きにすればいいと放置してくれた。
……結婚する時は流石に、アナベルに嫉妬はした。
だってアナベルは、貧乏伯爵家から、名門侯爵家に嫁いだのだ!
まるで物語のヒロインのように、王子様のような人に一目惚れされて結婚するのだ。女の子として、そのシチュエーションには嫉妬ぐらいするし、羨ましいとも思った。
まるで対照的に、私は結婚相手を自分では見つけられず、義兄の斡旋で義兄より年上のショーン・アボットという平民に嫁ぐ事が決まった。
父は最後まで義兄の提案に反発して他の結婚相手を選ぼうとしていたようだけれど、未熟ながらに義兄の選択は正しいと感じた。
まず、そもそも自力で結婚相手を見つけたり、申し出を受ける成果を残せなかった私が悪いのだ。
そして健康になったとはいえ、長年病弱だったというレッテルは今更消えない。好条件の貴族の人間と結婚するのは難しいだろう。年が離れていたり後妻としてなら探せただろうが、父はそういう相手は外していたらしい。唯一の娘が幸せになるようにと思ってくれているのは分かったが、いくらなんでも嫡男の妻にねじ込むのは、無理だ。その条件では余程の事がないと、私との結婚を選ぶ者はいないだろう。
だが平民ならその限りでもない。
貴族と関係を得る事を望んでいる平民ならば、相手が少し瑕のある令嬢でも気にしない。
そして大事な貴族への窓口である嫁の実家を慮るために、嫁そのものに対しても丁重に扱うだろう。
……これは義兄が私に説明した、ショーン・アボットを選んだ理由だったが、なるほどと思ったし、義兄なりに私の将来を考えてくれているのは伝わった。貴族の令嬢として父親といった家の権力者が決めた結婚相手と結婚するのは普通の事だったので、誰だってよかった。
一つ、残念だったのは、これまでのようにアナベルとは会えなくなるということだ。いつか立場が変われば、会えなくなるかもしれないのは分かっていた。だが、片や未来の侯爵夫人、片や平民商人の妻。私たちはもはや釣り合わない。結婚してしまえば、二度と会えないかもしれない。
だからアナベルの結婚式に参加出来ただけ、本当に良かった。
――結婚後、アナベルの話は全く聞こえなくなった。
私が平民に嫁いだからかと思ったのだが、義兄に聞いた所、あまりに夫が妻を愛するあまり、外出させていないと聞き不安を覚えた。
夫婦の形は色々だと思う。どんなものでもお互いに納得できているのなら、周りは何も言えないとも私は思っている。
ただ、アナベルはその形に納得したのか? 大丈夫なのか? 理由のない不安が私の心に芽生えたのだ。
とはいえ、私自身も慣れない商人の妻としての生活が始まり、他人を気にする余裕はなくなっていった。
今までとは全く違う生活だった。
義母は男たちと並んで仕事をこなすし、口もガンガンに出す。夫はそんな義母と綱引きをしながら、毎日イキイキと仕事をしている。
私にも様々な仕事が任されるようになり、私なりに仕事に取り組んだ。失敗もしたし、なんとか無事に終える事が出来た事もあった。
初めての事ばかりで不安はあっても、不思議と不満はない。
義母も夫も、よく言葉にする人たちで、仕事の方針、判断から家の家事までよく言い争っていた。
だが相手の話は聞くのだ。気がすむまで言葉で戦って、最後にはお互いに妥協して答えを出す。そんな彼らは、私が口をひらけばちゃんと耳を傾けてくれた。後を思えば気を遣ってくれていたのだと思うけれど、二人のお陰で私は他人に臆する事なく自分の意見を言えるようになった。
最初は距離のあった使用人や店で働いている人々とも距離が近くなり、夫人夫人、メラニア様と呼び慕ってくれるようになった。
忙しくも充実して、幸せな結婚生活だ。
ほんの少し落ち着いた頃、商人として参加していたサロンの一つでこんなうわさを耳にする。
「そういえばこの前、音楽会でライダー子息の奥方を見かけたのですよ」
ライダー子息――侯爵子息の、奥方。アナベルの事だ。
違和感のないように聞き出すと、ちらほらと音楽会、美術館、劇場などでアナベルの目撃情報が上がっている。
しかし義兄に確認すると、どうやら社交界に出始めた訳でもないらしい。
何かが起きている。それを確信しながら、私は夫のショーンからも許可を得た上で、アナベルにコンタクトを取った。
再会した時、私は愕然とした。
王子様のような格上に請われて嫁いで、幸せになっているのだと思っていた。
そんな友人は酷くやつれた、生気のない人形のような顔で私に向かって、引きつりながら口角を上げて笑ったのだ。これが初対面ならただ陰気な人と思われて終わりだっただろう。だが私は前々から彼女を知っていて、控えめながらもよく笑う彼女を知っていた。だからこそ落差の大きさに衝撃を受けた。引きつったような声で「メラニア」と名前を呼ばれた時、何があったのかと問い詰めそうになる心を必死に抑えた。
アナベルの後ろにはライダー侯爵家の従者がいる。
彼から変に思われる訳にはいかなかった。
その後はアナベルの違和感をあえて無視して、かつてと同じように接した。話をしていても、アナベルが今の生活について聞いて欲しくないのはよく分かった。
またねと別れたものの、アナベルはまたなんて来て欲しくなかっただろう。
どうするべきなのか。どうしたいのか。何も分からなかった。
アナベルと別れて家に帰ってから、ずっと悩んでいた。そんな私に夫のショーンは声をかけてくれた。
「友人と何かあったのか、メラニア」
ショーンには事前に、アナベルとの思い出を話していた。だから彼に今更一から説明する必要はない。
結婚した友人が幸せに見えない。でも手を出していいのか分からない。友人や、場合によっては友人の家族に迷惑をかけてしまうかもしれない。どうしたら良いのか。
そう、曖昧に呟く私にショーンは軽く笑って言った。
「恐れ多くも平民の身分で次期侯爵夫人に手紙を出して呼び出してるのに、今更尻込みか? うちの新人に言葉とマナーを叩き込んでた勢いはどこ行ったんだ。うちのババアがその顔を見て尻叩きに来る前に、腹括っておくんだぞ」
――それもそうだ。
危険かも知れない薬を飲んでまで、健康を手にしたのは元気になりたかったから。
嫌がっていたかもしれない母に会いに行って話したのは、もう一度昔みたいに母と過ごしたかったから。
義兄に良い顔されなくてもアナベルと過ごしたのは、彼女が好きだったから。
全部私の、勝手な行動だ。でも後悔はしていない。だって私は心からそうしたかったから!
その後も私は何度も何度もアナベルに会った。たぶんアナベルは私に会いたくなかったのだと思う。笑顔は硬いし、会話も重い。でも構わなかった。私が、彼女に会いたかったのだ。
アナベルは少しずつ、昔のように笑ってくれるようになった。その変化を見て後ろに控える従者がホッとしたように優しい目で見つめていて、少なくとも彼はアナベルの事を気遣ってくれているのだという事は分かった。
いやその前から分かっていた。アナベルは酷く弱っていたけれど、いつだって彼女は肌も髪も、爪の先まで綺麗にされていた。従者の方もフットマンや御者も、アナベルに向ける瞳は柔らかく親切だった。何か問題は起きているが、それでも彼女は侯爵家で大切にされていたのだ。
それから時間をかけて、アナベルは随分と元気になったのだ。
やっと昔のように……貧乏だろうと、幸せそうに笑っていた頃に、近づいたのに。
■
……そこに今回の問題が起こった。
相談をしてくれた時は嬉しかった。頼ってもらえたと思えた。
でもやっぱり私一人では力不足で、多少の打算もあり、ブロック館長を尋ねた。彼ならばなんとかしてくれる策を出してくれるかもしれないと。
だが、相談までは良かったのだけれど、途中で彼女は急に態度を変えてしまった。どこが切っ掛けだったか分からない。だがあそこまで相談して、今更気にしないでくださいはないだろう! どうやって気にしないでいろというのだ!
あの、他人に迷惑をかけまいとする性格はなんだろう。何が原因なのか。長女か、長女だからか。長らく一人っ子のように育ち、いたとしても上の人間しかいなかった私と違い、アナベルは昔も今も、下に守らなくてはならない弟妹がいる姉のままなのだろう。
「それにしたって、自分一人でどうするって言うのよ~~~! 『小麦畑』を超える作品なんて、すぐすぐ手に入る訳ないじゃな~い!」
私がソファを両手で叩くと、ショーンは背中をさすってくれた。
「『小麦畑』は厳しいなぁ~。だがメラニア。手段がない訳でもないぞ?」
「……え?」
ショーンの言葉に私は驚いて、夫を見た。
彼は私より随分年上なのに、悪戯好きな少年のように、白い歯を見せて笑った。
「まあ聞いてくれ。勿論、君が気に入らなければやらないが」
そう前置きしてから、ショーンは私の耳元で彼の考えを囁いたのだった。




